そしてわたしは何も解決できない
サークル棟でビールを前に、わたしは、ぼうっと座っていた。二本目の缶ビールだったけれど、ちっとも酔いは回らなかった。
「まあ、そんなに落ち込むなよ」
アストは、ビールをぐっと飲み干すと、そう言った。
あれから、三日が経っていた。わたしは、毎日、サークル棟に来てはビールかウイスキーを飲んでいた。飲んでいても、止めるやつもいなかった。
「奈々のせいじゃないんだしな、忘れなって」
アストはそう言うけれど、そんなに簡単でもなかった。
わたしは、佐久間を救うことは出来なかった。
わたしに出来ることと言えば、そこで死んだのが佐久間ではなく、利沙だと言うことぐらい。
そんなこと、できるわけがない。
あの時、何があったのか。
わたしは、呆然としたまま階段の下で炎を見上げていた。
わたしを、その危険な場所から引っぱり出したのは、他ならぬ利沙だった。どうしてそこに彼女がいるのか、わたしにはわからなかった。
「佑子を探そうとしたのよ。家にじっとしていても仕方がないでしょう」
利沙は、カローラバンにわたしを乗せると、そう言った。それから、エンジンをかけて利沙が運転して、その場を離れた。ぼうっと、わたしはそれを見ていた。警察に言わなくちゃ、とか消防が、とか頭に浮かんでは消えていった。ほんの少し前に起きたことが信じられなかった。あまりに衝撃的で信じられなかった。
「佑子は自殺したのね」
利沙は、悲しそうな顔でつぶやき、カローラバンを高速道路の方へ向けた。
「もうしばらく我慢していてね。サービスエリアで手当してあげるから」
そっと、わたしの額の傷を白いタオルで押さえながら、彼女は、そう言った。
「でも、戻らなくちゃ。佐久間さんだって言わなくちゃ」
わたしは、そうつぶやいた。
「駄目よ。もう彼女は助からない。きっと薬を飲んでいるわ。一度、見たことあるもの。処方された薬をため込んでいたの。一度に飲んだらどうなるか、火にまかれなくても彼女は死んでいたわ」
「でも、彼女はあなたのために・・・」
利沙は首を振った。
「わたしが頼んだわけじゃない。でも、結果的にこうするのが一番なのよ。だって、そうでしょ。佑子はわたしを助けようとしてくれた。方法が極端なのはわかっているわ。でも、そうするしか無かった。きっと遺書が発見されるわ。わたしが以前に書いたものなの。きっと佑子は、わたしの部屋でそれを見つけたはずだから」
「それじゃあ、利沙さんは彼女がこうするのを知っていたのね」
利沙は、再び悲しそうに笑った。
「ええ。薄々はね。でも、止められなかった。間に合わなかった。こうなってしまったら、わたしはまた引っ越すしかない。しばらくは利沙が、あそこで死んだとみんなが考えるでしょう。佑子の、最後のプレゼントなの。それを無駄には出来ない」
「そんな」
「お願い。しばらくは黙っていて。わたしが引っ越すまででもいいわ。わたしは友達を失ったの。また頼る人もいなくなってしまったわ」
空き家の郵便受けからは、利沙の遺書が見つかって、おそらく死んだのは利沙だということになりそうだ。遺体は、損傷が激しくて身元がわからない。
「アスト、利沙は何処へ行ったの?」
アストは、新しいビールを冷蔵庫から取り出した。
「ああ、佐久間のアパートへ戻ったよ」
それから、プルタブを開いて、わたしの前のソファーに座り直した。
「どうすればいいと思う?」
わたしは、これで今日、四度目の質問をした。
「奈々のしたいようにすればいいさ。利沙が死のうと佐久間が死のうと、おれには関係のないことだ」
わたしは、じっとビールの缶を見つめた。
「佐久間さんは、病気だった」
「そうかもしれない。利沙さんを救いたいと思った。少し誇大妄想に取り憑かれていた。精神分裂病の典型的な症状だ、そうだろ?」
「統合性障害。最近はそういうのよ。それに、彼女がそうだったという証拠はないわ」
「そうかな。例えば、探偵を代えた理由は?」
わたしは、やる気無く頷いた。
「タニヤマ電機のエアコンを『山野興信』が使っていたからよ。佐久間さんは、あのメーカーの製品には盗聴機が仕掛けられていると思っていたから」
「そうだろ?妄想だよ。どっかの宗教で、電磁波で寿命が縮まるとかいうの、あっただろ。典型的な症状じゃないか」
「確かに、最初はそうだったかもしれないし、その兆候があったことは認めるわ。でも、利沙さんの件は違う」
「何が違うっていうんだ」
「ああいう妄想は、もっと非現実的で奇妙なものなの。誰かに心を操られるとか、監視されているとか」
「だから、佐久間は利沙と入れ替わったと錯覚したんじゃないのか」
「違うと思うわ。彼女、本当に利沙さんを救いたいと思っていたわ。わたしははっきりと聞いたもの」
アストは、肩をすくめてみせた。
「まあ、どうでもいいけどな。でも、どうしてそこまで思いこんだのかな」
「アストも利沙と話してみて、彼女が、なにか特別だって感じがしたでしょ?」
利沙は、なんて言ったらいいか、助けてあげたくなるような感じのする女性だった。誰かが保護の手をのばさないといけないような感じ。はかなさ、だろうか。とにかくそういう雰囲気の女性だった。たぶん、彼女が男性にもてる理由だろう。見た目のことも重要だけれど、男にとって、そういうのが一番気になるんじゃないだろうか。それが、貴文をあんなにも狂わせてしまったし、佐久間も必死になってしまった。
「その気持ちは分からなくも無いけどな。男なら、惚れてしまいそうになるだろうな、ああいうタイプは。おれが守ってやらなくちゃ、って」
わたしは、ぬるくなったビールを飲み干した。アストは無言で立ち上がり、冷蔵庫からわたしのブランデーを持ってきて、グラスと一緒に置いた。
「だからね、佐久間は利沙を守ってあげようとしたんだと思うの。そのためには自分の命を差し出してもいいって」
「それが、病気なんじゃないのか?」
「そうね。愛と言えばそうだけど」
「それじゃあ、レズだな。それも以前は病気だと思われていた」
「そうね。精神病の一つとして同性愛がカテゴライズされていた時期もあったって、この前、講義でやっていたわね」
心理学の講義で、そういう話を聞いた。時代にともなって、それは病気ではないことになった。
「彼女がレズだったかどうかなんてどうでもいいわ」
わたしは、そう言うと、グラスには注がずに、瓶のままブランデーを飲んだ。喉が焼けた。
「アスト。わたしはね、利沙は佐久間が自殺しようとしているのを止めなかったのよ。それが一番気になっているの」
遺書を書いたのは利沙本人だった。利沙は、その遺書を佐久間が持ち出していることには気がついていた。貴文にストーキングをやめさせるには、利沙が死ねばいいんだ、と佐久間は言ったそうだ。貴文にとって利沙が死んだことになればストーキングは終わるはずだ、と。
「奈々、深く考えるなよ。佐久間さんは、利沙さんのために命を差し出したんだ。利沙さんがどう思おうと関係無くだ。佐久間さんの気持ちを大切にしたいって、奈々が思うなら、もう関わらないほうがいいんじゃないか?」
わたしは、残りわずかになったブランデーを見つめた。
「そうね」
それが、倫理的にどうであれ、わたしは佐久間の気持ちは大切にしたい。そんな気がした。
「それよりもね、アスト。わたしは利沙さんが、本当は佐久間さんに身代わりになって欲しいと思っていたんじゃないかって思うの」
アストは、ビールを飲み干すと呆れたような顔でわたしを見た。
「そんな馬鹿な。もしもそうなら、奈々を連れて佐久間に会いに行こうなんて思わないだろ?」
「そうかしら。ひょっとしたら佐久間さんは貴文を殺すのかもしれない。その時、利沙にはアリバイが必要だった。だから、わたしと一緒に行った。そうとも考えられるわ」
「何を根拠に・・・」
「だって、そうでしょ?佐久間はいつの時点で別人を殺してしまったことに気がついた?」
「それは、奈々が発見してからだろ」
「じゃあ、どうして調査を途中でやめなかったの?もう必要ないじゃない」
「それは、警察の目を欺くためかもしれないし、ひょっとすると本人を見たのかもしれない」
「そうかしら。ひょっとしたら利沙さんは佐久間さんが殺した男を確認しに行ったんじゃない?」
「まさか」
「疑問に思っていたのよ。あんな筋肉質の重そうな男を天井からぶらさげるなんて、佐久間さん一人で出来るものじゃないわ。それに、うちに依頼する時だってコピーはなかった。利沙さんは、どうやってありもしない調査依頼の書類を見たの?」
アストはうなった。
「でもなあ、奈々。もしもそうだったとして、それほど変わらないだろ。利沙は死体を確認したかもしれない。でも、それがなんだっていうんだ」
「ひょっとしたら、利沙さんは、仕組んでいたのかもしれない。佐久間さんの精神が不安定なのを利用して、佐久間さんを操っていたのかもしれない」
「そんな、馬鹿な」
「利沙さんは医者を目指していた。本当にはなれなかったけど、その分野に興味があったのは確かだわ。ひょっしたら心理学だって・・・」
アストはため息をついた。
「それこそ、奈々の妄想だよ」
「そんなこと・・・」
「もしも、奈々の思っている通りだったとしても、佐久間の気持ちまでは操れないだろう?佐久間が利沙を助けたいと思っていたことは確かだよ。ストーカーからな」
それも、今となってはわからない。
それから、わたし達は黙って酒を飲み込んだ。沈黙が続いた。
突然、アストが口を開いた。
「おれはな、奈々。おまえだって利沙みたいに他人にとって守ってやりたいと思わせるタイプだと思うんだ。おれはな、奈々のために命懸けになるかもしれない」
わたしは、じっとアストを見た。
「酔っているでしょ」
アストは頷いた。
「ああ、酔っているさ」
そう言うと、アストは目を閉じた。
「酔っているに決まっている」
それから、アストはビールを一気に煽った。わたしも、残りのブランデーを一気に飲み込んだ。
「一美ちゃんを大切にしなさい」
わたしがそう言うと、彼は頷いた。
アストは、ビデオデッキにテープを差し込んだ。
最初にあの家に行った時、持ってきたテープだ。わたしもアストも忘れていたのだけど、それを今日、見つけたのだ。カローラバンの修理をしていて。
それには、利沙が写っていた。
祖父母と一緒に楽しそうにビデオを回していた。おばあさんが、セーラー服姿の利沙にビデオの説明をされて、困ったような顔で笑っていた。
それから、おばあさんがビデオを受け取ったのだろう。画面が揺れて、利沙が写し出された。
「これでいいんかい?」
おばあさんは、ビデオを構えたままなのだろう、そう言う声だけがした。
「いいわ」
そう言いながらカメラに手を振る。
その映像は幸せそうだった。
これで、本当にストーキングが終わるのかどうか、分からなかった。
利沙は、また引っ越しをするだろう。
あの日、死んだのが佐久間だったと、いつの日か分かるだろう。いつの日か、わたしと同じ結論に、誰かがたどり着くだろう。
それが、一日でも遠い日であることを、わたしは祈るしかない。利沙が貴文から完全に逃れられるところに行くまで。
それが、佐久間の遺志なんだから。




