死体は誰か?
「じゃあ、あれは誰なんですか?」
田辺は、ポテトチップスを口に入れながらそう言った。カローラバンのハンドルが油で光っているのが分かった。
「ポテチの油がハンドルについてるわよ」
わたしは、窓を拭くタオルを渡した。後で、わたしがハンドルを握った時に、それを触りたくなかったからだ。
「貴文っていう人物は生きているわけですよね。つまり、4日前に奈々先輩が会った人物は貴文じゃなかったってことですね」
タオルでハンドルを拭きながら、田辺はまたしてもコンソールボックスに置いたポテチに手を伸ばした。
コンビニで、お弁当を買って、駐車場で食事をした帰りだった。毎日コンビニの弁当は嫌だな、と思ったけれど、他に何も無いんだから仕方無い。少し先にはスーパーがあったけれど、結局あまり変わらない。
「ということは、あれは誰なんでしょうね」
田辺は、何度目かの疑問を口にした。
「分からないわ」
わたしも何度目かの答えを口にした。
「もっと分からないのは、どうしてわたしに接触してきたのか、と言う事だわ」
田辺は、カセットテープをデッキに押し込んだ。ああ、もう、あちこち油だらけね。
「そうですよね。嘘をついてまで奈々先輩を連れ去ろうとしたんですから」
「連れ去る?」
「奈々先輩、逃げ出したんですよね、確か」
「ああ、そうだったわね。あれが貴文じゃなかったとすると、何か目的があった、ということになるわね」
「そうですよ。奈々先輩から何かを聞き出したかったとか、そういう」
何かを聞き出したかった?一体何を?
「それにしても、どうして奈々先輩が貴文を探していることが分かったんでしょう?」
「そうね。わたしがそのことを口にしたのは、アストを除いて、住所を聞いた家の人と、平松家のインターホンの2回だけなのよね」
「じゃあ、その時、家の中に、あの男がいたんですよ、きっと」
あの家にいた?その可能性は無くはない。証拠は無いけれど。だとしたら、あの家で何をしていたんだろう。
午後も出来るだけ多くの家を回って聞き込みを続けた結果、利沙の長野での2年間分の行動が分かってきた。
利沙は平松貴文と結婚する前からコンビニでパートをしていた。離婚してからもパートをしていた。ただし、結婚する際に一度辞めている。結婚前のコンビニは、廃業してしまっているので話は聞けなかったけれど、いずれにしても、わたし達の調査範囲でないから、どっちでもいい。
3年前から1年前までの範囲で、付き合っていた男は、分かっているだけで5人。多いのか少ないのか、ちょっと分からない。ただ、噂だけなら、他にもいたようだ、という話もあった。5人だとしても、平均すると5ヵ月に一度男を変えていたことになる。
ただ、そのどれもが、どうやら離婚した平松が関係を悪化させたようだ。放火をした犯人は捕まっていないが、どうやら平松ではないか、というのがもっぱらの噂だった。
付き合っていた男のうちの一人とは、連絡を取ることが出来たので、夜に行く事になった。
けれど、その前に行かなくてはいけないところがあった。
警察だ。
わたしの携帯に電話があって、お呼び出しがかかっていた。
仕方無いので、わたしと田辺は一緒にカローラバンで夕方の4時に出発した。
そう、20キロほどあったのだ。捜査をしている警察署と、利沙の村とは。偶然というか、都合がいいというか、話を聞けることになった利沙の昔の男の家はそっちにあったから、まだいいけれど。
少しだけ家が増えて、街のような感じになってきたころ、警察署を発見した。主要な道路は一本しかないから、道に迷う怖れはなかった。大きな標識があって、すぐに見つかった。コンクリートの三階建ての建物で、頑丈そうな柵に囲まれていた。大きな垂れ幕には、交通安全のスローガンが書かれてあった。
わたし達は、その駐車場に車を入れ、それから案内される通りに廊下を歩いていったつもりだったが、迷ってしまった。受け付けの女の人は、疲れた顔で、2階に上がって突き当たり、と言ったはずだったが、そこには「男子トイレ」という名前の扉があるだけだった。
「違いますね」
田辺はとぼけた顔で言った。分かっている。
「受け付けに戻って聞いてくるしかないわね」
「めんどくさいですね」
そう言いながら、回れ右で歩き出した。再び1階に戻って同じ女に同じ事を聞く。
「2階に上がって突き当たり」
わたしは、静かな声で言った。
「そこは、トイレだったわ」
「そんなはずない。2階の突き当たり」
わたしはうんざりしながら、
「階段を上がって、右に突き当たるまで行ったけど、トイレだったの」
「右じゃない。左へ行って突き当たり」
わたしは、手を振ってありがとう、と意を伝えると、彼女は「もういい」という意味に理解したようだった。むっとしたような顔をして、すぐさま書類に目を落として何かを書き始めた。
「左だって」
「そうなんですか?」
階段を上がり、今度は左側へ歩いて行くと、廊下は途中で90度曲がっていて、その突き当たりまで行くと、表示も何もない部屋があった。どうやら、ドアの上にネジの跡だけあるから、取れたまま放置されているのだろう。お陰で、目的地なのかどうかわからないまま、それをそうっと開けた。
誰もいなかった。
誰もいないなんてことでいいのかしら、と思ったけれど、わたしは再びそれを閉め、田辺と目を合わせた。二人とも黙って来た道を歩いて、三たび一階まで降りた。
「誰もいないんだけど」
「誰もいない?ちょっと待って」
そう言いながら、女は黒い表紙の大きなファイルを開いた。
「ああ。まだ帰ってきて無いわ。そこのベンチで待ってて」
わたしは、うんざりして田辺の顔を見た。彼も疲れたような顔でわたしを見ていた。




