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杉並大学探偵事務所  作者: カダシュート
追憶は陽炎のように
33/92

カンニング

 わたしは、じっと書類の表紙を眺めていた。開けるべきか、開けざるべきか。

「奈々先輩、それ、写しましょうよ」

 田辺は、ハンドルを握ったまま笑顔で言った。

「どっちにしても、調査は一通りしたわけですし。補足資料ってことっすよ」

 わたしはため息をついた。

「わかったわ」

 ページをめくり、マップライトの明りでそれを読み始めた。非行歴が書かれていた。万引き、深夜徘徊、自転車泥棒。それから、火事のこと。家族構成と、両親、祖父母の没年月日。友人関係。

 わたし達が調べた事と、大きくは違わない。ただ、正確だった。まあ、補導歴は、資料を探し出せば見つかるだろうし、とわたしは自分に言い訳した。

 ノートパソコンを起動して、それを逐一打ち込んでいく。

「なんか、カンニングしている気分だわ」

 田辺は楽しそうにしていた。

「調査の見返りに情報の提供を受けたなんて、本物っぽいですよね」

 そうね、田辺くん。ドラマの探偵みたいよね。

「で、これからインタビューに行きますか?」

「行くに決まっているでしょ。これに書かれていようと書かれていなかろうと」

 わたしは、いらいらした声で言った。

「そうですね。約束もしましたし」

 鼻唄まで歌い出して、田辺は車を走らせて行った。


 夜中の12時ころ、またしてもラブホテルに入った。

 体が重くて、シャワーを浴びたら、そのまま眠りたかった。けれども、まだ報告書が出来ていない。

 田辺をトイレの中に閉じ込めて、服を脱いでお湯を出した。ざあっと、顔に熱いお湯が降り注いだ。

 利沙の元彼からは、めぼしい情報は得られなかった。結局、貴文があることないこと、その元彼に吹き込んで、男はそれを信じて別れた、と言う事が分かっただけ。

 あんなあばずれ女なんか、失踪しようとどうしようと知ったことではない、と言わんばかりの口調だった。他にも男がいた、とか、誰とでも寝るだとか、そんなことばかり言っていた。途中で、怒りが込み上げてきて、帰ろうかとすら思った。

 つまり、利沙の言う事は信じていなくて、周りの情報ばかり気にしていたという事だ。

 一度は付き合っていた相手なら、他人の言うことより、本人の現在の人柄を評価するべきだろう。

 ま、信用調査で報酬をもらう、探偵のいう台詞ではないが。

 刑事から借りた資料に拠れば、同時期にストーカー行為を止められないか、という相談が利沙から警察にあったらしい。無言電話、付きまとい、口頭による嫌がらせ、とある。

 結局、警察は動かなかったようだ。

 元夫婦としては、ありがちな事、ということだろうか。

 おそらく、利沙は、そんな状況に嫌気が差して、故郷を離れることになったんだろう。

 すっかり人間不信になったに違いない。警察や近所の人はおろか、恋人さえも信じてくれないなんて、さみしい。

 とにかく、嫌な思い出をすべて捨て去って逃げ出そうと思ったに違いない。

 わたしは、自分の体に、利沙が味わった嫌な気持ちの破片が付いているような気がして、ボディーシャンプーを泡立てて体中を洗った。

 最初に見た、利沙の写真を思い出す。

 幼い表情の女性だった。

 ぐれていた、とかあばずれ、という言葉は似合いそうにもない。髪は長く伸ばした黒。ストレートのまま。特に美人ではない、と思ったけれど、地味な印象がそう思わせたのかもしれない。逆に言えば、わざわざ、美人ではないわ、とわたしが思ってしまったことが、潜在的な美人だと言う事なのかもしれない。たぶん、きれいに化粧をすれば、かなり人目を引くようになるだろう。

 つまり、少なくても写真を撮られた時、彼女は人目を引きたくないと思っていたのかもしれない。

 シャワーから出て、髪を乾かしながら、バッグから資料を取り出して、あらためて彼女の写真を見た。

 大きな目。鼻の形もいい。控えめな微笑をした口元。口紅すらしていない。

 おろした前髪が表情を暗くしている。

 故郷を離れた理由を知った今、その笑い顔が、妙にさみしそうに見えた。

「シャワー、してもいいすか?」

 わたしは、トイレから顔を出した田辺をちらっと見た。すっかり忘れていた。

「ええ。どうぞ」

 再び、書類に目を落とす。背後で服を脱ぐ音がして、それからドアの音がした。それから、はっと、気が付いた。

 わたしは、タオルを巻いただけの姿だった。


 午前七時を回った頃、わたし達は、昨日の刑事にコンビニの駐車場で書類を返し、田辺に運転を任せて、そのまま高速道路に向かった。ここ3日ほど、睡眠不足だったわたしは、すぐに眠気に襲われて、インターをくぐる頃には目を開けていられなくなっていた。結局、報告書は3時までかかったし、5時半には起きて化粧と着替えをした。前日も似たようなものだったし、田辺には悪いけれど、そのまま眠ることにした。


 どきん、どきん、どきん、と音がした。

 高速道路の繋ぎ目をタイヤが踏む音かな、と思った。

 でも、それはすぐに心臓の音にかわった。

 洋一の胸にわたしは耳を押し付けていた。

「奈々」

 そうっと洋一がつぶやいた。わたしは、裸の洋一の胸に指を走らせ、それから首を触った。洋一は、わたしをぎゅっと抱きしめると、体をひねって、そのままベッドに押し付けた。洋一の手が、わたしの体をつたい、それからそうっとキスをした。

「あ」

 と、わたしは声を出した。

 洋一がわたしを抱きしめて、それから首にキスをした。それから胸にも。


 突然、体が揺さぶられて、わたしは夢から覚めた。

 田辺がわたしをじっと見つめている。

「あ、田辺くん」

 わたしはぼうっとしたまま彼を見上げた。

「大丈夫ですか?なんか苦しそうに声を出してましたけど」

 田辺は、じっとわたしを見つめていた。いつの間にか、車は止まっていて、田辺はこちらをじっと見ていた。

「なんでもないわ」

 わたしは、それだけいうのがやっとだった。

 恥ずかしい。

「眠くなって、サービスエリアに止めたんすけど、奈々先輩、急に体を曲げて声を上げるから。心配になって」

 わたしは、自分でも顔が赤くなるのが分かった。

「ううん。大丈夫よ。なんでもないわ」

 わたしは、いつの間にか倒していたシートを立てて、それからドアに手を伸ばした。

「少し、歩いてくるわ」

 そう言うと、すぐにドアを開け、田辺の顔を見ないように外へ出た。

 それにしても、田辺に邪魔をされたのは、これが2度目だ。


 運転を交代して、今度はわたしがハンドルを握った。眠そうな田辺は、そのまま眠りについた。

 それにしても、どうして今さら洋一との、あのシーンばかり夢に見るんだろう。

 そう思った瞬間、顔が赤くなるのが分かった。田辺が寝ていて良かった。

 欲求不満なのかしら。

 わたしは頭を振った。違う、別にあのシーンばかり夢に見ているわけじゃない。一昨日の夜は、悪夢だった。洋一を殺して、天井から吊す夢。思わず、目を閉じて首を振る。

 危ないわ。

 こんな状態で運転するのは。

 トップに入ったままのシフトノブをぎゅっと握り閉めた。ちゃんと運転しなくちゃ。

 高速道路の上は、それほど交通量は多くなかったけれど、カーブが続いていた。

 マニュアルの4速に入っているシフトノブを手の中でもてあそび、ハンドルを握り締める。5速は元々無い。商業用バンだから。

 はっと気がついて、シフトノブから手を離す。

 フロイト派の心理学者なら、シフトノブを握っているわたしを見て、いかにもいい加減な事を言いそうだ、と思ってしまったからだ。

 すぐにセックスに結び付けるのだ、やつらは。

 首を振った。

 何を考えているの?ばかばかしい。

 たぶん、目が覚め切ってないのだろう。

 それに、食欲が無いから、あまり食べていないのも原因だ。

 頭がぼうっとして、運転に集中できない。

 4日前にひいた風邪が治りきっていないのかもしれない。どきどきと、心臓が鳴っているのがわかった。脈拍が早い。

 自律神経失調症かもしれない。

 そんな馬鹿な。

 睡眠不足と栄養不足だわ。精神病に似た症状を起こす原因なんていくらでもある。 

 ちゃんと運転しなくちゃ。


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