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杉並大学探偵事務所  作者: カダシュート
瞑想は水底に沈んで
89/92

今回のわたしは油断しすぎだと反省します

 ひどい頭痛で目が醒めた。

 最初に目に入ったのは、地面とそこに生えた草だった。文字通り、草が目に刺さるように飛び込んできて、わたしは思わず首を振った。

 激痛が走って、わたしはすっかり意識を取り戻した。この頭痛のしかたは尋常ではない。

 脳内出血しているんじゃないか?このまま放っておいたら、死ぬんじゃないか?

 そう思っていると、以前にもこういう痛みを味わったことを思い出した。つい、最近だったような気がした。ほんの2、3日前。

 あの時も大丈夫だったから、きっと今回も大丈夫だろう。

 まるで根拠は無かったが、わたしはそう思うことにした。しかし、起き上がる気にもなれなかったから、わたしはそのままの姿勢で辺りを見回した。

 まず見えたのは黒いマフラー。

 冬の防寒具の方ではなくて、車の排気管の方だ。

 それから、タイア。それと足。見た覚えの無い靴をはいていた。泥に汚れた黒い革靴。ズボンはゴルフ用スラックス、って感じ。車体の下から見えただけだから、限られた部分しか見えていなかったけれど、その足が相対的に言って長く無い、とわたしはその時断言できた。

 吉岡だ。

 その足は車の方を向いて時々ズボンが揺れていたから、ドアを開けて、中で何かしているんだろう。

 それを視界のすみに捉えたまま、さらに首を回した。

 町田の姿は無かった。

 ってことは、車の中にいるんだろう。吉岡にとって、女のわたしよりも男の町田の方が脅威に見えたに違いない。先に縛りつけるなり、息の根を止めるなりしようということなんだろう。ズボンが揺れるということは、まだ何かをしているということだから、町田は死んでいない、ということだ。殺すなら、わざわざ車に載せるないだろう。今は生かしておくことにしたのではないだろうか。

 じゃあ、急ぐ必要は無いかな。

 それよりも状況を把握することのほうが大切だ。今のところ、わたしの方をうかがう素振りは見せていない。車の中で町田を動けなくすることに熱中しているのだろう。

 ゆっくりとわたしは上体を持ち上げた。頭ががんがんする。

 見回したが武器になるようなものは無かった。素手で戦って勝てるだろうか。

 望みは少ない気がする。

 いくら、相手がわたしよりも身長が低いからと言っても、わたしが勝てるという理由にはならない。第一、わたしには武道の経験だってないのだ。はっきり言って、けんかは苦手だ。第二に、頭がくらくらしてまともにも立てない。

 とはいえ、何もしないという選択肢はない。

 戦って勝ち目が無いのなら助けを呼ぶしかない。

 わたしは音をたてないように立ち上がり、そうっと走り出した。音を立てないように草の生えている部分だけを踏んで、砂利は避けた。振り返ると辺りを見回している吉岡の姿が見えた。

 もう、気がついたのか。

 わたしは、走り易い場所を走ることにした。頭はがんがんする。

 緑の壁に囲まれて、道は1本しかない。砂利と泥と草の道は走りにくい。しかし、それは吉岡にとっても同じことだ。

 せめて、もう30分遅い時間だったら。

 日は傾いていたけど、辺りは充分に明るかった。

 それにしても、わたしも町田もあまりにも不注意だ。裕樹の車のところに、誰もいないなんておかしいんだから。吉岡は尾行に気がついて、わたし達を待ち伏せしていたんだろう。少し考えれば分かることだ。注意が足りない。それに相手はおっさん一人、と油断しすぎだった。

 息が上がって、苦しくなった。タバコもお酒もやめなくちゃ。

 車一台がやっとという幅しかない道の両脇は深い草むらだ。飛び込んでも、たいして奥には進めない。スピードが落ちれば、すぐに捕まるだろう。走り続けるしかない。そう思った瞬間、目の前に飛び込んできたのは吉岡のカルディナだった。思わず、ドアノブを引いた。

 開いた。意外でも無かったが。来たときに見たはずだった。キーはついていたはずだった。しかし、そこにキーは無かった。つまり吉岡は、このあたりに隠れていたということだ。キーがついていたのを見た時点で気付いていてもよかった。わたしは再び走り始めた。町田の車はすぐそこだったが、アパートの鍵も忘れないやつだ。車にロックしないはずが無い。と、思った瞬間、足をとられてわたしは転がった。草だったのか石だったのか、どうでもいいことだ。素肌の腕に小石が食い込んで、わたしは声を上げた。一回転して、起き上がろうとして、そこに吉岡が追いついた。わたしは再び地面に押さえ込まれた。

「離して。」

わたしは、思わず叫んだ。吉岡は、ぜいぜいと息をしながら、わたしの髪をつかみ、馬乗りになった。頭だけが引き起こされて、吉岡の脂ぎった顔が見えた。

「元気のいいお嬢ちゃんだ。」

それだけを、ようやく言うと、大きく息をしながら、わたしに口臭を浴びせかけた。髪の毛を引っぱられて、痛かった。

「離して。」

「やかましい。」

その言葉と同時に平手が飛んできて、わたしは頬に熱いものを感じた。涙が込み上げてきた。わたしは、地面に顔をつけて、それをこらえた。

「いい加減に、して、もらわんとなあ。」

吉岡は息を整ええるように大きく息をしながら、そう言った。

「どいつもこいつも、勝手ばかり言い、やがるわ。おまえもあの男も。」

再び髪を引っぱられて、わたしは悲鳴を上げた。そのまま吉岡は立ち上がった。わたしも立ち上がるしか無かった。と思った途端、突き飛ばされて何かに背中からぶつかった。吉岡のカルディナだった。わたしは崩れるようにそこに座り込んだ。顔は上げていたが、もう何も見えていなかった。正確には、見えているものに意味があるように思えなかった。何もかも、遠い世界の出来事のような気がした。吉岡が近寄って来た。ここで死ぬのかもしれない。

「もう一つのブツってのは、何処にあるんや?」

わたしは、ぼうっと見ていた。

「答えろ。」

再び平手が飛んできて、わたしは車の脇に倒れ込んだ。すぐに髪を引っぱられて引き起こされた。

「何処や?」

反対の方向に殴り飛ばされた。もう、両方の頬が熱かった。血の味がした。

 Tシャツをつかんで、吉岡がわたしを立たせた。目の前に脂ぎった顔があった。汗もかいていた。気持ち悪くて目をそらせた。そのまま車に叩き付けられた。うめいた。

「何処や?」

車と吉岡の顔にはさまれて、わたしは身動きがとれなかった。はさまれていなくても、もう動く気力は残っていなかったけど。吉岡は腕に力をこめた。Tシャツは襟首が伸びた。

「答えんか。」

吉岡が言った。

「知らないわ。」

わたしは、ようやくそれだけ言った。

「車の中か?」

「そうよ。」

わたしは、答えていた。でも、それ以上は知らない。

「ブツってのは、なんなんや?」

「分からない」

わたしは、つぶやくように言った。

「わからんちゅうのはどういうことやねん?」

吉岡が掴んだTシャツを思い切りひっぱった。それは音をたてて破れた。そういえば、今日のブラは黒のレースだった。もっと色気の無いのにすればよかった。

 そんなことを頭の中をよぎった瞬間、わたしはまだあきらめていない、と気がついた。わたしは、おもいきり膝を持ち上げた。

 嫌な、感触がジーンズを通して伝わってきた。吉岡がうめいてわたしから手を離した。両手でそれを突き飛ばした。それから、最初に目についた足元の石ころを拾い上げて投げつけた。その時、手袋をしたままのに気がついた。わたしって、どうしてこういう時にそういうくだらないことばかり気にするんだろう。

「このあま、め・・・。」

脂ぎった上に汗の顔をゆがませて、吉岡は前屈みに立ち上がった。額が切れて血が出ていた。さっき投げた石が当たったのだろう。こういう時、わたしのコントロールは抜群だ。普段、キャッチボールは大の苦手なのだけど。

 もう一つ、石を投げつけて、それから走り出した。何か、武器になるものは・・・・。

 振り返ると、吉岡はうずくまって、頭を押さえていた。前にも言ったけど、こういう時のコントロールは抜群なのだ。

 すぐに、青いインプレッサが見えてきた。わたしは、迷わずそれに向かって走った。リアのハッチは開いていた。

 そこに飛び込んだ。

 内側から勢いをつけて、それを閉じる。バスン、と音がして閉まった。なんて頼もしい音なんだろう。ガラスと鉄に囲まれて。車の中というのはとても安心する。

 とはいえ、ゆっくりしている暇は無いので、わたしはリアシートを乗り越えて運転席に這って行った。リアシートには、町田がいたが、縛られてもがいていた。生きている証拠だ。放っておいていいだろう。

 通れなかったので、ふんづけてしまった。

 運転席に頭からたどりつくと、電動のドアロックボタンを押した。シュッと音がして鍵がかかった。そこへ、吉岡がやってきて、ドアノブをひっぱった。開かないと知ると、今度は叩き始めた。大丈夫、車のガラスは、その程度では割れない。

 ポケットから、キーホルダーを取り出して、それをイグニッションに差し込んで回す。エンジンは気持ちよく目覚めた。体の向きをかえ、運転席に座り、ギアをバックに入れた。アクセルを床まで踏み込む。その時吉岡が何処にいたかなんて考えもしなかった。

 インプレッサは4輪駆動の性能を発揮して、泥に埋った前輪なんて問題にもしないで動き出した。あちこちで、バキバキ、だとかガリガリ、だとかっていう音がしたけど。たぶん、車の下が地面にこすったのだろう。ドアミラーが枝を折ったのかもしれない。それから、バンパーとかが、吉岡を引き倒したのかも。ものすごい勢いで車は幅のせまい道を横切って、向こう側に落ちた。吉岡は倒れていた。

 エンジンをかけたまま、わたしはしばらくそれを見ていた。少しだけ、このままこの車で轢き殺してしまおうか、と思った。でも、そうはしなかった。それが殺人犯であろうとも、わたしには裁く権利は無い。憎しみや怒りで裁きを行うのは、現代人のやることではない。少なくとも、わたしはそういう人間になりたくない。わたしは車から降りた。

「死んだりしてないわよね。」

2メートルの距離を置いてわたしは声をかけた。

「あほう。右足を轢かれたやないか。」

そういう吉岡の顔には脂汗が浮かんでいた。もっとも、わたしは同情する気にはなれなかったけど。倒れたまま起き上がれない吉岡に触れようとも思わなかった。

「天罰だと思ってあきらめなさい。」

「ええ根性しとるわ、お嬢ちゃん。いつかひいひい言わしたるさかいな、覚えとれや。」

わたしは、ゆっくりと首を振った。

「そう言うなら、もう一度、車で轢いてあげましょうか。今度は頭なんかどうかしら?」

「冗談が過ぎるで。」

吉岡は顔を歪ませた。ひょっとしたら笑ったのかもしれない。痛みで表情が作れなかったのかもしれない。

「裕樹は、ジョークなんかないままに殺されたわ。あなたにね。」

「いつ、そういうことになったんや?わいはちゃうで。証拠があるんかいな?」

「ここへ、わたし達を案内した時点で自白したようなものよ。」

ひきつった顔のまま、吉岡は笑った。ひいひいと、息の漏れる気持ちの悪い笑い方だった。

「そんなんは、証拠にならへんわい。」

「そうかしら。」

「そうや。そうに決まってる。動機かて無いやろ。」

「動機なら、あるわ。」

「なんやて?」

「あなたは、裕樹にいいように使われるのが気に食わなかった。おいしい部分だけ持っていくような裕樹のやり方がね。そうじゃないかしら。」

「ま、確かにあいつはろくなもんじゃなかったわ。わいの人生、みなそうや。損な分だけ回ってきよる。出てった女房かてそうや。勝手に男こさえて。短足で不細工に生まれたわいが悪いんや。最初から損なところばっか、わいに回ってくるように星が決まっとったんやろなあ。」

「そうやってひねくれるから、損な役回りをすることになるのよ。」

わたしは、くるりと身動きできない吉岡に背を向けた。

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