異邦の妖怪たち 【3】
「お兄ちゃんは、リュカを庇って、怪我をしたの……? それで、心を失くしちゃったの……?」
ほのみの呟きに、リュカは頷いた。
「そうだ。ハジメ、けがした。ずっと、おきなかった。おきたら、はなせなくなった。いろいろ、おしえてくれなくなった。オレが、した」
黒狼は物言わず、静かにリュカに寄り添っている。
心配するなと言っているようだ。ほのみの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「そんな……それは……あなたのせいじゃないよ……」
ほのみは小さく首を横に振った。どんな理由があっても、戦ったのは創の意思だ。父と母が、祖父と祖母が、ご先祖たちが、みんなそうだったように。
「大兄ちゃん……のんびり屋のくせに、がんばって戦ったんだね……心が失くなって、人の姿に戻れなくなるくらい……だから、外国は危ないから、心配だったのに……」
泣けばリュカを不安にさせてしまう。だから、泣いちゃいけないと思うのに、最後のほうは涙声になった。すん、と鼻を啜り、小さく息をつく。
リュカの傍から、黒狼がすっと離れ、ほのみの体に身をすり寄せた。
大丈夫だよ、そんなふうに、頭を撫でてくれているみたいで、ほのみは結局泣いてしまった。
本当は、心があるんじゃないかしら。そんな期待を持ってしまう。
「……お、にい、ちゃ……」
ぐすぐすと泣いていると、リュカがほのみの手を握り返し、強い口調で言った。
「なくな、ほのみ。オレが、まもる。ほのみのこと」
「……え?」
リュカの手は、ヴァヴより冷たい。繋いだ右手は、春なのに氷を触っているみたいだ。白くて細い指が、ほのみの指に絡まる。
「オレに、いろいろ、くれた、ハジメが、さいしょだ。ハジメは、オレの、だいじだ」
「お兄ちゃんが、大事……?」
「ハジメとヴァヴ、オレをみつけて、くれた。オレの、かぞく、だ」
潤んだ目を上げたほのみに、リュカは真っ直ぐな目を向けていた。
「オレ、こんどは、まもる。ほのみも、ヴァヴも、ツグムも、サンタも。……ハジメの、だいじは、オレがまもる、から」
たどたどしい言葉だが、力強く、少年は言った。
「やくそく、した。ハジメが、したいこと、オレがする」
「それって、あたしたち家族を守ること……?」
「そうだ」
痛いほど右手を握られ、ほのみは顔をしかめそうになりながら、もうあまりこの話はしてはいけない気がした。
「ね……リュカ。もう、いいよ。そんなこと、考えなくて大丈夫。大兄ちゃんもこの村でゆっくり休んでたら、元気になって、きっと元に戻るよ」
元に戻るなんて、そんな保証は無い。けれど、これ以上リュカに自分を責めてほしくはないし、悲しい気持ちにもなってほしくなかった。そんなの、創も望んでいないだろう。
「だから、もっと楽しいこと考えようよ。日本には楽しいこと、いっぱいあるよ」
左手を伸ばし、リュカの白い髪を撫でる。髪も服装同様にあまり構っていないらしく、無造作に跳ねたところもあるけれど、さらさらとしていて触り心地がよかった。砂糖で作ったお菓子みたい。ほのみの黒くて硬い髪とは全然違う。男の子なのに、顔も肌も髪もとても綺麗な子。
「明日は村を案内してあげる。みんな優しくて、楽しい人たちばっかりだよ。同じ歳の子は、あたしたち以外にはいないけどね。でも学校に行ったら、きっと友達がたくさん出来るよ。リュカ、かっこいいから、女の子にすごくモテちゃうかもね。あ、ちゃんとした服も買おうね。せっかく日本にきたんだから、外道のことなんて考えなくていいんだよ。大兄ちゃんだってきっと、そう思ってる」
雪みたいな白い肌はひんやりとしているが、ほのみは体温が高いほうだから、手を繋いでいると彼の手にも熱が伝わり、じんわりと温まっていく。二人の温度が混ざり合い、繋いだところがちょうど良い温かさになった。ほのみはにっこりと笑った。
「ね、もう中に入ろう。今日の晩ごはんはね、ごちそうなんだよ。昨日から次兄ちゃんと二人で、がんばって準備したんだよ。色々作ったの。トマト好き? お口に合うといいけど」
「ごはん? たべて、いいのか?」
険しい表情をしていたリュカが、目を丸くした。その表情はあどけなく、感情の無い人形みたいだと思ったことを、ほのみは反省した。表情を作るのが、少し下手なだけなんだ。
「うん。もちろんだよ。お兄ちゃんたちも、ヴァヴさんも、皆で一緒に食べよう!」
元気良くそう言ったほのみだったが、そこに創も居て、一緒に食べられたなら良かったのにと思い、彼の様子をうかがった。黒狼はただ静かに、自分たちの後ろをついてくるだけだった。
「さて、大兄ちゃん……」
腕まくりをし、エプロンと三角巾を身に着けたほのみは、玄関先に大人しく座っている黒狼を見下ろした。
「……いくら大兄ちゃんでも、そのまま家にあげるわけには行かないわ……」
いつから洗っていないのか知らないが、黒い毛は薄汚れ、リュカと庭を歩き回った足の裏には土がこびりついている。
完全に狼化したと言っても、創だけ家の外に放り出しておくことは、心情的に出来ない。まずは廊下に古新聞紙を敷き、そこに上がらせた。新聞紙は使われていない和室まで続いていた。
「洗うわ」
大きなたらいを用意し、そこに湯を張ってある。
「でも、この姿でよく日本に来られたね。姿くらましは出来るの?」
そう話しかけても、彼が答えられるはずもない。新聞紙の上に立ち、じっとほのみを見るばかりだ。
姿くらましは、妖怪が人間の世界で暮らすには重要な術だ。たとえ狼の本性を晒しても、その姿は人間にはちょっと大きめの犬くらいにしか見えない、まやかしの術である。
日本の妖怪は昔からこの術に長け、人間の中にさりげなく溶け合ってきた。
「向こうの魔女に頼んで、魔術をかけてもらったそうだ。人間の目には犬に見えるように」
ほのみと同じくエプロンを着けた次武が答えた。
「えっ、魔女! うわあ、魔女ってほんとにいるんだぁ」
目を輝かせるほのみに、やはりエプロンを着け、長い銀髪を後ろで一まとめにしたヴァヴが微笑んだ。
「日本には、ウィッチは居ないのね」
「あ、はい……」
小さな子供のようにはしゃいでしまったほのみは、赤らめた顔を伏せた。珍しく人見知りをしている妹に、次武が助け舟を出す。
「日本にやって来て住んでいる人はいるでしょうけど、うちの村にはいないですね」
「吸血鬼はいるぜ。村に一軒だけ洋館があって、そこに住んでるよ。変わった奴だけど」
たぶん手伝う気がなく、入り口に立って一人だけエプロンをしていない三太の言葉が言った。
「ヴァンパイア……そいつ、わるいやつか?」
リュカが突然険しい顔で言った。
「リュカ、そんな言い方はおよしなさい。悪いヴァンパイアばかりではないのよ。この村の方たちは悪くないの。それに、知らない方をすぐに悪い者かと疑うのも、いけないことよ」
ヴァヴが厳しい口調でたしなめる。リュカは彼女を信用しているようで、あっさり納得した。
「そうか。わかった」
お母さんと子供みたい、とほのみは思った。
「すぐに顔を会わせることになると思いますよ。小さな村ですから。村人はみんな顔見知りですし」
「まあ、楽しみだわ」
次武の言葉に、ヴァヴは少女のように目を輝かせた。
「でもまずは、兄貴の体を洗おう」
「待って、先に毛を梳かしちゃうね。ああ、もう、このへん、固まってる……!」
四苦八苦して黒い毛にブラシを通す。ヴァヴが申し訳なさげな顔をした。
「ごめんなさい。私たちの暮らしていた森の小屋には、お風呂は無かったの。川の水で洗ったり……」
「冬に!?」
ほのみは驚いて、思わず顔を上げた。ほのみが目を合わせてくれたからか、ヴァヴが嬉しげに頷く。美しい義姉に微笑みかけられ、ほのみは顔を赤らめた。
「ええ、寒さには強いのよ、私もリュカも。日本はとても過ごしやすいわ」
「大兄ちゃん、よく耐えたね……寒がりなのに……」
ほのみは兄の意外な我慢強さに驚きつつも、いたわるようにブラシで黒い毛を優しく梳いた。
「旅立つ前に、私とリュカだけウィッチの家でシャワーを借りてきたのだけど。創の体はシャワールームに入らなかったわ」
「魔女のほうがよっぽど現代的な暮らししてたんだな」
三太が呟いた。