序
春の陽光が差し込む真新しい墓標の前で、まだ少年のあどけなさをその顔に残す青年が、静かに祈りを捧げていた。いや、祈りというには彼の言葉はかなり奇妙な文言であった。青年は優しく墓に向かって語りかけている。聞いてみよう。
「今日はさようならを言いにきたんだ、アシュド・グレイ」
「そうだ、僕は決めたんだ。これから僕が君になる」
「アシュド・グレイ。これからの僕の名前だ」
「壊れた人間として生きて壊れて動かなくなった君よ」
「僕は君の毛皮をこれからかぶろう」
「そう、僕も壊れた人間として生きてゆく」
「壊れて名前をなくした僕」
「その人間(僕)の言葉(名前)をここに置いていこう」
「手向けとして、ここに置いていこう」
そう吟じ、あるいは詠じ、そうして新しくアシュドとなった青年は息を吸い、目を閉じて、天を仰ぐ。
風。風がわずかに吹いている。どうしてわかるとアシュドは自分に問いかけ、わずかの思考で答えに至る。
そうだ、花。花のにおいが漂ってくる。言葉とともに手向けられたのは花。花束を作ったのは自分
だった。朝露の落ちた野辺で目についた花をアシュドで或る前の自分は摘んだのだ。
どこまでも続く青い空と、緑の野原。旅立つには悪くない日だった。アシュドは目を開く。それからまるで海から息を継ぐように、大きく息を吸った。万感の思いだった。そうして、アシュド・グレイはしばらく、無言のままで世界を見下ろしていた。
やがて、祈りに似た儀式を済ませると青年は人知れず墓地を後にした。青年はこれまでの名を捨て、アシュドの名前をこの世から引き継いだのであった。
アシュド・グレイ。この第八十七次仮象幻想世界を灰燼に帰すという化物
の名前を――だ。




