インプレッサ
それは唐突に林のなかに現われた。
ダークブルーの車体は輝きを失ってはいなかった。道にお尻を向けて、前のめりになっていた。道から強引に林のなかに突っ込んで行ったような感じ。裕樹のインプレッサだった。
それから、わたしは気がついて、慌てて周りを見回した。吉岡の姿は無かった。
「何処へ行ったんだ、あいつ。」
町田がつぶやいた。
「さあ。それより、この車動かせるかしら。」
わたしは、注意深く4つのタイアを眺めながら言った。
「無理じゃないか?前輪なんか泥に入ってるし。第一、押すにも車の前には回れないだろう。」
「あら、押す必要なんてないわよ。」
「そうだな、サイドブレーキがかかっているようだしな。」
汚れかけたサイドウインドーから車内を覗き込んでいた町田が言った。
「違うわよ。キーがあるんですもの。」
「なんだって?」
「裕樹の部屋から、スペアキーを持ってきたの。ほら。」
そういって、わたしはポシェットからキーホルダーを取り出した。
「いつの間に・・・。」
町田は唖然として言った。
「それより、開けてみましょ。」
それから、わたしは草むらに入りかけた。
「気持ち悪そう・・・。」
「奈々、テールゲートから入ったら?」
町田が、車の後ろを指して言った。ワゴンの後ろ扉から入れ、と言っているのだ。
「そうね。」
わたしは、キーを握り締めて、車の後ろに回った。
一度も使われたことの無さそうな、削りたてのようなスペアキーは少しの抵抗を指先に感じさせたけど鍵穴に入った。あっさりと扉は開く。
「奈々、これ。」
町田はそう言いながら、ズボンのポケットから薄手の手袋を取り出した。
「一応、これは重要証拠だろうから。おれ達の指紋を残すわけにはいかないだろ。」
「用意がいいのね。」
「このくらい、当り前だよ。」
町田は、少し照れ臭そうにした。わたしは、靴を脱いでラゲッジルームによじ登った。
「ところで、ブツはなんだろうな。」
「たぶんCD-Rじゃないとすればなんだろう?」
「そうだな。」
町田はわたしのうしろから車のなかを覗き込むようにしていた。手は触れないように気をつけて。彼は手袋を一組しか持っていなかった。
「吉岡達が見つけなかったんだから、シートの下とか、そういうところなんじゃないか?」
そういいながら、車内をぐるりと見回した。わたしは、とりあえず後部シートをよじ登って前に出た。
あの時、見たままの、裕樹の車だった。余計なものが一切ない。ごみも落ちていない。CDの一枚も置いてなかった。わたしは、ダッシュボードのグローブボックスを開けた。車検証とかが入っているところだ。
そこにも、当り前のものしか入っていなかった。車検証や保険の書類の入ったビニールのファイル。それから、携帯電話。車と一緒に無くなった物、と刑事の西口が言っていたっけ。電源は入っていなかった。とりあえず、それはポケットに入れた。
「アスト、トランクの下を調べてくれない?」
わたしは車の外に向かってそう言った。
「わかった。」
わたしは、シートを倒して、そこに腹ばいになった。シートの下に何かないか、と思ったからだった。
「おーい、奈々。」
外で、町田の声がした。
「何よ。」
「おれ、手袋無いから、触れないんだけど。」
そうだった。
「わかったわ。じゃあ、待ってて。」
シートの下には、ざっと見た限りでは何もなかった。何処かに縫い込んであったりするのだろうか。手探りで、シートの裏を触ってみたけど、手袋越しではよく分からなかった。まどろっこしい思いで、わたしはさらに顔をシートの裏を見える位置まで下げようとした。しかし、思うようには見えなかった。諦めて、他を探す気になったとき、物音がした。
「どうしたの、アスト?」
顔を上げると、町田の姿は無かった。
「アスト?」
起き上がって、トランクのほうへ這い進んだ。そこは、トンネルの出口のような、そんな感じだった。車が、前傾していたからそう思ったのかもしれない。いずれにしても、次の瞬間、思いがけない衝撃でわたしは気を失っていた。
吉岡が戻ってきて、町田とわたしを棍棒で殴りつけたのだ。
気を失っていたから、それは夢だったのだろう。
目の前に、死んだはずの裕樹が立っていた。わたしは、床にあおむけに倒れていた。
「裕樹・・・・。生きていたの?」
わたしは、ぼうっとしたまま聞いた。
「いや。」
裕樹はつぶやくように答えた。それから、ふうっと消えていった。わたしは、慌てて起き上がろうとしたが、体が自由に動かなかった。立ち上がろうとしても、何かに引き戻されるように床に倒れ込んだ。部屋の壁がぐるぐると回る。
白い。白い部屋だ。
テレビやカレンダーや本棚は無いのだろうか、と思った瞬間、それらは現われた。それは、何処かで見たことのある家具だった。
「洋一・・・・。」
とても懐かしい。
「奈々。おいで。」
何処からか、声がしてわたしは振り返った。洋一の姿は無くて、彼の使っていた椅子があった。大学のレポートを書いていた洋一を思い出した。
「洋一・・・。生きていたの?」
わたしは、またそう聞いた。
また?
「奈々も来ればいいんだよ。おいで。」
洋一は優しくそう言った。
「何処にいるの?洋一?」
ふらふらしながらも、わたしはようやく立ち上がり、声のする方へ歩き出した。
「洋一?」
洋一の部屋は小さなワンルームだったから、すぐに入り口のドアにたどりついた。ドアを開けると、蝉が鳴いていた。
「洋一?」
声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。ふらふらと歩きながら、部屋を出た。
「こっちだよ、奈々。」
「何処にいるの?」
蝉の鳴き声が遠ざかった。
「もう一歩踏み出したところだよ。」
辺りは、急に暗くなり、アパートは消えて無くなった。
「もう一歩、踏み出したところだよ、奈々。」
わたしは、歩き出そうとして、足元を見た。
深くて、暗い、崖だった。




