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杉並大学探偵事務所  作者: カダシュート
追憶は陽炎のように
34/92

刑事からの頼まれ事

 結局、すぐにサービスエリアに入って、糖分を補給した。チョコレートとコーラだ。カフェインも必要だと思ったからだ。それでなんとか落ち着いて、わたしは再びカローラバンを発進させた。

 それにしても田辺も良く寝ている。

 かなりひどい運転だったと思うのだけど、すやすやと気持ちよさそうに寝ている。

 何故か、時々調子の悪くなるエアコンが、その日に限って調子良く回っているからかもしれない。エンジンがずうっとある回転数以上を保っていればちゃんと効くのだ、このエアコンは。渋滞が始まると、調子が悪くなる。

 わたしはしっかりと前を見た。

 大丈夫、さっきよりはいい。頭もすっきりとしたし、運転にも支障はない。病気じゃあない。

 もっとも、心理学的に見れば、わたしにはいくらでも病名をつけることが出来るだろうけど。

 例えば、彼氏が突然死んでしまったこと。そのせいでアルコール漬けになっていること。

大学に行かないこと。PTSDとかなんとか。

 景色が開けてきて、風景が平らになった。黄色く色づいた稲が街の隙間を埋めていた。綿のような雲が、深い空に浮かんでいる。

 降りるインターが近づいてきて、わたしはレーンをかえた。

 途端に、ボンネットの前の方から煙が上がった。一瞬だったけれど、はっきりと見えた。ただ、止めるわけにもいかないので、そのままインターまで走り切る。

 お金を払って、すぐにコンビニを探した。ガソリンスタンドでもいい。

 近かったのはコンビニで、わたしはそこの駐車場に車を入れた。水温計の針が、赤いところに差しかかっていた。

 すぐにエンジンを止め、それからボンネットを開いた。

 なんだか、前の方からしゅう、しゅうと音がする。

 けれど、何が悪いのか分からなくて、わたしはそのまま途方に暮れた。

 わたしは病気じゃないけれど、この車はあきらかに何処か悪いに違い無い。


 アストに電話して、それがラジエーターの故障だと教えられた。それが分かるまでに、要領の得ない会話が十分以上も続いたのだけど。

 結局、言っている意味は分からなかったけれど、ラジエーターコアとか言うのに小さな穴が開いているのだろう、ということ、前にもそういうことがあった、ということ。とにかくエンジンが冷えるまで待って、車の前の方に付いている大きな四角い黒いやつの上に付いている栓を開けて、入るだけ水を足すということ。

 それだけ教えられて、その通りにして、それから大学まで走らせた。

 水温計は、しばらくの間大丈夫だったけれど、大学が近くなるにつれ、だんだんと赤いほうへ近づいていった。

 ぎりぎりのところで大学に着いたから、わたしはそれ以上何もしなかった。アストは、

「ああ、こりゃ駄目だね」

 と、一言だけ。

「こわれちゃった?」

「いや、ラジエーターが駄目だ、と言っただけだ。これさえ直せば大丈夫だろう」

「そう」

「でも、今日はもう動かさないほうがいい。修理するまで使用禁止」

「そう。でも、行かなきゃいけないところがあるんだけど」

「歩くしかないな」

「えー。嫌よ。バイク貸してよ、アスト」

「それが、使う用事があるんだ。一美を向かえに行かなくちゃいけない」

 あー、そうですか。

「じゃあ、どうすればいいのよ」

「そんな事言われてもなあ」

 アストは、カローラバンのボンネットを勢い良く閉めると、じっとそれを見つめた。

「あ、そうだ、奈々。そういえば、一台当てがあるぞ」

 突然、アストはそう言った。

「エアコン付き?」

 咄嗟に、そう言った。

「違う、違う。バイクだよ。先輩が置きっぱなしにしているやつが一台あるんだ」

「置きっぱなし?動くの?」

 わたしは、嫌な予感がしてそう言った。

「大丈夫。バッテリーは弱っているけど、あとは大丈夫」

 それの何が大丈夫なのか、ちっとも分からない。

「キーも預かっているんだ。1年間の留学中、時々乗ってもいいって言われてたんだ。乗らないと調子が悪くなるし」

「よくわからない」

 アストは大げさに手を振って、

「わからなくてもいいよ。大丈夫、押せばエンジンもかかるから」

 押すの?暑いのに。バッテリーが駄目になっているから、エンジンをかけるために、バイクを押してかけるのだ。つまり、汗だくになって重量200キロ近いバイクを押して走れ、ってことだ。

「歩こうかな・・・」

「ああ、最初だけはおれがやってやるから。うまくすれば、2度目からはバッテリーに充電されて普通にエンジンかかるかもしれないし」

 そんなにうまくいくかなあ。

「それよりさ、アスト。一昨日の夜に、わたしが言ったこと覚えている?」

「一昨日?」

「うん。尾行してって言ったでしょ?」

「ああ、あの件ね」

 大きく頷いた。

「やるにはやったけど、オレも時間がなくてね」

「それで?」

「佐久間は確かに利沙の部屋から出てきたよ」

 わたしは、佐久間を尾行するようにアストに頼んだのだ。一昨日、完成した書類をファックスするように頼んだ時に。

「それだけ?」

「いや、佐久間は仕事には行かなかった」

「仕事に行かなかった?どういうこと?」

 アストは、さあね、という顔で答えた。

「知らんよ。そのかわりに医者に行った」

「風邪か何か?」

 そう言えば、電話した時に、ぼうっとしていたのを思い出した。

「いや、それが精神科だったんだよな」


 結局、駐輪場のシートの下から出てきたバイクで、わたしは出かけることになった。

 気が重いのは、それがアストのバイクの250ではなくて、400だということ。つまり、重いのだ。

 こんなもの、絶対にエンジン押しがけなんてしたくない。

 ただ、アストが必死になって走り回った結果、エンジンがかかったあとは、調子良く走っていた。真っ赤なボディーで、スズキ、とネームが入っている。風避けのカウルが全体に付いているスポーツタイプだけれど、やたらと大きい。

 バイクの横側には、ちょっと前のフェラーリのようなフィンがついていて、後ろのほうに、RF400R、と書いてあった。

 記憶の中の、洋一のバイクよりは大きくて重いけど、排気量は同じだし、それに発進はこっちのほうがやりやすかった。

 前傾姿勢で乗るから、腕が痺れてくるところも似ている。というより、ハンドルが遠い。

 刑事に教えてもらった住所を頼りに、時々路肩にバイクを停め、地図を確認する。運転しながら地図を見られないところがバイクの不便なところだ。

 ま、エアコンが効かなくなるカローラバンよりは涼しくて気持ちいいけれど。

 刑事は大学から近い、と言っていたけれど、それはつまり長野から比べれば近いと言う意味であって、大学からは20キロくらいもあった。

 田舎の道を走り抜け、市の中心部へ向かう。市全体で30万人弱の地方都市だから、中心部といっても、四方10キロくらいなものだ。大した渋滞も無く、すんなりと目的地に着いた。

 朝は長野にいたことを思うと、昼過ぎにここにいることになんとなく気持ちの悪さを覚えた。わたしの生活時間は、相当ゆっくりに出来ているらしい。


 5階建てほどのビルの4階、その一角にそれはあった。

 山野興信、と書いたプレートを確認して中へ入った。昨日の夜に、連絡を入れてある旨を伝えると、奥の部屋に通された。黒いソファーとガラスのテーブル。窓のそばには観葉植物が置かれていた。普段は、客と話す時に使う部屋なのだろう。

 受け付けにいた女性が、麦茶を持って現われて、もうしばらく待っていてね、と言って出て行った。

 昨日の夜、電話をすると、相手は優しい声の男だった。

 竹内さんから聞いていますよ、とその男は言った。5分ほどのやり取りの間、最後まで丁寧な言葉遣いで、やんわりとした印象だった。客との対応と同じなのだろう。探偵事務所って、テレビや映画と違って、かなり親切でフレンドリーなのだ。怖いイメージやいい加減なイメージをテレビで植え付けているから、そうでは無い、と強調するからだ。

「お待たせしました」

 そう言って入ってきたのは、30過ぎくらいの紺色スーツの男だった。わたしは、ジーンズに白いシャツだった。一応、襟のある無地のシャツだったけれど。

「昨日、お電話で話しましたね、あなたが蓮田さん?」

 わたしは、慌てて立ち上がって、それから、

「ええ。よろしくお願いします」

 と言った。なんとなく就職面接のようだ、と思った。

「杉並大学で探偵のサークルをやっているんですって?」

 男はわたしにソファーに座るように手で促しながら、自分もソファーに腰掛け、にこやかにそう言った。

「大変でしょう?」

「それほどでは。ほんのサークル活動ですから」

「卒業されたら、うちで働きませんか?人手が足りなくてね」

 そう言って、笑った。

「で、さっそくですけど、うちの殺された所員と顔見知りだとか?」

 男はそうやって、唐突に本題に入った。これも、会話のテクニックの一つなのかな、と思った。相手の不意をつくような。

「顔見知りというか、少し話をした程度です」

 わたしは、そう言うと、努めて冷静に話をしようと、心を決めた。一見、人が良さそうだけれど、この男、相手に心を読ませないようにしている。

「大変なんですよ、労災も絡んで来るし。そうでなくても、同僚ですからね」

 そう言って、顔を曇らせる。演技なのか、本心なのか分からない。

「ええ、分かります」

 わたしもせいぜいそう言った。

「気持ちとしては、犯人を見つけてやりたいですよ」

 そう言うと、ソファーに深く腰を預け、こぶしを固めた。顔を窓の外を見ていた。これも、何処と無く演技のように思えた。

「依頼人は、佐久間さんなんですね?」

 わたしは、そう言いながら、持ってきたバッグから書類を取り出した。

「ええ。うちを断わって、そちらに行ったんですね」

 そう言いながら、じっとわたしを見つめた。こんな小娘に、と見て取れた。演技ではあるまい。わからないけど。

「殺された高井も、一度あなたを見たいと思ったのでしょうね」

 やんわりとそう言ったが、敵意が感じられなくもなかった。わたしは、それは聞き流すことにして、書類をテーブルに置いた。

「これは、こちらの報告書を元にしたものですか?」

 男は、それを手に取ると、さっと目を通した。

「おそらく、そうでしょう。パソコンか何かで打ち直しはしてあるけれど、元にしたことは確かでしょう」

 そう言うと、テーブルに戻した。わたしは、続けて言った。

「竹内刑事は、どうして佐久間さんが、ちゃんとした興信所の調査を途中で止めて、うちへ来たのかを知りたがっていました」

「ああ」

 男は、再びソファーに背をもたせかけた。

「分かりませんね。こちらも聞きたいくらいです」

 わたしは、

「なんと言って断わってこられたんですか?」

 とだけ言うと、浅く腰掛けたまま、じっと男を見つめた。

「この部屋で、報告書を渡して、それからじっとそれを読んでいましたよ。わたしはその間、いくつかの説明をしながら、待っていました。で、依頼人は突然、これで打ち切りにしてくれ、と言ったんです。書類を読んでいる間、何も変わったところは無かったように見えましたよ。なのに、こう、窓の外を見て、それから、はっとしたように突然、これで打ち切りにして、と」

 そう言いながら、身振りで窓のほうを見て、それから軽く下を向いた。空調の吹き出し口のあたりだ。タニヤマ電器のロゴマークがついていた。それからこちらを向いた。

「うちの調査に問題があったのかと思って聞きましたけどね、なんでもない、もう、必要が無くなったから、と」

 そういうと、首を振った。

「そのことを、長野にいた高井君に伝えたのは午後2時くらいだったかな。ただ、調査が途中だったから、打ち切りの日程は二日後ってことになったんです。その点は、不思議と依頼人も了解してくれましてね。本当は、すぐに中止しても良かったんですけどね、1週間の調査日程のうち、二日間残っている、と言ったら、それが終わってからでいい、と。それよりも早く帰りたい、って感じでしたね」

 つまり、組んでしまったスケジュールに穴を開けたくなかったわけだ。断わられるのを覚悟で、そういう強気で出るということは、おそらく今後の依頼は無いだろうと思っていたということだ。

「ところで、蓮田さん、依頼の理由は聞きましたか?」

 わたしは、え?と顔を上げた。

「うちは、理由も聞くことにしているんですよ、一応ね。依頼人が不都合でない場合は、ですけどね」

「聞いてません」

「そうですか。あの人、それは話せない、と言ってね。適当な嘘でもつけばいいのに」

「そうですよね」

 一度だけ会った、あの日、ほとんど話はしなかった。最初に依頼を受けたのは田辺だったし。地味なOL風、とだけ印象が残っている。

「どんな印象を持ちましたか?依頼人には」

 腕を組んで、それからわたしの目を見つめた。

「なんだか、おどおどした感じでしたね。警戒心が強い、そんな印象でした」

 そう言って、ちらっと時計を見た。

「おっと、すみませんが、このへんで行かなくちゃ。申しわけない。仕事が立て込んでいて」

 そう言うと、さっとソファーから立ち上がった。わたしも、慌てて立ち上がった。唐突な行動ばかりする人だ。

「じゃあ、また何かあったら電話ででも。いない場合は、こちらから連絡しますよ。受け付けに連絡先を書いて行ってください」

「あ、すいません。ありがとうございます」

 それから、ドアを開け、わたしを外へと促した。わたしは、仕方無く、外へ出た。


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