フィリップ・マーロウなら・・・
どうやってその家から出たのか分からなかったけれど、一瞬の後には庭まで走り出ていた。田辺がどうなったのかは分からなかったけれど、彼はいなかった。突き飛ばしたような気もする。部屋の中へ。
薄暗い部屋の中に、わたしははっきりと首を吊った人間を見た。一ヵ月はうなされそうな景色だった。薄暗くて、顔まで見えなかったのが救いといえば救いだった。ただ、シルエットだけが見えた。
がた、がた、と音がして、田辺が走り出してきた。
「奈々、奈々先輩」
そう言いながら、駆け寄ってくる。縁側から飛び降りて、ぬかるんだ地面で滑って転んだ。ばしゃっと音がして田辺は泥まみれになった。わたしは近寄って手をとって起こした。
「田辺くん、顔が青いわ」
「奈々先輩もですよ」
田辺はしっかりとわたしの手を握ったまま離さなかった。わたしも離そうとは思わなかった。二人とも、同じことを考えていた。
「本物かしら」
わたしは、頭の中にさっき見たばかりのものを思い浮かべて、寒気が走った。思わず、わたしもしゃがみ込んで、田辺に抱きついた。
シルエットの腕の垂れ具合といい、形といい、本物としか思えなかった。
雨が降っていたけれど、もうそんなことはどうでもよかった。二階を見上げて、すぐそこに首吊り死体がある、ということを思い出すだけで体がすくんで動けなかった。
「どうしましょう」
田辺はがたがたと震えていた。
「奈々先輩、どうしましょう」
掴んだ手が痛いほどだった。その痛みで、わたしは少しだけ冷静な気持ちを取り戻した。
「とにかく、車に戻りましょう」
わたしは、田辺を手伝って引き起こし、入ってきた鉄扉へと歩いた。振り返るのが怖かったけれど、振り返らないのも怖かった。とにかく、二人とも抱き合ったままのろのろと歩いた。何処からか見られているような気がして、辺りを見回しながら歩いたからだ。雨が髪を濡らし、前髪からしずくがたれた。
「閉まってます」
田辺は、震えながら言った。鉄扉は閉まっていた。開けっぱなしにしたはずの扉が閉まっていた。
わたしは、無言のままそれを押して開けた。何故閉まっていたか、なんて考えたくも無かった。
カローラバンのところまで歩き、抱き合ったまま運転席に近寄り、ポケットからキーを取り出してロックを解除した。二人で顔を見合わせた。怖くて手を離したくなかった。でも、離れないと入れないので、わたしはようやく手を離した。ドアを開くと、田辺は走って向こう側に回りこんだ。わたしは素早く車の中に入ると、すぐにドアを閉め、向こう側のロックを外した。そしてすぐに自分の方はロックした。勢い良く田辺が入ってきて、田辺もドアをロックする。わたしは、震える手でキーを差し込んでエンジンをかけた。すぐにヒーターを全開にする。
がたがたと体が震えてしょうがなかった。寒いのか、それとも違う理由なのか、考えた
くも無かった。
ダッシュボードの上の携帯をつかみ、110をコールする。
「確かめなくてもいいですか?」
田辺は震えながらそう言った。
「そんな勇気、ある?」
田辺は勢い良く首を振った。
「はい、百十番です。どうしましたか」
そう、向こう側から声がした。落ち着いた男性の声に、わたしは電話の向こう側は日常なんだな、と思った。すっかり、普通の世界から隔絶されたような気持ちだった。
「あ、あの、首吊りなんです」
なんて言っていいかまでは考えていなかった。
「え?もう一度言ってください」
「首吊り」
「何処ですか?」
落ち着いた声だった。ひょっとしたら信じて無いのかもしれない。
わたしは、リアシートの書類をつかんだ。
「えーと」
書類に書かれた住所を見つけて、それを読み上げる。
「そこで、首吊りがあったんですか?」
「ええ。誰かが、天井からぶら下がっているんです」
わたしは、なんて間抜けなことを言っているんだろう、と思ったけれど、他にどう言えばいいんだか分からなかった。
「それで、あなたはそこで何をしているんですか?」
「えっと、頼まれて高木利沙さんを調査して・・・」
「調査?」
「探偵なんです、アマチュアですけど」
あきらかに、不審がっているな、と思った。
「アマチュア?名前は?」
「杉並大学探偵事務所」
「そうじゃなくて、あなたのお名前は?」
「ああ、蓮田奈々です」
「蓮田、奈々さんね。それで、杉並大学っていうのは、あなたの通っている大学?」
「ええ、そうです」
そんなことよりも、早く来て、と思った。
「で、首吊り死体を見たのは何処ですか?」
「空き家の二階です」
「本当に、首吊り死体なんですね?」
「たぶん」
「たぶんって、どういうこと?」
わたしは、いらいらしてきた。
「そんなもの、じっくり観察してられないでしょう」
「ああ、そうね」
さも、おもしろいことを聞いた、というふうに聞こえた。
「分かりました、警官を向かわせます。あなたは現場からかけているんかね?」
「はい」
「携帯電話?」
「はい」
「番号はいいかな?」
「090の・・・」
わたしは、自分の携帯の番号を言った。
「じゃあ、そこで待っていて。なるべく早く人を向かわせます」
そういうと、電話は切れた。わたしは、田辺と顔を見合わせた。
雨足が強まってルーフが激しく音を立てていた。ワイパーを動かすと空き家が見えた。あの二階で誰かが首を吊っている。
「誰なんですかね」
田辺がぼそっと言った。ヒーターが効いてきて、温かい空気が流れ出してきた。
「さあ」
正直に言えば、はっきりと見たわけではなかった。あれが、マネキンだったと言われればそうだったかもしれないとすら思う。
「僕は、男だったということしか分かりませんでした」
「男?」
田辺があれをしっかりと見ていたことに驚いた。
「田辺くん、見たの?」
「ええ。奈々先輩に押されて、転んだ時、顔まで見ました」
それは、悪いことをした。
「髪の短い男でした。目が合って」
そこで、田辺はぶるっと震えた。顔を振ってそれから窓の外の空き家を見上げた。さっきよりも雲が厚くなってさらに薄気味悪く見えた。何処かで雷が鳴った。わたしは、ラジオのスイッチを入れた。途端に、大きな笑い声が響き渡った。わたしは、びくっとした。ラジオのパーソナリティーの声だった。わたしは、黙ってテープを押し込み、音楽にした。
「目は開いたままでした」
それだけ言うと、田辺は黙った。その途端、テープの音が乱れて、くぐもった声になった。二人とも、思わずデッキを見つめた。
「これ、テープ痛んでいたわよね、もともと」
田辺は、かろうじて声を出して言った。
「ええ。もともとっす」
テープの音が元に戻り、わたしはふっと思い出した。
「二階からした物音ってなんだったのかしら」
「物音?」
田辺は、まだ震えていた。
「最初に二階に上がろうとしたときにしたじゃない?」
「ああ」
そこで、二人とも黙った。二階には何も音を立てるような物はなかった。
「やっぱり、家鳴りだったんじゃないですか?」
「そうよね」
わたしは、かろうじて頷いた。
「入り口の鉄扉が閉まっていましたね」
田辺は、そう言った。
「風よ、たぶん」
車の外では、いつの間にか横殴りに雨が降っていた。風で鉄扉が動いたとしても不思議はなかった。
「気持ち悪いですね」
かろうじて聞き取れるほどの声で田辺はそう言った。
わたしは、伸び放題の垣根の上から見える家を見上げた。雷が光って、一瞬、その家が照らし出された。気味が悪かった。
「警察は、いつ来るんでしょうか、奈々先輩」
「すぐには来ないわ、きっと」
わたしは、じっと空き家を見上げたまま答えた。経験上、こういう田舎では呼んでも三十分くらいかかることが多いのだ。よほど急がないとまずい場合を除いては。誰かが殺されそうだ、とかそういう場合を除いては。
「利沙と関係あるのかしら」
わたしは、ふっと思いついたことを言った。
「無いんじゃないんですか?」
田辺は、ぼうっと言った。
そうだろうか。この空き家は、利沙が住んでいたものだ。そう、田辺に言うと、
「でも、空き家になって一年以上経ってますよ」
と、答えた。確かに、そうだ。でも、何か気になるのだ。
「調べてみない?」
わたしは、心とは裏腹にそう言った。気持ちとしては、二度とあの家に入るのは勘弁してもらいたかった。
「お断りです」
田辺は信じられないものを見る目でわたしに言った。
「でも、本物の探偵なら、こういう時、決して車の中で震えて待っていたりしないわよ」
そう言うと、田辺の顔は一瞬はっとしたように変わった。別に意外な事ではないが、田辺は映画に出てくるようなハードボイルドな探偵が大好きだ。
「でも、死体があるんですよ。首吊りの」
「本当に死体だったかすら確認してないじゃない」
田辺は、じっとわたしを見つめていたけれど、すぐに首を振った。
「本物でした。間違いありません。僕はまじまじと見てしまったですから」
「それならそれで、誰なのか、自殺なのか他殺なのか確認するでしょ?」
「フィリップ・マーロウなら、ですか?」
「シャーロック・ホームズでも名探偵コナンでもよ」
「それはそうですけど・・・」
わたしは、なんでこんなにも、わざわざ恐ろしい死体を見に行こうとしているのか分からなくなっていた。確かに、わたしだって、わざわざこんな探偵サークルに入ったくらいだから、本物の事件に興味が無かったわけではない。でも、それは程度と場合によるじゃない?
わたしは、首を振った。何かが気になるのだ。一瞬だけ見たあの死体の何かが。
「わたしは行くわよ」
そう言い放つと、後部座席の段ボール箱から、手袋を取り出した。薄手の白いやつだ。いつもは雰囲気だけの役割しか果たしていない手袋だ。
「本気ですか?」
田辺はじっとわたしを見ていた。わたしは、ロックを外し、ドアを開けた。途端に雨が肩にかかった。
「警察になんて言えばいいんですか?現場を荒しちゃまずいですよ」
「荒したりなんかしないわよ。見てくるだけよ」
そう言うと、わたしはライトを手に雨の中を走り出した。顔に雨がかかって冷たかった。なんとなく現実感がよみがえってきていた。門の鉄扉もただのありふれた物に見えた。庭の落ち葉が何だって言うのよ。一年もほったらかしになっていたら、こうなるのは当り前じゃない。気持ちが悪いかどうかなんて、関係無いことだわ。飛び乗るようにして縁側から家に入った。途端に、それまでの強気が無くなるのを感じた。
やっぱり怖い。
雨音が遠くに感じた。ぴちゃぴちゃと滴が落ちる音がする。雨樋くらい直して欲しいわ、と思って、すぐに空き家だと思い出した。振り返れば、それ以上進めなくなると分かっていたから、振り向かなかった。この上にあるのは、ただの死体で、幽霊じゃないわ。噛みついたりはしないのよ。
そう思ってから、首吊り死体が噛みついてくるところを想像してしまって、余計に怖くなった。どうしよう。
薄暗い一階の縁側で、わたしは前にも後にも進めずにしばらく立っていた。
田辺くん、来てくれたりしないかしら。
耳をすませるが、雨が壁を叩く音以外には、何も聞こえなかった。
薄情者。
わたしは、そうっと一歩前へ足を出した。
何よ、行くわよ。行けばいいんでしょ。調べてやるわ。わたしだって探偵なんだから。
ライトのスイッチを入れ、奥へと進む。何度も通ったお陰で、まっすぐに階段までたどり着いた。きしむ階段に足をかけ、さらに暗くなったように思える空間を進んでいく。もう怖くて何も見えなかった。
階段は、やたらと長く感じた。やっと上りきって、手前の部屋をちらっと覗いてから奥へと進む。
さっき、開けっぱなしで来たから、ふすまは開いていた。その奥は暗くて良く見えない。埃っぽい匂いの中に、かすかに生臭いような、変な匂いが混じっていた。
ぐっと息を詰めて、わたしはそちらに歩きかけた。
その瞬間、階段のきしむ音がした。わたしは詰めた息が、そのまま止まるかと思うほど驚いて、わたしはその場に固まった。次の瞬間、間抜けな声がした。
「奈々先輩?」
振り返ると、田辺が、明るいほうのライトを手に階段から現われた。
「田辺くん」
びくびくしているのが、暗い中でも分かるほどだった。
「一人で置いていかれるのも怖いですよ」
「馬鹿ね」
わたしは、ほっとして言った。正直に言って、一人ではあの部屋の奥を覗くのは出来ないような気がしていたのだ。
気を取り直して、その勇気が消える前にわたしは奥へと進んだ。しっかりと田辺の手を握っていた。襖の奥へライトを向けるのにも勇気が必要だったけれど、勢いでそれをやってのけた。
目を剥いた男がぶら下がっている。薄い色のワイシャツに黒っぽいスラックス。ネクタイは無い。かわりに首には太いロープが巻き付いていた。筋肉質の男だ。
「あ」
わたしは、気がついた。
「ど、どうしたんですか?な、奈々先輩」
今にも逃げ出しそうな声で田辺が言った。
「貴文」
「え?」
「平松貴文よ」
「知り合いですか?」
知り合いってほどのものじゃないわ、と思いながら、
「この前、来た時にこの人の車に乗ったのよ」
田辺は、二、三秒黙っていたけれど、
「あ、土蔵屋敷の息子、とかいう」
わたしは、そのぶら下がった死体の顔を眺めた。気分が悪くなった。
「なんで、この人が・・・」
「自殺するような感じでしたか?」
田辺は、死体が知り合いだと分かって、何故か落ち着いてきたように見えた。
「自殺なんかするような人じゃないわよ、この人は」
そう言って、わたしは気がついた。顔に血がついている。わたしは、おそるおそる、部屋に入ると、死体の背後に回り込んだ。ロープは天井から伸びている。部屋のほぼ中央だった。
「電器を取り付けるところですね」
見上げると、照明を取り付けるフックにロープがかかっているようだった。
「良く、天井が落ちなかったですね」
完全に、いつもの声に戻った田辺はそう言った。死体と一緒に暗い部屋の中にいると思うと、かなり場違いな声に聞こえた。けれど、それが逆に、わたしの気持ちも落ち着かせた。
「梁が入っているのね、天井の真ん中に。かなり重い照明を取り付けていたのかもしれないわね、元は」
ロープとは別に、かなり太い鎖がフックから下がっている。いろりでも下げていたのかしら、と思った。そんな馬鹿な。
「それよりも、後頭部を照らしてみて」
わたしは、自分のライトが暗すぎて良く見えないことにいらだっていた。
「カーテン、開けましょうか?」
わたしは、少しだけ考えた。警察にどう言えばいいんだろう。
「そうね、開けましょう」
いいわ。警察が来る前に、下に降りれば。カーテンは閉め直せばいい。
田辺が、歩いて行って、さっとカーテンを開けた。暗いとはいえ、光が差し込む。
「思った通りだわ。頭から血が出た跡がある」
田辺は戻ってきて、わたしの隣で見上げた。
「下からでは良く分かりませんけど、そう見えますね」
目線よりもかなり高い位置にある頭部は、下半分しか見えない。首がロープにかかって、前に傾いているから、上のほうは全く見えなかった。けれど、薄水色のシャツに黒く変色した染みがついているのは分かった。かなりの出血だったに違いない。ワイシャツの襟の部分だけでなく、その下5センチほどが黒くなっていた。
「大きな石か何かで殴られて死んだんでしょうか?」
田辺は、その染みを見ながら言った。わたしは、再び死体の前に移動した。恐ろしい顔だった。口を開けて、生気の無い目が虚空を見つめていた。いや、何も見ていないのか。額に少し、黒い血の跡があった。髪は、その血で濡れたようになったまま固まっているように見えた。口や鼻から溢れたものは、乾いていて白い跡になっていた。
見ていると、恐ろしいので、目をそらした。ふと、シャツの胸ポケットに紙切れが入っているのを見つけた。わたしは、そっと手を伸ばした。
「何をしているんですか?」
田辺は、慌てて言った。
「ポケットに何か入っているの」
手が届くぎりぎりの高さだった。確かに、死体に寄り添うに近寄れば取れなくも無かったけれど、それはちょっと出来そうにも無い。怖いからだ。
「田辺くん、取って」
わたしは、手袋を片方脱ぎながら言った。
「え、嫌ですよ。触りたくないです」
急に、びくびくし始めた田辺は、そう言った。
「届かないもの。はい、これ」
手袋を渡して、わたしは、死体から離れた。田辺は、じっとその手袋を眺めていたけれど、諦めたように、それを右手にはめると、近寄って手を伸ばした。
「取りましたけど」
わたしは、手袋を付けたほうの左手で、それをつまみ、彼の右手と協力して開いた。
「私を追うものは、こうなるのだ。私はお前達に捕まりはしない」
そこには、それだけ書かれていた。
「犯人からのメッセージってやつですか。どういう意味ですかね?」
田辺はぼそっと言った。
「分からないわ」
そう言うと、わたしは、それを元に戻すように田辺に手ぶりで言った。それから、部屋を見回した。何も無い部屋だった。ただ、カーテンの前に、黒い染みがあるのに気が付いた。
「血液ね、たぶん」
そう言うと、田辺も来て、かがみこんだ。
「ここで殴られたんでしょうか?」
「さあ、それはどうかしら。でも、ここに寝かされたか、倒れたかしていたことは確かでしょう」
血液は、一方へ引っぱられたように伸びていて、良く見ると、他にもいくつかの血痕があることに気が付いた。死体のシャツにも、ところどころ血の跡がある。特に背中側に。
「引きずられたのね」
わたしは、そこで腕時計を確認した。
「そろそろ戻りましょう。警察が来るとまずいわ」
田辺は、
「え?」
と、言った。
「警察には、わたし達が入ったことは秘密にしましょう」
そう言いながら、カーテンを閉め、それから部屋を後にした。
帰りは、ゆっくりと階段を降りた。気味の悪さよりも、疑問が頭を占めていた。




