「I」
二人が出て行って、しばらく沈黙が続いた。
わたしは、何か気になっていた。何が気に入らないのかわからないままだ。でも、何か変だ。でも、それも今夜、みんなで話し合っていればわかるのかもしれない。ちらっと時計を見る。午前2時半。ミッドナイト。そう言えば由香は3時の約束だ。行けそうに無い。
磯崎はわたしから目をそらした。わたしは沈黙に耐えられなくなってテレビのリモコンをつかんだ。サークルの備品で壊れかけのテレビ。
「奈々さん、でしたよね?もし、奈々さんがドラッグの元締めだったとしたら、どうしますか?」
下を向いたまま、磯崎は言った。
「なんのこと?」
磯崎はテレビを指差した。数時間前に聞いたニュースをやっている。山中のコテージでのドラッグパーティー。薬をやった上での殺人事件。
「これだって、誰かが流したドラッグに違いないんです。警察は薬の出所を探すでしょう。そうなれば逃れられない」
「わたしならっていうわけじゃないけれど、証拠を消そうとするでしょうね。間に入っているバイヤーの口をふさぐ、たぶん」
「殺すって事ですか?」
「そうは言わないけど。状況によるんじゃない?信頼のおけるバイヤーかもしれないし」
「そのバイヤー自身がヤク中だったら?信頼はおけませんよね」
「さあ。そうかもしれないわね」
わたしは上の空で答えた。なんでそんなことを聞くんだろう。
「ぶっちゃけ、奈々さん。どこまで知っていますか」
「なんのこと?」
磯崎が顔を上げた。その表情は真っ白だった。感情が消えている。
「麻美に、どこまで聞いたんですか?」
磯崎の向こう側にテレビが写る。そこには死亡した若者の顔が出ている。嫌な胸騒ぎがする。知っている顔だったからだ。
「まさか、山中湖の事件は麻美が渡したドラッグなの?」
磯崎も振り向いた。
「やっぱり。こいつを知っているんですね。麻美の調査の報告書に書いてありましたね。深夜、麻美は男に紙袋を手渡した。追跡したのは町田アスト。こいつの顔を知っているのは、二人だけですね。写真は無かったですから。でも口ぶりからすると、他の人は知らないんだ。そう。これは麻美のドラッグです。失敗品のドラッグだ。脳の神経回路に影響を及ぼして混乱させてしまう。わかりやすく言えば、これは妄想を生む。そして怒りの感情を増幅させる。量が多ければ殺人衝動すら起きてしまう」
「詳しいわね」
わたしは、自分の心臓の音を聞いていた。喉の奥で激しく鼓動している。
「ちょっと出かけましょうか、奈々さん」
「嫌だって言ったら?」
磯崎は立ち上がって、わたしに手を差し伸べた。
「死ぬだけですよ、二人ばかりね。麻美と由香が。もっとも一緒に来てもらっても助けることは出来ないでしょうけど」
そう言うと、磯崎は口元をゆがめて笑った。冷たい笑みだった。
その時、ようやくわたしには本当の筋書きが見えてきた。でも、それは遅すぎだった。
状況証拠は全て揃っていた。
読み間違えたのは思い込みのせいだ。普通ならこうだ、という思い込みが筋書を読み間違えさせたのだ。ゆっくりと考える時間も無かった。でも、たった一つの事に思いをめぐらせれば、これは想像が出来たかもしれない。
今さら遅いけれど。
つまり、全部逆だったのだ。順番が全部逆。確たる証拠もないのに思い込んだ、わたしたちが悪い。突然、それがわかったのだ。
「あなたがドラッグディーラーだったということなのね」
わたしは、磯崎の運転する車の助手席にいた。田辺が借りてきた白いアルト。どこへ向かっているのかも知っていた。アスト達も、もうしばらくすると知るだろう。だけど彼等は来ない。すべては磯崎の計算通りに進むだろう。その計算では、わたしは明日まで生きていない。
「唯一の供給元ってわけじゃない」
「でも、最も大きい供給元だわ」
「そうだ。麻美は次々にドラッグを欲しがった。オレは与えたよ。愛していたから。でも資金だってすぐに無くなってしまった。だから手を広げるしかなかった」
麻美はドラッグをバイト先で手にいれていたわけじゃないのだ。ドラッグが先で、バイトが後なのだ。ドラッグの資金のためにバイトを始めたのだ。
「愛していたら、ドラッグをやめさせるのが筋でしょう」
「そんな簡単にはいかないんだよ。最初はいつでもやめられるはずだった。でもそのうち、
麻美はドラッグ無しでは一日を終えられなくなっていたんだ。完全に中毒だよ」
「どこから手に入れていたの?」
「最初はネットから。そのうち、自分で作るようになったよ。成分を研究して、出来るだけ合法な成分から最大の効果を得ようとした。研究室には、それを分析する装置も合成する材料もいくらかはあった」
「得意になって作っていたわけ」
「そうじゃない!」
「でも、売るほど作っていた」
「仕方無かったんだ。そうしなければ麻美はオレを巻き沿いにしてやるって言ったんだ。バイヤーは麻美だ。オレは作っただけ。だけど、やめれば彼女は正気ではいられない。オレも捕まる」
「彼女が脅していたわけ?あなたを」
「ふん。だけどそれも今夜限りだ。あいつは死ぬよ」
そうつぶやいた磯崎の目はぼんやりとしていた。わたしは寒気がした。
「彼女に何をしたの?」
「由香に会いに行かせただけだよ。由香は麻美こそが魔女だと思っている。彼女のせいで苦しんでいると思い込んでいる。簡単なことだったよ。あの薬は神経回路を狂わせる。どういうメカニズムか、まだわからないけれど洗脳に使うことだって出来るんだ。今夜、あの二人は、あの薬を飲んで出会う。強烈な殺人衝動が起きる失敗作だ。あとは勝手にお互いに殺し合うだろう。そういうふうに思い込ませてあるからね」
由香は相談していた人がいると言っていた。相談相手は磯崎だって事か。たしか、由香の手帳には「I」のイニシャルのある予定が入っていた。最初から磯崎は由香に麻美を殺させるつもりだったのかもしれない。途方もなくめんどくさい方法を使って。最初から、そのつもりで近づいたのかも。
「そんなバカなことが」
わたしは思わずそう言った。
「大丈夫だよ。実証済みだ、山中湖でね。それにオレも麻美に殺されかかっている」
「そんなに簡単に人をコントロールできるものじゃないわ」
「コントロールなんてしないよ。勝手に殺し合うだけだ。奈々さんは、それを止めに行くんだ。そして失敗するというのがオレの読みだよ。で、そんな頃、オレは奈々さんの友達と話をしているわけ。疑われる心配無し」
「アストは、そんなにバカじゃないわ」
「さあ、それはどうかな」
「黙っていれば誰にも知られなかったかもしれないのに。どうしてわたしに話したの?」
磯崎はため息をついた。
「由香の頼みを断わったからだよ。由香と一緒に行ってくれれば、こんな面倒を掛けずに済んだのに。計画を修正しているだけだよ。もともと調査を頼んだのは麻美の交友関係を探るためだった。オレが薬を作っていることを誰が知っているのか知る必要があった。麻美はちゃっかりしているよ。卸元を言ってなかったんだ。直接取り引きで利益が減っては困るからね。それに殺したのが由香で、オレじゃないっていう証明をしてもらう必要もあった。麻美が殺された時に現場のも目撃者がいればオレは疑われなくてすむ。なにせ恋人だからね。オレは第一容疑者ってわけ。なのに、由香はあんたと知り合いになってしまうし、ドラッグで死人まで出てしまった。あれは偶然なんだ。麻美は勝手に薬を持ち出して売ってしまったんだ。そいつで死んだのも偶然だ。量が多すぎるとこんなにも強烈に殺人衝動を引き起こすとは思わなかった。いつか起きるかもしれないとは思っていたけれど、こんなに早く起きるとは思わなかったんだ。だから計画を急ぐしかなかった」
磯崎は車のウインカーを出して路地へと入っていく。
「うちの大学じゃ有名人だからね、探偵の奈々さん。今までいろんな事件を解決してきた話はみんな知っている。いずれ感づいたよ、あんたなら。事実、ちょっとヒントを出したらわかってしまったし。麻美がどこまであんたに話しているのか知る必要もあったしね」
車は停車した。時計は3時ジャスト。そこは河川敷きだった。こんな真夜中に歩いている人はいない。遠くに橋は見えるけれど、明るい橋の上から暗い河川敷きで起きていることはわからないだろう。堤防が人家からの視線も遮っている。こんな場所に女二人を呼び出しているなんていうのは信じられなかった。そんなところに真夜中に由香と麻美は来るというのだろうか。
「あそこに車が停めてある。今日、オレが借りてきたレンタカーだよ。麻美に使わせるためにね」
言われた方をみれば、たしかにそこには白い小型車が停まっていた。
「由香は必死だから、こんな真夜中にでも歩いて来るだろう。見届けられないのは残念だけど、そろそろ降りてくれないか」
「降りないといったら?」
「あの二人が殺し合うのを見過ごすつもりだって?それは出来ないだろう、オレが聞いた、あんたの性格からいって」
「そうね。でも行っても行かなくて同じ結果だとしたらどうかしら」
磯崎は、ふっと息をはいた。それからゆっくりとこっちを向いた。
「その時は、また計画を修正するしかないな」
わたしは、慌ててドアハンドルを引いた。磯崎も自分の側のドアを開く。磯崎が短いアルトのボンネットを回り込むのに時間はたいしてかからない。わたしは飛び出した。足元は真っ暗で何があるのか見えなかった。それでも一生懸命に逃げるしかなかった。そこは一本道で、道の両側は薮だ。手入れのないまま荒れ放題になった草と低木の薮だ。逃げ込めばすぐに追いつかれる。先へ進めば由香か麻美に出会うだろう。来た方へ逃げるしかない。
追いつかれる、と思った瞬間。どん、と突き飛ばされた。追いついた瞬間に彼はわたしを突き飛ばしたのだ。
足がもつれてわたしは倒れ込む。磯崎がつかもうとする腕に必死で抵抗を試みた。
「あきらめろよ」
腕が首にかかる。振りほどこうと磯崎の腕をつかむが、その力は強くて徐々に意識が薄れていく。磯崎はわたしを地面に押し付けて両腕でわたしの首をしめていた。わたしの腕から、足から体から力が抜けていく。首に押し付けられる力だけが急速に強さを増していく。見えなくなる視界の遠くで磯崎が笑っているのが見える気がした。
もうだめかも。
首を締め付ける男の背後に月が見えた。世界が遠のく。音が聞こえなくなっていく。磯崎の息づかいも遠くなる。ふっと視界が暗くなった。
意識を失った、と思った時、急に首への圧迫が無くなった。磯崎の力が弱まった。ぱっと広がった視界にもう一つの影が写った。誰かが磯崎を殴ったのだ、とわかった。磯崎は頭をおさえてうめきながら振り向いた。
「麻美・・・」
彼女の動きにためらいはなかった。手元で何かが月の光を反射して、それは一気に磯崎に突き立てられた。
「バカ。殺す相手が違うだろう・・・」
どさり、と磯崎が倒れ込んだ。麻美はそのまま立っていた。ナイフを手に持ったまま、彼女は立っていた。わたしは声が出なかった。首のダメージもあったけれど、なにより驚きで声がでなかった。
麻美は、わたしを見ていなかった。手にしたナイフを見ると汚いものでも扱うように投げ捨てた。そうしてくるっと、振り向いて歩き出した。
「待って」
かすれた声で言ったが、彼女には届かなかった。聞こえなかったとは思えなかったけれど、彼女は立ち止まらなかった。
後になって、由香はあの場所へ行かなかったのだ、と知った。
麻美の行方はわからなかった。あの日以来、誰も彼女を見ていない。警察は探しているが見つからないかもしれない、とわたしは思う。彼女は、もうこの世界にはいないような気がして仕方が無い。磯崎の作った薬は人間らしさを破壊するような作用があった。あの日に見た麻美には全然ためらいがなかった。人の命を奪うことに疑問を抱く素振りもなかった。磯崎が何をしたのかわからないが、人間は、そんなに簡単に洗脳されてしまうものではないはずだ。薬が、彼女の何かを破壊したのだ、とわたしは思う。
彼女は、そこへ来た最初の人物を殺す。
それが誰であるか、なんの目的なのか、そんなことはどうでもよかったのかもしれない。由香は、その日、そこへは行かなかった。あそこへ行ったのは、磯崎とわたしだけ。最初に目にした磯崎を殺して、そして立ち去った。
ひょっとしたら、彼女はどこかの河川敷きで、誰かを殺そうと待っているのかもしれない。そこには理由も何も無い。ただ、誰かを待っているのかもしれない。そんな姿しか、わたしには浮かんでこないのだ。




