マーサ・ミッチェル
「じゃあ、とにかくアストの立ち回りそうなところへ電話してみる?」
そうわたしが聞くと、田辺は頷いた。
「アスト、彼女っていたっけ?」
「いいえ、いません。別れましたから」
「一年生の子?」
「えっと、そのあとの子です」
「誰?」
「たしか人妻だったような・・・」
「え、本当に?知らなかったわ」
「言っては駄目だったでしょうか・・・」
そんなことを、わたしに聞かれてもね。
「その人妻の電話番号はわかる?」
「いえ、さすがにそこまでは・・・。奈々先輩、宣戦布告ですか?」
「なんで?」
「町田先輩を取られないように」
つまり、わたしがアストと付き合うの?どうしてよ。
「居場所を知りたいんでしょう、アストの」
「そうでした」
そんな馬鹿な会話をしていると、サークル室のドアがノックされた。
「開いているわ」そう声を掛けると、おそるおそる、という感じでドアが開いた。田辺も振り返った。ドアの影から顔を出したのは、ごっつい革のジャケットを着た女だった。ほら、バイクライダーがよく着てそうな感じの。いくらなんでも季節からいったら早すぎ。
「奈々さん?」
誰だっけ、と思い掛けて、この前の錯乱女だと気がついた。デニーズの前で道路の真ん中へ飛び出していた人。
「いらっしゃい。名前は・・・まだ聞いていなかったわね」
彼女が眠っている間にバッグの中を調べたことは黙っていた。あらためて名前を尋ねるのは酔っていて忘れていた。
「由香です。奈々さんよりも、年下なので、呼び捨てでいいです」
「田辺くん、そこのソファー開けてもらえる?」
「え、あ、はい」
急いで田辺は自分が座っていた場所を開けると、ご丁寧に手でほこりを払ってみせた。
そんなこと・・・なんだか汚いソファーみたいじゃない。
そりゃあ、きれいじゃないけどね。
ソファーに、またしてもおそるおそる座ると、由香は落ちつかなそうに辺りを見回した。
「どうしたの?」
虚ろな目だった。なにか、おかしい。言動といい目の色といい、何かがおかしい。なんでだろう。
「ここの壁・・・コンクリートですよね」
「ええ。そうだと思うわ」
「じゃあ、いいですけれど」
「コンクリートじゃないとまずい?」
「はい。聞かれてしまいますから」
わたしは田辺と顔を見合わせた。田辺は、座るスペースが無くて壁際に立っていた。
「誰に?」と短く尋ねる。しっかりと目を合わせると、迷っていたように見えたがぼそぼそと話し始めた。
「誰だかわからないんです。盗聴されているような感じなんです」
頷く。先を促してやるとためらいがちに話す。
「声が、時折、聞こえます。ひどいことを言うんです。死ね、とかそんなこと。ひょっとしたら寝ている間に手術されちゃったのかも」
変な話を始めたのだ、ということはわかっていた。でも、それを「頭、おかしいわよ」と言ってしまうと助けにはならない。わたしは人の話は途中で切らない。いちおう、探偵事務所なのだし?
「友達の誰も信じられないんです。声が言うんです。わたしの友達が、本当は何を考えているのか」
「例えば、どんなことを言うの?」
それには答えずに、由香は田辺をちらちらと見始めた。田辺のほうは、じっと由香を眺めている。耳が三つあるうさぎでも見ているような感じで。
「田辺くん」
彼は振り向いて、わたしを見た。
「なんですか?奈々先輩」
「アストを探してきてくれない?前に付き合っていた子にも協力してもらって」
「人妻ですか?」
「じゃなくて。その前の一年生の子」
「ああ」
「じゃあ、お願いね」
そう言うと、わたしはドアを指差した。田辺は、ちらちらと由香を見ながら、ドアから出て行った。
由香の口から出た言葉からは、彼女がパラノイアだ、ということしかわからなかった。つまり、妄想とか幻覚とか。ちょっと前までは精神分裂病と言われていた病気の一種のうち、比較的高年齢で発生するという妄想型のパターン。と、わたしの持っていた本には書いてあった。今は、精神分裂病という語感が悪いので名称が変わっている。そんな感じ。
由香が言うには、彼女に誰かが魔術をかけていて、目に見えない小さな虫が彼女の耳に入ったりする。それは彼女に周囲の友達や、見知らぬ他人の本音を話す。「本当は嫌われているんだよ」とか「化粧が変だ」とか・・・。その虫は天然素材のものに弱くて科学繊維には付きやすいから彼女は革ジャケットを着ているのだとか。
まあ、こういうのは頭から否定しても本人が強く信じているから意味が無いのだ。わたしが出来ることは、精神科を紹介することぐらいかな、とも思う。
ジョークで言っているんじゃない。取り返しのつかないところまで行ってしまう前に病院で治療を受けた方がいい場合が多いのだ。
「それで由香さん。わたしに何をして欲しいの?」
わたしは、彼女の話が終わると、そう言った。もちろん皮肉で言ったわけじゃない。彼女が病気であるにしても、彼女がここへ着た理由は何かの調査をして欲しいからだと思ったからだ。
「奈々さんに、探し出して欲しいの。わたしに虫を送り付けている人を」
「耳の中でうるさい虫のこと?」
「そう」
うーん、と唸ってみせる。そんなものはいないのだ。それをどうやったら解決出来るのだろう。どうやったら彼女を精神科の診療へ向かわせることが出来るのだろう。
大学には「こころの相談室」とかそんな名称の部屋があったりして、カウンセリングなどをやってくれたりもする。でも、まずは彼女の依頼を受けるかどうか、かな。
「どうやったら探し出せるの?その虫を送り込んでいる人を」そう、わたしが聞くと、由香は何を言っているのだという顔で答えた。
「簡単よ。この虫を自由に扱うには何処かでエジプトから伝わる秘術を行わなくちゃいけないの。しかも、それはわたしから近い場所で、半径一キロくらいのところでやらないと効果がないの」
わたしは頷いた。頷くしかないし。
「だからね、奈々さんはわたしの耳の中で虫がささやいた時に半径一キロくらいを探して
くれればいいの」
「秘術とかをしている人を?」
「そうよ」と、ごつい革ジャンをがさがささせて由香は目を輝かせた。
「それは・・・難しいかもしれない・・・」
「どうして?」
この依頼を受けるのは彼女のためになるのかしら。当たり前だけれど、そんな秘術をしている人はみつかるはずがない。見つかるはずの無い調査をするなんて・・・少なくとも依頼費を取れる仕事にはならない。でも、依頼費を受け取らないと彼女はわたしを疑うかもしれない。
「奈々さん。わたしの言っていることを信じて無いんだわ」
「そんなことはないわよ。それとも虫が耳の中で何か言った?」
「言わないけれど・・・ここの壁はコンクリートだし」
「コンクリートだと何が違うの?」
「ねえ奈々さん。マーサ・ミッチェル効果って知ってる?」
「マーサ・・・何?」
そうわたしが聞くと、由香はうれしそうに微笑んだ。
「マーサという女性はね、彼女の夫がアメリカの司法長官を務めていたの。それでホワイトハウスで違法活動をしているって言いたてたの。もちろん妄想を抱いているって思われたんだ。でも後になってウォーターゲート事件が発覚したの。それでマーサの病気は直ったわけ」
ウォーターゲート事件は1970年代に発生したアメリカの政治スキャンダルだ。ニクソン大統領の辞任にまで発展した。その時の司法長官がジョン・N・ミッチェル。最終的には刑務所に入っている。わたしは知らなかったけれど、マーサ・ミッチェルは、たぶん、その妻なんだろう。
「つまり、彼女は病気じゃないと?」
「そういうわけ。信じられないからと言って全部、間違いだとは限らないの」
「そっか。じゃあ由香の話も本当なんだ」
にっこりと由香は微笑んだ。
「わかったわ。調査をしてあげる」
「本当?」
「ええ。でも条件があるわ」
眉をひそめた由香は、かわいらしく見えた。
「なあに?」
「まずは病院へ行くべきだわ」
「どうして?奈々も信じないわけ?」
突然、名前を呼び捨てにし始めたのに気が付いたけれど、わたしは無視して続けた。
「調査はするわ。でも、由香は、その虫を見せてくれたわけじゃない。由香の妄想ってこともありえるわ。そうじゃないって証明してくれなきゃ、わたし達だって、お金をもらって仕事をすることが出来ないでしょ?」
「妄想なんかじゃない」
怒ったように由香が叫んだ。
「じゃあ、証明して」
「精神病だなんて・・・」
「そうじゃないわ。わたしは由香に精神科に行けとは言ってない」
「病院に行けって言ったじゃない。わたしを精神異常だって言ったじゃない」
「病院に行けとは言ったけれど、精神科に行けとは言ってないし精神異常とも言ってないわ」
「でも、そう思ってる」
「思ってないわよ。でも仕事として受けるなら、有り得る可能性は一つづつ消していかなくちゃいけないわ。まずは、これが由香の体のバランスが崩れているせいじゃないって証明してくれなくちゃね」