最近、わたしのことをサンドバッグか何かだと・・・
くらくらしながらも、今度は意識を失わなかった。
殴られ慣れしたのかもしれない。
とはいっても、すぐに立ち上がって応戦するとか、逃げ出すとか出来るほどではなかった。その場に倒れ込んで、じっとしていた。いや、じっとするしかなかった。
「手加減しただろうな。」
男の声が言った。そう言えば、この声には聞き覚えがあった。いまさら気付くなんて、ますますもって間抜けだけど。
「したわよ。この女が頭を使って、ここへ例の物を持って来なかった場合を考えてね。」
あ、なるほど。その手があったか。何処かに置いてきた、と言って、裕樹のキーホルダーでも渡してやれば良かったのかもしれない。今となっては、最初から取り引きをする気がこの二人には無かったと、わかったわけだけど。
「だけど、そんなに賢い女じゃなそうだな。ほら、あれじゃないか?」
「どれ?」
そう言いながら、二人はわたしの乗ってきた車を覗き込んでいるようだった。チャンスは今しかない。頑張るのよ、奈々。
自分で自分を励ましながら、わたしは立ち上がろうともがいた。丁度、運良くドアが開いて死角になった。ふらふらしながらも、わたしは立ち上がった。彩子達が何を見て、「あれ」と言ったのか分からないが、あの車のなかには裕樹の持ち物は何一つない。裕樹の持ち物といってもキーホルダーと携帯しかないけど、その両方ともわたしのポケットの中にある。
わたしは音をたてないように、そうっと逃げ出した。暗闇に潜んでしまえば向こうからは見えなくなる。そんなに距離をかせぐ必要はない。重要なのは、いったん決めた場所から動かないことだ。身じろぎ一つしなければ、暗闇と一体になれる。少しでも動けば音が出るし闇が揺らぐ。
とにかく今は、やつらに見つからないようにすることだった。田辺を助けるためには、まずやつらから逃げ出さなくては駄目だ。わたし一人では、まともにやって勝ち目はないのだから。
「おい、あいつは何処に行った?」
男の声がした。わたしがいなくなったことに、ようやく気がついたらしい。
「え?何を見ていたのよ。逃がすなんて。」
彩子の声だ。
「姉貴が気絶させた、って言ったじゃないか。」
「姉貴って呼ばないでよ。やくざじゃないんだから。」
彩子はいらいらしたようにそう言うとライトをつけた。わたしのいる方向とは全然違う方を照らし出す。一条の光は闇のなかに消えていった。
ふと、あのライトは、湖の中から見た光なのだ、と思い出した。それなら大丈夫。あの光はわたしを助けてくれるはずだから。根拠はないけれど、そう一生懸命に思うことにした。ライトで発見されるプレッシャーに負けて動き出してしまったら、それこそわたしの負けだ。
「これじゃ駄目ね。」
あっさりと彩子はライトで探すのをあきらめた。
「そんなに遠くじゃないはずよね。」
「ああ、そうだろうな。」
「それじゃあ、あいつがあれを持っているなら、すぐに見つかるわよ。」
聞き捨てならないことを彩子は言った。「あれ」をわたしが持っているなら、すぐに見つかる・・・・。
とてもくさい、とか?
そう思った瞬間、わたしは、はっと気がついた。
彩子は裕樹の携帯を探していたのだ。車の中で見つけたのは、わたしの携帯だったのだ。裕樹の携帯に何があるのかは分からないけれど。
次の瞬間、わたしは慌てた。
彩子が見つけられる、と言ったのは、携帯を鳴らす、と言う意味だ。わたしは、慌てて携帯に手を延ばした。電源を切らないと。
それは最悪のタイミングで鳴り出した。ポケットから引き抜いて、ボタンを押そうとした瞬間、一番高く鳴り響く瞬間だった。
わたしは立ち上がり、やみくもに走り出した。追いかけてくるのは、音でわかった。
とにかく、一歩でもそこから遠くへ走らなくてはいけないと思った。けれど、それは簡単なことでは無いと、すぐにわかった。なぜならそこは、林の中で夜だったからだ。頭上の木々は薄明るい月の明りをほとんどさえぎっていた。ゆっくりと這うように進むのならともかく、駆け抜けていくには暗すぎた。そのうえ、平らなところなど全く無かった。
こういうところを走るのに必要なのは視力ではない。勘だけだ。だいたいの予想で足を出す。
すぐにわたしは足をとられてふらついた。その度に何処か枝に顔や腕をひっかかれた。こんなところを走るなんて、赤外線スコープでも着けていなきゃ出来るわけが無い。
後ろは振り向かなかったけれど、ライトの明りと足音で追いかけてきていることはわかった。
3度目に足をとられて、足首をひねった。激痛が駆け抜けた。わたしは、それでもかろうじて姿勢を崩さずに走り続けた。もう、枝や何かわからないものに顔や腕を傷つけられることは感じなくなってきていた。どっちの方角に走っているのかもわからない。
4度目に足をひねったとき、バランスをとるために出した左足は空を切っていた。そこには地面が無かった。少なくとも、わたしの予想していた高さには無かった。
急に倒れ込む、というのはジェットコースターが急に落ち始めるのに良く似た感じだ。お腹の下の方がすうっとする感触だ。ジェットコースターのそれは、気持ちがいいけれどこれは決して気持ち良くは無い。痛みを伴うことがわかっているからだ。とっさに腕をついて地面に転がった。不思議と痛みは感じなかった。アドレナリンのせいだろう。
すぐにわたしは立ち上がった。足首は強烈に痛んだ。アドレナリンも効かない。いや、それもひっこむような痛さだった。そして、わたしは二人に追いつかれた。
「いい加減に、してよね。」
彩子が息を切らせながら言った。わたしは答えなかった。皮肉の一つも言いたかったけれど、それは口から出てこなかった。それよりも恐怖が頭の中を支配しはじめていた。ここで殺されるのかもしれない。でも、2メートル程の距離を置いて、ふたりは近寄ってこなかった。ただ、じりじりと包囲するようにふたりはわたしの左右に回り込んだ。不思議だった。一気に取り押さえられてもおかしくないのに。
「それを渡してもらいましょうか。」
彩子はそう言った。
「それって、何よ。」
わたしは、ようやくそれだけ言った。
「裕樹の携帯よ。」
当り前、と言うように言った。わたしは、再び恐怖を感じていた。それを渡した後、わたしは死ぬのかもしれない。後退りしようとして足を引いた。砂がざあっとこぼれる音がした。不思議な気がして振り返った。ばしゃばしゃ、と小石が水の中に落ちる音がした。そこは崖だった。わたしは、物理的にも心理的にも追い詰められていた。
「さあ、早く。」
彩子がせかした。わたしは気が遠くなってきた。出血していたわけではない。ただ、目の前で起きている現実が実際に起きているのだ、と認識するのを脳がやめてしまったようだった。わたしは、のろのろとポケットに手を伸ばしてそれをつかみだした。雲が切れて月が湖面を照らした。携帯は銀色に鈍く光っていた。わたしは我に返った。
「渡すわけにはいかないわ。」
わたしは、落ち着いた声でそう言った。そうなのだ。彩子達がわたしを無理に押さえ込もうとしなかったわけがわかったのだ。
「それ以上近づいたら、これを湖に放り込むわよ。」
彩子はうんざりしたようにうめいた。
「田辺君を連れて来なさいよ。それからしか渡せないわ。」
彩子はちらっと男の方を見た。男はじりっとわたしのほうへ近づいた。わたしは携帯を高く掲げた。
「一歩でも近づいたら投げ込むから。」
彩子はふふっと笑った。
「そのあと、あなたを殺してやるわ。」
「そう、じゃあ、一緒に飛び込むわ。」
「その下がどうなっているか、知っているの?岩があるのよ。木も。」
「関係ないわ。あなたに殺されるよりはましよ。」
暗闇のなかでふっと彩子が力を抜いたのがわかった。
「わかったわ。彼はある倉庫に閉じ込めてあるの。そこへ電話するわ。」
「電話?」
わたしは思わず聞き返した。それなら何故、田辺はその電話で助けを呼ばないのだろう。彩子はわたしの言葉を無視して自分の携帯のボタンを押した。通話状態になったのを確認してそれをわたしに投げた。わたしはそれを二人を監視しながら拾い上げた。
「もしもし。」
わたしはそれに向かって声を出した。
『あ、奈々先輩ですか?』
気の抜けた田辺の声が聞こえた。その場の緊張には似合わなかった。
「何処にいるの?」
『何処か、暗いところです。何も見えなくて怖いです。』
「どうしてその電話で助けを求めないの?」
『あの、これ、プッシュボタンが壊れているんです。』
それはなんとも手回しがいいことだ。
『あの、奈々先輩。いつ助けに来てくれるんですか?暗くて気が狂いそうです。』
「すぐにいくわ。」
彩子が大きく手を振った。わたしは何かの合図かと思って男の方を向いた。
「もう、いいでしょう?彼は今のところ生きているわ。でも、早くしないと死ぬわね。」
不気味に笑いながら彩子は言った。
「死ぬ?どうして?」
「酸素が無くなるからよ。完全に密閉してきたから。」
「なんてことを・・・。」
わたしは絶句した。その声が聞こえたらしい。電話の向こうから悲痛な声が漏れてきた。
『早く来てください。そう言えば、さっきから息苦しいんです。』
「わめかないで。興奮すると酸素が早くなくなるわよ。」
わたしは、思わずそう言ってしまってから、田辺にそんなことを言ったら、余計に心配させるだけだと気がついた。
「わかったわ。」
わたしは、裕樹の携帯をゆっくりと差し出した。
「彼は何処にいるの?」
彩子はゆっくりと近づいて来る。
「ここから道路に出て湖の奥へ行ったところ。最初の角で左折するの。その先に倉庫があるわ。鍵はここにある・・・」
言い終わらないうちに、わたしは彩子に突進した。彩子がバッグから取り出した鍵をひったくるように腕を掴むと、そのまま彩子を押し倒した。慌てて男が掛けよってくる。そこに、わたしは携帯を投げつけた。たぶん彩子の方だったと思う。鍵をつかむために、裕樹の方は地面に落していたからだ。案外に、彩子は抵抗しないで鍵を渡した。わたしが携帯を投げ捨てるのを見ていたのだろう。わたしはそのまま走り出した。




