酔いどれ探偵、仕事を押し付けられる
講義に出るような気分じゃなくなっていた。
いや、気分とかそういう問題じゃないってことはわかっている。いいのよ、どうせ就職活動もしてないんだから。いっそ留年したほうがいいの。いいわけだけど。
行くあてはないけれど、かと言ってアパートの部屋に戻るのも嫌だった。アパートは洋一の思い出が多すぎる。今は戻りたくない。そうなると、サークル棟くらいしか行くところ、思い付かなかった。お金ないし。
アストに恋人がいる、と聞いて、どうして悲しくなったんだろう。
もちろん、彼と付き合いたいなんて思ったことはない。いろいろと、アストは、わたしのことを気づかってくれるけれど、わたしにはそんな気はない。彼もそのことは知っている。だから、恋人を作っても、文句は言えない。言う理屈も無い。
ショックなのは、彼に恋人が出来た事では無い、と思う。アストと一美の会話が、いやでも洋一とのことを思い出させるからだ。アストと洋一は友達だったし、かなり似た者どうしだったと思う。バイクが好きだったし、妙に性格も似ている。
だから、余計に洋一の事を思い出させる。
こんな気持ちで、アパートには戻りたくない。
思い出が交錯しているあの部屋には帰りたくない。わたしが愛した洋一の面影が帰りを待っている。もういなくなってしまった洋一を感じていられる唯一の場所だけれど、楽しくない思い出も一杯ある場所だ。あの部屋に戻れば、わたしはまたアルコールに浸って夜を迎え、悪夢を見るために眠りに落ちていくだろう。
わたしは、サークル棟に行くことに決めた。
サークル棟三階、その日当りが一番悪い北側の一角。そこが目的地。
痛みかけのスチールドアに取り付けられた、まだ新しいプレートには「杉並大学探偵事務所」のネーム。
ドアを開くと、あいかわらず散らかった部屋が目に入った。でも、エアコンが効いている。誰かいるの?と思って見回す。
「田辺くん?」
何故か、ソファーの向こうに背中だけが見えた。
「何しているの?そんなところで」
田辺は、ようやくわたしに気が付いて立ち上がった。
「ああ、奈々先輩じゃないですか。お久しぶりです」
そのあいさつは聞き飽きたわ。わたしが悪いんだけど。
「何してたの?」
「あ?これ?猫の篭が閉まらなくて。鍵を直していたんです」
「猫?」
「行方不明の捜索で」
「ああ、ペットの捜索ね」
わたしは、それだけ言うと、ソファーに腰を下ろした。
「奈々先輩」
「なあに?」
「さっそくなんですけど、仕事を引き受けてくれませんか?」
「仕事?」
わたしは振り返った。
「なんの?」
「ペット探しじゃないです。身元調査なんですけど、一週間全部かかる大仕事で」
私立探偵を名乗っているけれど、うちは本当は探偵事務所じゃない。少なくとも設立当時は違っていた。今から十五年以上前、当時の学生がミステリーの小説や映画を研究するという目的で飲み会サークルを創立した。けれども、紛らわしい名称を付けたものだから、勘違いした学生が調査依頼に現われるようになってしまった。
いくら、名目だけとはいえ、もともとミステリーや探偵ものが好きな集まりである。断わるはずもなく、いつしか、本業になってしまった。当然、調査費は依頼者に請求する。大学当局が目を光らせているから、たいした稼ぎにはなっていないけれど。
「仕事はしたくないなあ」
わたしは、ぼうっとつぶやいた。
「そんなあ。奈々先輩だけが頼りなんです」
「そんなことないでしょ。アストや他のみんなに頼めば?」
「みんな忙しいんです」
「わたしだって忙しいわよ」
「そんなことないでしょ?だって大学で見かけませんよ?後期はほとんど出席してませんよね?」
それはそうだけど。
「でも、単位は取らないと」
「もう遅いですよ、奈々先輩」
余計なお世話よ。黙っていると、田辺が続けた。
「とにかく、引き受けてしまいましたからやらないと」
「自分で引き受けたなら田辺くんがやればいいでしょう?」
「そのつもりだったんですけど、レポートのやり直しをくらってしまって。午後から行かなくちゃ駄目なんです。今日の午後だけでいいですから代わってください」
そう言いながら、田辺はわたしに両手を合わせて拝むようにした。わたしはため息をついた。
「わかったわ。今日だけよ」
ぱっと顔を輝かせると、田辺は「ありがとうございます」と言ってデスクへ走って行った。慌てて床に落ちていたバケツを蹴り飛ばした。ブリキのバケツはドリフのコントのような音を立てて転がった 。ドリフなんて、見たこと無いけど。
「これ、これが書類です」
そう言うと、一枚の紙切れを手渡した。
「何、これ」
「電話で依頼を受けたときのメモです。詳しいことは書いてあります」
「あ、そう」
それだけ言うと、ぱっと時計を見上げて田辺は「あ」と言った。
「もう、行かないと。遅れたら大変だ」
どたばたと荷物をまとめ、事務所のドアを開ける。
「じゃあ、あとはよろしくお願いします」
そう言い残すとドアをバタンと閉めて出て行った。急に部屋の中が静かになった。わたしは、仕方なく手渡された紙切れに目を落とした。
「午後二時?」
さっと時計を見上げると時刻は一時五十分を指していた。
「ちょっと、間に合わないじゃない」
慌てて立ち上がった。その途端「にゃー」と声がした。見下ろすと子猫が、わたしの足にじゃれついていた。
鍵が壊れているとかって・・・。




