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杉並大学探偵事務所  作者: カダシュート
追憶は陽炎のように
38/92

利沙

 洋一が、わたしの首を締めていた。

 不思議と苦しくなくて、わたしは微笑みかけた。目の前が暗くなって、だんだんと洋一の顔が見えなくなっていった。

 待って。

 わたしはそう思った。

 離れたくないの。

 首にかけられた手にそっと自分の手を重ね、それを振りほどく。力は必要無かった。ただ、それを振りほどこうと思えば、それは軽くなっていった。

 そっと、目を開ける。

 そこには誰もいなくて、わたしはやっぱり暗闇の中だった。


 目が覚めたとき、ひどい吐き気がした。

 蛍光灯がまぶしすぎる。

 わたしは、目を閉じて、浅く息をした。


 やっぱり誰かがわたしの首を締めていた。

 今度は息苦しくて、わたしは必死にもがいていた。

 やめて。

 涙がこぼれてきて、その腕に必死にしがみついて、ひきはがそうとした。

 苦しい。


 再び目が覚めて、そこが何処だか思い出した時、誰が首を締めていたんだろうと、思った。この部屋に誰かが入ってきて、わたしの首を締めていた。

 違う。

 あれは夢だ。

 そっと、自分の首に手をやった。

 なんだか、感触が残っているような気がした。

 ゆっくり体を起こし、それから、立ち上がった。吐き気は少し、おさまったようだ。今は、とても頭が痛い。時計は午前3時過ぎを指していた。

 ふらふらと立ち上がり、サークル室を出た。

 何か、水分をとったほうがいい。

 この頭痛は、アルコール分解で水分不足のために起きる、と何かで読んだ気がする。

 本当かどうか、ちょっと自信が無い。

 でも、頭が痛いのは事実だった。

 とにかく、水を飲んでみれば分かること。

 1階まで、壁をつたって降りて、それから自動販売機でアクエリアスを買う。

 一気にそれを飲み干して、わたしは、再び歩き出した。

 こんなに喉が乾いていたんだから、きっとアルコール分解で水分が・・・。

 そんなどうでもいいことを考えながら、わたしは歩き続けた。

 気持ち悪くなるまで飲むのはやめよう、といつも飲み過ぎた時には思う。

 フェンスに寄りかかって、休憩する。

 足元に小さな花が咲いていた。紫色の、小さな花。でも、暗いから、電灯の光りのせいでそう見えるのかも。

 この花の名前は・・・。

 思い出せなかった。


 昼過ぎに起きて、講義に出た。

 それからゼミに出て、居眠りしながら他人が発表するのを聞いた。来週は、わたしがやらくちゃいけないらしい。休みがちだから、たまに出ると、必ず次の週は、わたしの発表の番だと言われる。いい加減にやっていても卒業できるけれど、そのいい加減にだって、限度ってものがある。何もしなくても卒業、というわけにはいかない。普通の人の7割ってところだろうか。そのあたりが限度、とわたしは一応、勝手に思っている。それに、そろそろ卒論も書かないと。

 胃が痛くなるようなプレッシャーを感じながら、わたしはサークル棟へと向かった。探偵ばかりやっているわけにはいかない。

 ドアを開けると、アストがタバコを吸っていた。部屋中に煙が充満していた。

「窓くらい開けてよね」

 そう言いながら、わたしは窓を全開にした。

「ああ」

 そう言いながら、アストはわたしを見つめた。

「なに?」

「いや。別に」

「別に、ってなによ」

「昨日のことなんだが」

「昨日?覚えて無いわ」

「そうか。それならいいんだが。ひょっとして奈々、精神病の薬を飲んでいたじゃないかと思ってな」

 わたしは、思わず自分の耳を疑った。

「なんで?どうしてそういうふうに思うわけ?そんなにわたしはおかしい?」

 アストは、慌てたように両手を振った。

「違う、違う。デスクの上に『アタラックスP』のレシートがあったからだ」

「え?アタラックスって精神病の薬なの?」

「そうだ。市販されている薬で、効果は低い。ただし、処方箋がいらない」

「そうだったの」

「ああ。何処でこれを?」

「なんで?」

「部員が病気なら対処しなくちゃならんだろ?」

「なんでアストが?」

 アストは唸った。

「それはだな、奈々、お前が所長らしいことをしないからだ」

 アストはそうつぶやくと、紙の束を差し出した。

「これ、ファックスしてきて」

 わたしは、それを受け取ると、

「何?これ?」

 と聞いた。

「高木利沙のここ一年間の調査記録」

 アストはそう言うと、パソコンに向かった。

「竹内さんが欲しいって電話してきてね」

「竹内?」

「長野の刑事だよ」

「ああ」

 わたしは、書類に目を落とした。

「なんで、これが欲しいって言ったのかな?」

「さあな。聞いたけど、はぐらかされた」

「そう」

「読んでおいてくれよ、奈々。最終報告書だから、仕事の」

「ええ」

 竹内が欲しがるということは、あの殺人に関係があるということなんだろうか?

「じゃあ、コンビニ、行ってくるわ」

 わたしは、そう言って、バッグにそれを仕舞った。そこで、ふと疑問が湧いた。

「なんで、わたしが行くの?」

「暇そうだから」

 アストは、こともなげに言った。


 コンビニで、わたしはファックスを使ったあと、まっすぐにアルコールのコーナーへと向かった。いや、自分でも気がつかないうちに、そこの前に立っていた。そのことに気がついた時、わたしは、はっとした。

「駄目よ。こんなことでは」

 何かを忘れるために飲む酒は存在しない。そんなことには、もう気がついていたはずだった。このままでは、ただのアルコール依存になってしまう。

 アル中の大学生なんて。

 胸が締め付けられるほどの強い未練を裁ち切るように、その場を離れた。アルコール以外のものでなんとかしなくてはいけないのだ。

 そんなことはわかっていた。

 わかっているけれど、どうしようもないの。わたしは、いったいどうすれば。

 唐突に、携帯電話が鳴り出した。前触れもなく鳴り出したメロディーに、わたしは慌ててボタンを押して耳に当てた。

「奈々か?すぐに戻ってきてくれないか」

 そう言ったのはアストだった。

「なに?どうしたの」

 わたしは沈んだ声で問い返した。

「それが、その電話では伝えにくいんだが」

「なに、それ」

 愛の告白でもするつもり、なんて一瞬だけ言おうと思ったけれど、そんな気分でもなかった。

「実は、その利沙さんが来ていて」

「利沙?利沙って、あの利沙?」

「他にあるかよ。だから、すぐに戻ってきて欲しいんだ」

 ものが考えられなかった。利沙?利沙がどうして事務所に。佐久間でなくて、どうして利沙が。失踪しているはずの調査対象だろう?どうして、その利沙が。

「わかったわ。すぐに行く」

 わたしは、乗ってきた赤いバイクに駆け寄ると、電話をバッグに戻し、ヘルメットを被った。


 事務所のドアを開くと、そこにはアストと、もう一人。写真で見たよりも美人だ、とわたしは思った。長い髪の毛は黒く艶を放っている。振り向いた顔は今にも泣き出しそうな悲しい顔で、それが決して子供っぽいところがなくて、ただどうにかしてあげなくては、と思わせるような表情だった。とても表現しにくいのだけれど、そう、思えた。彼女は、何故かはわからないけれど、心から何かを心配しているのだ、と思わせるような表情だったのだ。

「遅くなりました。所長の蓮田です」

 言うべきことが見つからなくて、わたしはとりあえず、そう言った。

「あなたが蓮田さん?」

 透き通るような声で、彼女は小さな声で言った。

「ええ。あの、何があったのでしょうか」

 わたしは、その時、彼女が調査対象だったことを思い出した。ひょっとして、これはトラブル?プライバシーの侵害とか、そういうので訴えるとか言い出すのかしら、と思い当たった。

「佑子が」

 佑子?ああ、佐久間さんね。確か、そんな名前だった。やっぱりトラブルね、と思った。

「調査については、一切、何も言えないことになってますけれど」

 利沙は、首を振った。

「いいんです。そんなことは。佑子が、その佐久間が何を頼んだのか知りませんけれど、そんなことで来たんじゃないんです」

 それまで黙っていたアストが口を開いた。

「高木利沙さんは、佐久間さんの居所を知りたくてやってきたそうだ」

「居所?」

 わたしは思わず聞き直した。

「ええ、そうなんです。蓮田さん達は佑子が何処にいるか知っていると思って」

 再び、アストが頷いて続けた。

「我々にはわからないと、伝えたんだが。どうも緊急でね」

 一昨日は長野にいた。電話でアストが聞き間違えていなければ、の話だが。

「そうなの。どうしても知らなくちゃいけないの。ヒントになるようなことでもいいの。どうしても佑子を見つけないといけないの」

 細い声。それなのに、人の心をくすぐるような気持ちの良い声。わたしには、何故、利沙があれほどモテるのか、その理由がわかってきたような気がした。

 わたしは、持っていたバッグをソファーに投げ出した。

「わかったわ。とにかく、座って話しましょう」

 そう言うと、ソファーの上の雑誌をどけてスペースを作り、利沙を座らせた。わたしもその対面にスペースを作り、腰掛けた。目の前には、どけたゴミがうず高く重なった。

「佑子は思い込みが激しいの」

 彼女は話し始めた。

「少し、心配になるくらいなの。人一倍に感情移入が激しくて、一生懸命になる人なの。だから、きっとわたしのことを調べさせたのも、わたしが彼女に悩みを相談したせいなの」

「どういうことですか?」

 そう、アストが言って、利沙はそっと首をかしげ、悲しそうに遠くを見つめた。少し、芝居がかっているようにさえ思えた。これを自然にやっているのだとしたら、彼女は生まれながらにして悪女だ、と一瞬だけ思った。同じ女として、ちょっとだけ嫉妬にも似た嫌悪感を覚えるほどだった。

「わたしのこと、調べたんでしょう?それなら知っていると思うけれど、わたしにはストーカーがいるの。とてもしつこくて、長野から離れたのも、そのせいだったの」

 アストが頷く。

「先月、あの人から手紙が来た」

「あの人というのは、平松さんですね。平松貴文」

「そう」

「手紙が来たということは、利沙さんの引っ越し先の住所を突きとめたということですね」

 アストが確認を求めると、目で頷き、利沙は続けた。

「わたしは、佑子に相談したの。仕事先で、一番、仲が良かったし。彼女は許せないと言ったの。『私が守ってあげる』そう、彼女は言ったの」

「それで、部屋を替わったわけね」

 わたしが、そう言うと利沙はちょっとだけ微笑んだ。

「何もかも調べているんですね」

「ええ。仕事だったから。ごめんなさい」

「いいのよ」

 首を振って、悲しそうに微笑んだ。わたしが最初に彼女を写真で見た時の、あの微笑みだった。思わず、心が締め付けられるような悲しい微笑み。

「部屋を替わったけれど、わたしは落ち着かなかった。自分の部屋ではなかったから、余計に不安になったのかもしれないけれど、安心できなかった。誰にも言わずにいた住所を何故かあの男は知っていた。こんなことぐらいでは、すぐにわかってしまう、そう思ったの」

「それで失踪した」

 利沙は首を横に振った。

「失踪じゃないわ。旅行に行ったの。ツアー旅行に申し込んで」

「ツアー旅行?」

 思わず、わたしは聞き返した。

「そう。わたしは引っ越すつもりだったの。でも佑子は、そんな必要は無いって。わたしがなんとかしてあげるから、その間だけ身を隠していればいいって」

「それでツアー旅行?」

「変なのはわかるわ。でも、身を隠すって言っても頼れる人はいなかったし。とにかく、ここを離れていればいいって佑子が言ったから」

「なるほど」

 そう言ったのは、アストだった。さも当り前というような顔で納得しているらしい。わたしは、少し違和感を感じたままだった。ちょっと脳天気じゃないの、と思っていた。

「一週間前、わたしは旅行から帰って来たの。もちろん佑子の部屋に戻ったのよ。そこにはわたし宛の手紙があったの」

 そこで、利沙はためらった。何かを言おうとして、言えずにいるように思えた。

「それにはなんて書いてあったの?」

 わたしは、利沙を見つめた。ためらいがちに、利沙は小さな声で言った。

「貴文を殺した、って」


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