奇蹟(前編)
はじめは地震のような振動だった。やがてゴゴゴゴゴと音を立て血が大聖堂の足跡からにじみ出し、すぐに巨大な噴流となった。血は大聖堂から外へあふれ聖地全てを飲み込む勢いで流れていく。
「……ここで今まで流されてきた血だ。聖都よ。今こそ罰を受けるがいい」
やけに物知り顔でアシュドは言い狂信者達や兵士達はただ血の奔流に慌てふためいている。
血があふれる。聖都で今まで流された血が。聖都をめぐる争いで流された血が。うねりのように、潮のように。アシュド・グレイが踏んだ足跡や、城壁の隙間から血が脈々とあふれているのだ。その量は信じられないほど多く、聖都を濡らし聖都の外にある陣地を濡らし、攻城戦に必要な食料を濡らし、使えなくした。
ザルードの将軍は食糧の不足を悟り、すばやくこの地からの撤退を指示し、聖都イシュマエルは守られた。だが同時に聖都は血で覆われ、その機能を失った。血はやがて腐り、虫の群れが聖都を覆った。結果、信仰国家イシュマエルも聖都を一旦破棄し、かくて二百年にわたる聖都の攻防は勝者無く終わりを告げた。腐った血に沈む聖都を残して。
これは結果の話だ。現実にはもう一幕も二幕もある。時を戻そう。
わき出す血に白いローブを汚しながら、信者達は言った。
「ぼ、冒涜者め! このようなものがアシュド・グレイの奇蹟のはずはない! 兵士達、やれ!」
しかし兵士達は今ここにある奇蹟を目の当たりにし、アシュドの神話を恐れて動けない。
「アシュド・グレイ! 逃げるぞ」
声がかかった。灰殺しのリディアだ。抜け目なく槍を持った兵士から佩刀を奪っている。アシュドも頷き、靴を抱えると特に抵抗もなくリディアに続いて大聖堂から出た。それでも血の噴流は止まらない。信者の声も兵士達の声もやがて聞こえなくなった。外に出る。外も血にまみれていた。建物中が血を流しているのだ。
「ここはもう血に沈む。逃げよう、アシュド」
「けど、この事態を引き起こしたのは僕です。だからこそ僕には救わなくてはならない人がいるんです」
靴を履き履きアシュドが言った。
「この後に及んで!」
「ギュスターヴさんとトーニオさんの親子をこの血の海から助けないと」
そう言ってアシュド・グレイはイシュマエルとザルードがぶつかる最前線に向かって走り出す。
「くっ、誰だか知らんが仕方ない」
他にすることもなくリディアはそれを追いかける。
……さらに時間を巻き戻そう。
ギュスターヴは最前線に向けて走っていた。捕らえられていたせいか、体力はごっそり落ちていたがそれでも必死に最前線へ、トーニオのいる場所へ向けて走る。
たどり着いた最前線。高低差を利用してザルードの射手が火矢を放つ。それはイシュマエルが臨時で作った木の防御壁に当たって燃え上がる。それを水や汚水で消すのがかり出された人間――義勇兵の仕事だ。射手は容赦無くそんな人間にも矢を浴びせかける。
トス、トス。
射撃によって一人の義勇兵が倒れた。イシュマエルの兵士が叫ぶ。
「次!」
震えていた少年が持ち手の付いた桶を渡され水をかけに行こうとする。トーニオだ。
トーニオはなんとか水を燃える防御壁にかけることができた。急いで逃げようとする。そこに防御壁の向こうから新たな指令が飛んだ。
「ついでにさっき死んだ奴が持っていた桶も回収してこい」
「え?」
「返事は?」
「は、はい……」
トーニオは死人が持っていた桶を見る。かなり遠くまで飛んで行っている。あれを取る前に一回は必ず狙われる。どうしよう。死にたくない。おばあさん、父親のギュスターヴ。それからマージルの近所でお世話になっている人たち。様々な思いが交錯する中トーニオは駆けだした。桶を拾い味方の陣地の方へ向かって投げる。
一方の射手の方は少年だからと行って容赦するつもりはない。的確にトーニオの体めがけて矢を射かける。
トス。
矢はわずかに狙いをそれ、足を突き抜けトーニオはどうと倒れた。トーニオは救いを求めて味方の陣地を見るが誰も来る気配はない。
一方射手にとっては僥倖だった。このまま生かしておけば助けに来た人間を次々に狙い撃ちできるからだ。とどめの一撃は来ずにトーニオは射手と陣地の間で呻いている。
トス。
じれた射手の第二射がトーニオの左腕を貫通する。トーニオは絶望の悲鳴を上げるが誰も動かない。しばらくして射手たちは目配せをした。このまま生かしておいても、イシュマエルの連中は助けに来ないと。しかたない、射手は慈悲の一射をトーニオの心臓に放とうとし――物陰から走り出す人間の姿に気づいた。
「トーニオーッ!」
ギュスターヴは叫び丸腰のまま息子に向かっていく。足はもつれいい獲物だ。射手は狙いを変えギュスターヴに狙いを定めた。そのときだった。大地が揺れたのは。




