色の消える虹
ある深い森に中に、虹が美しく水面に映る池があった。その池に映る虹は、たとえ空に虹がかかっていなくても、それどころか夜であっても変わらずに光り続けるその不思議さからか、この池に映る虹に願いをかけると必ず叶うという噂まで流れ始めた。
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豊かな自然に彩られた大きな森の中に、沢山の動物たちが仲睦まじく暮らす小さな村がある。そこには、この村の長老でとても目の良いフクロウをはじめ、いつも明るく可愛らしいウサギ、おっとりで力持ちのクマ、小さいながらも勇気のあるリス、美人で面倒見の良いアライグマ、そしてお調子者だが賢いキツネなど、個性豊かな仲間たちが互いに助け合い、毎日楽しく生活していた。
そんな、何の変哲もないこの村だが、実は一つだけ普通でないことがある。なんと、消えることの無い虹が村の上空にかかっているのだ。初めてみる人は大抵驚くが、それもこの村の動物たちにしてみればいつものこと。気にするものは誰一人としていなかった。
ある日のこと、キツネが長老の使いで隣の村まで出掛けると、そこで虹に関する奇妙な噂を小耳にはさんだ。賢いキツネは、すぐに自分の村にかかる虹と関わりがあるかもしれないと踏み、その村の動物たちに話を聞いたりして少し探りを入れてみた。
噂であるだけに人によって内容が違ったりもするが、要するに、消えない虹に願いごとをすると必ず叶うという話のようだ。ある人は噂の出所を世界の裏側だとも言っていたが、真偽のほどは定かではない。
幸い、キツネの住む村に消えない虹があるということは誰も知らないようであったが、村に帰ったキツネはこの話を長老に伝えた。
「消えない虹に願いをかけると叶うという噂が流れていまして、何か影響があるかもしれなので念の為お伝えしておきます。しかし、この村に消えない虹があるということはまだ誰も知らないようです」
それを聞いた長老は珍しく驚き、いかにも困ったという顔をして言った。
「村同士の移動が少なくて助かったわい。もし気軽に村を移動できる時代だったら今頃は大参事じゃろう」
「噂の力は時に想像を絶するほど大きくなりますからね。早急に何か手を打つのがよろしいかと」
「いやいや、そうではない」
そう言われてキツネはキョトンとした。
「何か違いましたか?」
「ああ、その噂は事実なんじゃよ。ただその願いには必ず対価となるものがあり、それは願った本人に降りかかるとは限らない。森が傷を負い、樹は枯れ、病が流行る。もう何十年も前の話じゃ、似たような噂が広まって皆揃って虹に願った。結果は容易に想像がつくじゃろう。実際にそれをみたものはもう私しか生きとらん」
キツネは何も言えなかった。
その日の夜、長老は村の皆を集めてこの話をした。知らずに済むならそれが一番良かったが、噂が広まってしまった今となっては、知らない方が危険だろうという判断だ。
これを聞いての反応は人それぞれだったが、誰ひとりとしてこれを楽観視できるものはいなかった。
それぞれ不安な夜を越し、朝日が昇ったちょうどその頃。村の外れにある池のほとりで、ウサギが一人うつむいているのを、見回りのために飛んでいた長老が見つけた。
ウサギはこの村で一番若い。長い目で見ても不安は大きいだろう。そこで長老は少しでも不安を軽くしてやりたいと思い、岸で水面を眺めているウサギの後ろにスーッと着地して声を掛けた。
「やあウサ...」
「ぴゃあ!」
ウサギは長老に全く気付かなかったらしく、驚きのあまり変な声をあげてぴょんと跳ね、空中で180度回転して長老の方に向き直った。
その途端、着地点が悪かったらしくウサギはバランスを崩し、後ろにひっくり返って池に落ちてしまった。
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いきなり水に落ちてウサギは慌てたが、別に泳げないわけでもない。すぐに落ち着きを取り戻すと、難なく岸まで辿り着いた。
水から上がって身体をふるわせ、目元を拭ってぱっちりとした黒い目を開けると、そこには見たことの無い世界が広がっていた。
いや、見たことが無いというのは少し違うかもしれない。そこはウサギがもともといた所と同じく森ではあり、池には虹も映っていた。
しかし、長老の姿は無く、周りの樹や草の種類が違い、何よりも森の匂いが違う。これらのことから、ウサギは別の場所に来てしまったということを理解した。
そして、ウサギがこの状況にどんな手を打つべきかと考えようとしたその時、長い耳が遠くから聞こえてくる微かな鈴の音をを捉えた。鈴の音は、おおよそ一定のリズムを刻みながら、だんだんとこちらへ近づいてくる。
ウサギは本能的に近くの藪の中に隠れた。
藪から様子を窺っていると、池の反対側から現れたのは一人の人間だった。
その人間は池に映っている虹を見るやいなや、一生懸命に祈りをささげ始める。
「どうか次の戦で一族の仇を、あいつを私に殺させてください」
その祈りの言葉を聞いてウサギは青ざめた。誰かを殺すことを願うというのもそうだが、それ以上に、あれ程の恨みと殺意に満ちた声音は初めて耳にするものだったからだ。
ウサギはしばらくしてその人間が立ち去るまで、ぴくりとも動けずに固まっていた。
ぴんと伸びた耳から鈴の音が消え、ようやく緊張が解けたウサギには、もう早く村に帰ることしか頭になかった。
そして、すぐに来た時の逆をやれば帰れるかもしれなと思い至って湖に飛び込んだ。
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一瞬の息苦しさの後、腕を掴まれる感触があり、気が付いた時には空中にいた。
「いやー、すまんかったの。まあ大事に至らなくて良かったわい。頭上から聞き慣れた声がする」
どうやら、うさぎを助けたのは長老のようだ。長老はウサギを岸におろすと、もう一度申し訳なさそうに謝ってから隣の村へと飛び去った。確か虹の一件について長老どうして話し合いに行くと言っていたはずだ。しかしウサギにとってそんなことはどうでもよかった。平和に暮らしていたうさぎには、池の向こう側に見た世界があまりにも恐ろしく、他のことなど考えられずにびしょ濡れのまま立ち尽くした。
ちょうどその頃、いつもは寝坊ばかりのクマが何か良くない「気」を感じ、はっと目を覚ました。普段ならまだ長老とうさぎしか起きていないような時間だ。どうも嫌な予感がする、大切な何かが失われてしまったようなそんな感じだ。
そんなことを思いながら、熊は大あくびをしのっそりと布団から這い出し、顔を洗いにいつも通り池へと向かった。すると案の定、うさぎが一人異様な雰囲気で佇んでいた。
いつも明るいうさぎが暗い顔をして生乾きの毛をそのままに俯いてピクリとも動かない、これを異常と言わずして何と言おうか。
これもを見た熊はウサギのために何かしなくてはと思ったものの、なんと声をかけていいかもわからなかったので、こういう時一番頼りになるアライグマの元を訪ねてみることにした。
アライグマは面倒見がよく、他人のことをよく慮ることができ、何より優しい。きっとウサギの不可解な行動の原因を暴き、助けてくれるだろう。というか、逆にこういう問題を解決できるのはこの村でアライグマ以外には長老くらいしかいない。
長老が出かけるという話は聞いていたので、熊は早速アライグマの家の扉をノックした。
アライグマは呼びかけるとすぐに出てきてくれた。
「何か御用ですか?まあ上がって、お茶でも飲みながら話をしましょう」
そう言ってくれるアライグマに申し訳ないと思いながらも、クマは彼女の言葉を遮ってまくし立てる。
「すいませんがそれどころじゃないんですよ。うさぎの様子がおかしいんですけど、僕にはどうしてあげたらいいのかも分からなくて」
「何かあったようですね。手短に知っている限りのこと教えてください」
いつもは落ち着きがある熊のあわてっぷりを見て、アライグマの表情も真剣になる。そしてクマから一通りの話を聞き終えたアライグマは、タオルを持って池の方に飛んで行った。
一人残されたクマは言いようのない寂しさを感じながら、そっとその場を離れた。
アライグマが池に着いてウサギを目にしたのは、村を朝を迎え皆が活動を始める頃だった。熊から話を聞いてはいたが、やはり見るのと聞くのとではその印象が大きく違う。
アライグマは内心ことさら真剣になったが、それはおくびにも出さず、いつもの調子で遠くからうさぎに声を掛けた。
「おはよう、ウサギさん。そんな濡れたままでいたら風邪を引いてしまうわよ」
「あっ、アライグマさん。おはようございます」
ウサギは久しぶりに声を出したような気がした。アライグマはウサギが振り向いて目を合わせたのを確かめ、持ってきたタオルでウサギをわしゃわしゃと拭い始める。うさぎは相変わらずぼーっとしてはいるが、 心なしか表情に温かさが戻ってきた様にも見て取れた。
アライグマはその様子を見て一安心したものの、他人にあれこれ言われるのも嫌だろうと考え、何も聞かずに少し一緒にいることにした。この時すでに、アライグマはこの問題を解決できるのは自分だけであろうとどこかで直感していた。
「今ね、ちょうどあなたを探していたのよ」
体を拭き終えてもウサギは放さずに、モフりながらアライグマが言う。
「つい先日、たまにはお菓子でも作って村のみんなに配ろうかと思ったの」
「えっ、本当ですか? アライグマさんのお菓子はとても美味しいですから、私もいつも楽しみにしているんですよ」
「そう言ってくれると嬉しいわ」
アライグマニコニコしながら話を続ける。
「でもたまには少し工夫があってもいいと思ったの。まだ暖かいけどこれからどんどん寒くなるでしょうから、マフラーか何か編んでプレゼントしたらいいかなって思って。もちろんお菓子付きでね」
いつのまにかうさぎの表情はいつも通りに戻っていた。
「そこであなたの手が借りたかったの。手伝ってもらえるかしら?」
「はい、喜んで!」
「決まりね。じゃあ私の家にいらっしゃい。朝食には身体が温まるスープがあるから食べてみてははどう?」
アライグマは、うさぎの手を引っ張って家に連れて行った。笑顔で小さくぴょんぴょん跳ねるウサギを 見て、やっぱりこうでなくっちゃと思うアライグマだった。
ウサギとアライグマは、その日の大半をお菓子とマフラー作りのために費やした。それでも全部が完成したのは、とうに日が沈んでからだった。
「お疲れ様、ウサギさん。何も無理して今日のうちに終わらせることも無かったのよ」
アライグマまでも、少し疲れた雰囲気だ。
「つい楽しくて完成するまでやりたくなっちゃうんですよね、こういうの」
「フフッ、ありがとう。もう遅いから今夜は泊まっていきなさいな」
そう言ってウサギを客室に案内し、アライグマも自室のベッドに入った。
しばらく経って、不意に部屋のドアが小さくノックされた。誰なのかは言うまでもない、ウサギだ。
「入っていいわよ。どうしたの?」
そう言うとほんの少しだけ扉を開けてウサギが顔を覗かせる。
「ちょっと眠れなくて。ご迷惑でなければ少し私の話を聞いてもらえませんか?」
「ええ、もちろんいいわよ。それじゃあ一緒に寝ましょうか」
アライグマがそう言うと、うさぎは静かに布団の中に潜り込んできた。そして、ゆっくりと今朝あったことの一部始終を語った。
程なくしてウサギが話しを終えると、ずっと黙って聞いていたアライグマが一言だけ口にした。
「そんなことがあったの、怖かったでしょう。大丈夫、この村に人間は入れないわ。安心して今夜はゆっくりお休みなさい」
そして、そのたった一言でうさぎは眠りへと落ちていった。
この日もいつもと変わらず空には消えない虹がかかっていたが、この日、その虹は決定的に変わった。昨日は無限の色を持っていた虹は、もう有限な種類の色しか持たなくなったのだ。
しかし眼力に優れる長老でさえも、この変化に気づくことはできなかった。
次の日、ウサギの一件はアライグマによって内密を条件に長老に伝えられ、長老は一時的に他の村の者の立ち入りを制限することを発表した。
それからしばらく少なくとも見かけ上は何の変化も起こらず、これらの話については誰も触れなくなった。皆の心の中にこの話はもう終わりにして早く忘れてしまいたいという共通の意識があったから、それがより強く働いたのかもしれない。
しかし、この話は終わってはいなかったのだ。
それから数週間後、アライグマとウサギの作ったマフラーが村を彩り、秋も深まった村には風邪が流行り始めていた。最初は特に何の疑問も持たなかったが、それがなかなか治らない。
その異常性に初めに気付いたのは、やはり長老だった。
彼がふと空を見上げた時、なんとなく変という程度に覚えた違和感からその原因を特定したのはさすがというほかない。あるいは、信じたくなかっただけで内心薄々気づいていたのかもしれない。
虹の色が、減っていた。
長老は遠い昔の記憶を鮮明によみがえらせられた。
虹は願いを叶える度に色を失う。目視できるほど色が減っていたら、それは虹からの最後の勧告だと思った方がいい。実際、村の皆の体調も悪化する一方だ。
唯一状況を理解している長老は直ちに村全員を呼び集め、虹の色が減った理由について説明した。虹の色の急速な減少、長老によればこれは多くの人々が虹に願いを掛けた結果らしい。
しかし仮に、村人が毎日何が願ったとしてもここまで減りはしない、それくらいの規模であるらしく、原因は必ずこの村ではない別のどこかにあるという結論になった。
そう、ここで思い出されたのはうさぎが池を通って別の世界に行ったという話だ。
もちろん知っているのは長老とアライグマと本人だけだが、三人はもう原因はこれだと確信していた。結局、集会では原因は分からずじまいだったが、別世界の存在を知る三人は相談をし、最終的にはリスに湖の向こうの調査を長老が依頼した。
わざわざ長老一人が直接依頼したのは、可能な限り池が別の世界に繋がっているという話を内密にしたいという配慮の表れだ。
リスが選ばれたのにはいくつか理由がある。まず第一に勇気があるということ、そして小さい体は他の誰かに見つかりにくいということの二点だ。リスは体調が優れない中でも、村のためにと引き受けてくれた。
そして決行の時、長老と協力しリスは人目につかないタイミングを狙ってこっそりと池に入った。
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陸から這い上がると、そこは文字通り別世界が広がっていた。森は開かれて林道が通り、多くの人間が入れ替わり立ち代わりやってきては何かに願い事をしていた。
リスは空を見上げた後、再び視線を池に戻してあることに気づいた。空に虹がかかっていないのにも関わらず、池には虹が映っているのだ。
この不思議な現象をリスは理解することができなかったが、これが全ての原因であり、これを伝えれば良いということは何となく感覚的に分かった。しかし調査である以上、見落としがあっても困る。念のためと調査を続行したが特に成果は無く、リスは来た時と同じように、目立たぬようそっと池の中に入った。
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リスが無事に村に帰ってきて調査結果を報告すると、長老は全てを諒解したという表情で、まっすぐ池に向かった。
そして長老は初めて虹に願ったのだった。
池に虹が写らないようにしてくれと。
時は流れ、村には平穏が戻った。
池に映ることのなくなった虹は、いつしか無限の色を取り戻していた。