(第二話)追憶は陽炎のように
第二話目。通算だと6話目になります。
季節は秋になっています。
ワンルームのアパートの窓からは気持ちのいい青空が見えた。
グラスの中で水割りの氷が「カラン」と音を立てた。
もうすぐ、お昼になる。大学の喧騒が、閉め切ったガラスの向こうから聞こえてくる。今週は、一度も大学へ行っていない。ほんの目と鼻の先にあるというに。
残暑もようやく落ち着いて、十月の空が絶好のお出かけ日和だよ、とささやいている。
わたしは、落ちてきたキャミソールの紐を肩へ戻した。
今日はいい天気。せっかくバイクを持っているのだから、どこかへふらっと出かけてしまえると気分も晴れるだろう。階下に止めた400のスポーツバイク。洋一が置いていった白と赤とヤマハ。あれで出かけることが出来たなら。
「でも駄目なのよね」
そっと薄いウイスキーを口へ運んでつぶやいた。
傷ついたカウルは血のように流れ出したオイルに濡れている。走らせることは出来ない。見るのもつらくて、シートを被せたまま。
「せめて大学に行かなくちゃ」
何度目かの台詞をつぶやくと、また窓の外を眺めた。
単位は足りていた。卒業することが出来るかどうかは、卒論にかかっている。
「行かなくちゃ」
いくつか残った講義がある。計算上は単位は足りている。四年生後期の授業をちゃんと出席すれば。ちらっと時計を見上げると正午を指していた。ウイスキーをテーブルに置く。
再び「カラン」と氷が音を立てた。
決断してから実際に動くまでに数十分が必要だった。
シャワーを浴びて、久しぶりに化粧して広がろうとする長く伸びた髪をドライヤーで撫で付けると、お昼休みは終わって、大学構内は静かになっていた。
迷うことなく、講義には出ないで生協に向かう。
食欲は、あまりなかった。ただ、前夜から食べていなかったし、理屈的には食べたほうがいい、と思っただけ。講義を受けるにしても、食べておいたほうがいいんじゃないか、と自分に言い訳したってこと。
本当は、何もしたくないのかもしれない。このまま誰にも気付かれないうちに消えてしまえたらいいのに。
サンドイッチセットを注文して、セルフサービスで受け取ると、わたしは席についた。ちょっとすすったコーヒーは渋くて、わたしはクリームを足した。たぶん、何時間も前に煎れたコーヒーなんだろう。生協だもの。おいしいコーヒーを期待するほうが間違いってものよ。二流国立大学なんて。
ぱさぱさのサンドイッチを一つ掴むと、思い切って噛み付いた。
「あれ?奈々。久しぶりだね」
聞き覚えのある声がして、わたしはパンに噛み付いたまま振り返った。
「アスト」
わたしは、レタスと乾きかけのパンをコーヒーで飲み込むと、ようやくそれだけ言った。
「随分と久しぶりじゃないか、奈々」
そう言いながら、勝手にわたしの隣に腰を下ろした。
「皮肉なの?」
わたしは、眉をしかめて聞いた。
「まさか。事実を述べたに過ぎんよ。それよりもどうした?こんな時間に」
わたしは周りを見回して、それから時計を見た。一時半。午後の。
「どういう意味?」
「昼間に見たのが久しぶりでね」
「放って置いてよ」
わたしは、トマトサンドイッチに再び噛み付いた。なんとなく、胃が食事という行為を思い出したようだ。お腹がすいてきたような気がする。
「それより、アストこそ何をしているの?」
彼は一年下だから、今年は三年生。わたしが三年だったころよりも遥かに少ない単位を取得したに過ぎない彼は、ふらふらとしていられるほど恵まれた環境ではない。
「オレ?オレは待ち合わせでね」
「誰と?」
二つ目のサンドイッチをコーヒーで流し込んだ。それにしても、このまずいコーヒーは食欲を抑制する。まさか、最近始めた生協のダイエットメニューって、これのことじゃないわよね。
「彼女」
アストがつぶやいた。
「え?」
「彼女だよ。大学に来ていない奈々は知らないだろうけど、他のみんなは知ってるよ」
「他のみんなって?」
「事務所の、だよ」
事務所、とアストが呼んだのは、サークルのことだ。わけあって、うちのサークルは事務所と呼ばれている。
「そう。どっちでもいいけど」
わたしは、三つめのサンドイッチを掴みかけて、やっぱりやめてアストの横顔を眺めた。
彫りの深い顔。彼が言うには純粋の日本人らしいけど。アストという名前だって、本当は漢字で書くのだ。教えてくれたこと、ないけれど。たぶん、「遊び人」とか書くんだ、きっと。
「誰か、って聞かないのか?」
アストは、振り向いて言った。
「聞いて欲しいなら」
にっこりと微笑んで、アストは言った。なによ、それ。
「一美。須藤一美」
須藤・・・。
「誰だっけ?」
アストが、一瞬だけ侮蔑するような目でわたしを見た。
「後輩だよ、奈々の。今年入って来た」
「ああ、そういえばそんな子もいたような」
「おいおい、おまえ、事務所の所長だろ?一応」
「そうだけど。そろそろ譲るわ。わたしも四年だし」
「そういうことじゃなくて・・・」
言いかけた言葉をアストは途中で止めて顔を上げた。つられて顔を上げる。そこには、かわいらしい女の子がこっちに手を振っていた。あれ?あんなかわいい子、うちにいたっけ?
「アスト」
そう言いながら近寄ってきた彼女は、わたしに気が付くと「あ」と言った。
「お久しぶりですね、奈々先輩」
「ええ」
なんとなく返事をするけれど、思い出せなかった。いたような気もするし、そうでなかったような気もする。
「ちゃんと出て来てくださいよ、奈々先輩。町田先輩も忙しそうですよ」
なんだろうね、一年生におせっかいをされる所長って。笑顔で一美は言うと、アストに振り返った。町田アスト、に。
「ねえアスト。今日は何処に連れて行ってくれるの?」
一美が、そう言うとアストはにやにやとした。
「そうだな、バイクで海に行かないか?」
海、ね。いいの?単位がやばいんでしょ。思ったけど、言わなかった。
「海。うん、行く」
うれしそうにアストに飛びついた一美は、はしゃぎ回っていた。わたしは、食欲が無くなってきた。
そんな会話をしたのはどのくらい前のことだったかしら。洋一とそんな会話をしたのは。
「じゃあ、わたしは帰るわね」
そう言って、わたしは立ち上がった。
「もう行くのか?奈々、まだ半分も食べてないだろ?」
アストが座ったまま言った。
「いいの。なんか食欲、無くて」
そう言い残して、わたしは振り返らずに食堂をあとにした。




