尾行
太陽は校舎の陰に隠れて、部屋の窓からは暗闇が差し込んでいる。時計の針は5時過ぎだったけれど、もう薄暗い。残暑が残っていたけれど、北向きの窓からは陽は差し込まない。
わたしは夕方には、そうとうに疲れていた。当たり前だ。昨日の夜から起きている。眠くて疲れていて当たり前。
「奈々先輩。それじゃあ尾行するの、手伝ってくれますよね」
田辺が、そう言ってカローラバンのキーを握りしめた。
「ただ乗っているだけでいいのなら」
「やったあ。久しぶりですね」
「乗っているだけよ。何もしないから」
「それでもいいですよ。地図見てくださいね」
だから、何もしないんだってば。
前日に依頼された件で、田辺は尾行をすることになっていた。磯崎だったっけ?彼女の尾行を依頼するなんていうのは、あんまり褒められたものじゃないけれど、いつものことだから。同じ大学に通っている彼女の名前は麻美、という。名字は、えっと、なんだっけ。
「それじゃ、行きましょう。長瀬さんはバイトに行くはずです。駅前の飲食店だそうですけど」
「移動は自転車?」
「バスだそうです」
「そう。じゃあ、見失う可能性は低いわね」
寄り道もせずに長瀬麻美はバイト先に着いた。飲食店、と言えば聞こえはいいが飲み屋である。それも男性客ばかりが来店するという飲み屋である。つまりスナックみたいな。
派手なネオンが店の外壁にくっついている。あんまり露骨なサービスはしなそうだったけれど、給料はいいぞ、っていう感じがした。
わたしは、絶対に出来ないかもしれないバイト。だって、わたし、飲むとウツだもの。しゃべらなくなるし。
「奈々先輩も、こういうバイトしたらいいんじゃないですか?人気ホステスになれますよ」
「なれないってば」
「そんなことないですよ。奈々先輩きれいだし、お酒強いし」
「強いわけじゃないわよ」
「そうですか?いつも飲んでますけど」
「飲みたくて飲んでいるわけじゃないわ」
そういうと、わたしは助手席のシートを倒した。田辺は長瀬麻美が出て来るまで待機。店の中も気にはなるけれど、そこまでする資金はない。そういう調査費しか出ていない。仕方ないわ。学生の依頼だもの。
「じゃあ、わたし、少し寝ているから」
「え?寝るんですか?お話をしてください。暇なんですから」という田辺に「おやすみ」と告げるとわたしは、そう言うと背を向けた。
一時間くらいは寝たかしら、と思う頃、田辺が騒いでわたしは目を覚ました。カローラバンの時計は午前一時を指していて、三時間以上も眠っていたことに気がついた。
「奈々先輩、長瀬さんがセドリックに乗り込んでいます」
そう言うので、顔を上げると彼女はメタリックグリーンのセダンに乗るところだった。
「追跡しますか?」
体がこわばっていて、背中も痛い。
「したければ、どうぞ」
「了解です。尾行します」
田辺がカローラバンのエンジンを始動して動き出したセダンを追尾し始めた。そのセダン、セドリックだっけ?は荒い運転で走っていく。スピードも出していた。
「見失いそうです」
「大丈夫よ、まだ街の中だから。飛ばしたって早くは走れないもの。追い越し車線をキープしていれば大丈夫」
むくんだ感じのする足をマッサージしながらアドバイス。
「え?でもセドリック、信号無視しました」
「そうね。田辺君、あんまり無理しないでね」
ええ、わかってます、と田辺が返事をしたけど赤信号でスタートした。無理しないでよ。
そのままホテルにでも行ってくれると仕事が早かったのだけれど、そうでもなくて、セドリックは事前調査でわかっていた長瀬麻美のアパートにたどり着いた。そうしてセドリックからは麻美一人が降りて、セドリックは走り去った。わたしは、田辺にセドリックを追うように言うと、随分と冷え込み始めた真夜中の住宅街に降り立った。陽が落ちてしまうと、夏は消えていく。もう秋。風が冷たい。
静かな住宅街だった。ひっそりと夜の闇の中に家々の屋根が重なっている。動きのあるものは何もなかった。車から降りた麻美以外の人影は無い。アパートの敷地内には小さな植木がいくつか植わっていて、黒い塊のように見える。頼りなげな蛍光灯がアパート壁面の階段を白く照らし出していた。麻美は、その階段を振り向かずに上がっていく。
ちらっと携帯の時計を見れば、午前一時半。今日は、もうこれで終わりかな、とも思ったけれど、夜明けまで尾行してくれという調査依頼だというから、ここで待つしかない。
上着を持ってくるんだった。キャミソールだけでは寒い。もう夏じゃ無いのだ。
アストに電話する。
「どうした奈々」
「寒いのよ。上着と温かくなれる飲み物を出前してよ」
「なんでオレが」
「こんな場所で一人なのよ。わたしだって助けが欲しいわ」
「田辺はどうした?」
「あの人を送って来たセダンの行き先を確認させるために行かせたの」
長瀬麻美に関わった以上、それが誰なのか突き止める必要があったのだ。ただ見張るだけなら誰にだって出来る。仕事として探偵をするなら、そのくらいはしないと。いくらサークル活動とはいっても。
「しかたないな、奈々。ホットコーヒーでいいか?」というアストの声にココアがいいと返事をして電話を切った。どこか人目のつかない場所を探さなくちゃ。こういう人通りのない住宅街では、何処にいたって怪しい。
でも、探す必要は無かったのだ。長瀬麻美は、十分もしないうちに部屋から出て来ると暗い夜道を歩き出したのだ。
「何処へ行くのよ」そう一人つぶやくと、わたしは距離をとって尾行を始めた。すぐにコンビニにたどり着く。ほんの五分。そこへ歩いていくと、彼女は、店内に入らずに駐車場の隅へ直行した。奇妙な感じ。なにをしているのだろう。彼女、自分のブランド物のバッグの他に紙のバッグを持っている。三十センチ四方ぐらいの黒っぽいバッグ。お菓子が入ってそうな感じ。コンビニに行くだけにしては荷物が多い。
とりあえず、わたしは店に入った。入る時、何も買い物をしていない男が店から慌てるように出て来て、擦れ違い様にぶつかりそうになった。目で追うと、男は長瀬麻美の方へ行く。わたしは、ごく自然な感じを装うためにレジへ。ホットコーヒーとタバコを買うと、すぐに店を出た。ほんの二分くらいだったのだけれど、その時、長瀬麻美は駐車場を横切っていくところだった。駐車場には、さっきの男が、黒の紙袋を持って立っていた。