エピローグ
「たのもー」
退院して三日ほど経ったある日、ヴェラはいつものようにウィスパー寄稿文店を訪れていた。
今日は特別な案件がある。
いつもと同じの様でいつもと違うのである。
「いらっしゃい」
「やほー」
しめしめ、午前中だと言うのに今日は珍しくレイチェルまでいるではないか。これは好都合だ。
ヴェラは店の中央付近まで歩くと、立ち止まってから、恭しく、咳ばらいを一つした。
「退院したばっかなのに、今度は風邪ひいたの?あっ、ヴェラはアホだから風邪ひかないねっ」
ケタケタ笑いながら、いきなりレイチェルがジャブを打ち込んで来る。
だが、ヴェラは動じずに、真っ直ぐエマを見つめ、
「今日はお願いがあってきました」と短く告げた。
「なによ改まって、またネタ探し?だったら、いつもの書類入れに没投書が入ってるから、好きに見ていいわよ」
エマはタイプライターを操作しながら、慣れたように言う。
「違いますよ。そうじゃないですよっ!ネタ探しだったら、今頃、勝手にもう漁ってます」
「漁るんだ……」エマは呆れてため息をついた。
「あっわかった!」
「レイチェルは黙ってて下さい!」
ケタケタ笑いながらまた何かを言おうとしたレイチェルをヴェラが制した。
「なんだって言うの?もったいぶってないで早く言ってよ」
「わかりました。入院中に完成した新作のプロットなんですけど、昨日、正式に担当編集からGOがでまして、本編を書き始める段階にはいったんですよ。それで、二人に許可と言うかそう言うのをもらいに来ました」
「許可って?どういう事なの?」
「うーんと、説明するのが大変なので、粗筋があるので、とりあえずこれを読んでみて下さい」
そう言って、ヴェラは脇に抱えていた封筒をエマに手渡した。
「とりあえず、読ませてもらうわね」
「私も読むっ!」
レイチェルも興味津々と、ソファから跳ね起きてエマの机まで駆けてゆく。
ヴェラの渡した粗筋に集中する二人の姿を見ていると、なぜか、気恥ずかしくていけない。そう言えば、二人に自分の文章を見せるのは初めてのことだ。だから、余計に気構えて照れてしまう。
レイチェル辺りは、また揶揄ってくるのだろうけど。
「へぇ、ヴェラってこういうの書くんだ。ミステリーって言ってたけど、日常系なのね。面白そうじゃない」
エマは気が付かなかった。
レイチェルも、
「できたら、一番に読むのは私だねっ!」とか言っているので、気が付いていない。
ヴェラとしては、二人にそれとなく気が付いて欲しかった。なぜなら、そっちの方が、説明がしやすいからだ。
仕方がないか……エマは鈍感だし、レイチェルはネジが飛んでるし。こんな繊細微妙な真相に気が付くはずがない。
皮肉を込め、深いため息を吐いてからヴェラは打ち明けることにした。
「その小説の主人公と助手のモデルなんですけど、実はエマとレイチェルなんですよ。それから、小説のタイトルも〈ウィスパー寄稿文店主の憂鬱〉に決定しました」
こう言うことは、さらっと言うに限る。必要以上にもったいぶると後々面倒くさいことになる。
タイトルだって、二人に……もとい、エマにごねられたら大変なので、事後報告の形をとった。
「えぇっ!じゃあ、この美人でスタイル抜群な店主って私のこと⁉来客嫌いのくせに投書が無いって嘆いてるの、誰かに似てるなぁって思ってたら……これ私だったんだ……」
エマは色々と言ってから落ち込んだ様子だったが、どこに落ち込んだのかわからないので、フォローのしようがない。
「んじゃ、私はこの〈破天荒でトラブルメーカーのちんちくりん〉かぁ。うーん。別にいいんだけどさぁ。とりあえず、魔法が使えるようにしよう!」
レイチェルはまんざらでもなさそうだ。
「それでですね。取材と執筆をかねて、この店に毎日通いたいと思っているんですけど、どうでしょうか?もちろん、邪魔はしませんし、駄目なら、今まで通り、ちょくちょく通うことだけでも許可して欲しいんですけど……」
「別にそれは構わないわよ。って言うか、お腹が空いたってほぼ毎日来てたじゃない。今更、そんな畏まっても、逆に変な感じだわ」
エマは擡げた頭を上げながら言う。
「ありがとうございます。変態的な趣向だとか、変な属性だとかは付けたりしませんから。ただ純然な二人を参考にさせてもらいます」
「属性?ちょっと何言ってるのかわからないけど、そういうエチケットは当然よ。お嫁に行けなくなったら困るから、変にだけは書かないでよねっ。それにしても、ヴェラの眼にも私が接客嫌いのくせに、投書が無いって矛盾したこと言ってるの知られてたんだ……」
凹んでたのはそこだったのか……
いずれにしても、店長にしてゴネられると一番厄介なエマから易々と承諾がとれたのはラッキーだった。もっと、抵抗されるかと思っていたのだから。
「ダメだねっ。魔法が使えなきゃ、本当の私じゃないから書いたら駄目だね」
ノリノリだったレイチェルが突然、そんな素っ頓狂なことを言って臍を曲げはじめた。
「レイチェルは何を言い出すんですか?聞いてましたか?私は今、純然な二人を書くと言ったんですよ。レイチェルは魔法なんて使えないでしょ」
「ふっ、ヴェラが知らないだけだよ。私が魔法を使えることを……」
「そんなシリアス風に言っても駄目ですよ。一様テイストは、ミステリーなんですからね。魔法少女はいらないんです」
「必要だって思うよっ、だって魔法があればいきなり現れた怪人も一瞬で倒せるし、どこにでも一瞬で行けるし、誰か死んでも魔法の奇跡ってことで簡単に生きかえらせられるんだよっ‼」
「魔法って、ただの便利ツールじゃないですかっ!そんなご都合主義丸出しの薄っぺらいシナリオだと、担当編集に私が一瞬で倒されますよっ!」
「レベルがあがれば、魔王だって倒せるんだよっ‼世界の平和を守れるんだよっ‼」
聞いちゃいねぇ……
「もうそれ、ミステリーじゃなくてファンタジーですよね⁉寄稿文店が舞台の意味ないですよねっ‼」
「二人ともやめなよぉ、それくらいにしときなよ」
いつも通り、いけない方向へ白熱しはじめた二人の間にエマが言葉を挟むも、時すでに遅し、介入するのが遅すぎた……
「こうなったら特大魔法を喰らわしてやるっ!」
「望むところですっ!けちょんけちょんにしてやりますよっ!」
ヴェラが両腕を顔の前でクロスさせ、守りの体勢をとる。
一方のレイチェルは、腰の位置を低くし、頭を突き出した態勢へと移行する。それはまるで、突進前の闘牛のようだった。
「くらえぇぇっ‼特大魔法!ヘッドバッド砲ぉぉぉっ‼」
レイチェルは雄叫びを上げ、一直線にヴェラへ向かって突進。
そして、捨て身の跳躍を経てレイチェルの頭頂はヴェラの下腹にめり込んだ。
「ほぐわっ‼」
声にならない鈍い叫び声を上げながら、ヴェラはつんのめった体勢のまま、机やら椅子やら書類やらを巻き込んで、出入り口まで飛ばされ転がった。
「うぅ…この禁断魔法は、使うと反動が……」
全身をしこたま床に打ち付けたレイチェルも、細かく震えながら、四つん這になったまま動けないでいた。
「何が魔法ですか……それは、ただの頭突きですよっ!仮にも怪我人の私に全力で頭突きをかましてくるなんて、やっぱりレイチェルはアホですね。てっきり、ロケットパンチで来ると思っていたので、防御するところを間違えました……油断しましたよ…ふっ」
ドアノブを支えに立ち上がったヴェラは口元を拭う仕草をしながら、そんなことを言った。派手に転げまわったわりに、まんざらでもない表情をしているのは、果たしてレイチェルと同類ではないだろうか。そんな風にエマは思った。
「それが魔法と言うのなら‼私の魔法は世界を滅ぼしかねませんね……遮二無二式、アームストロングキャノンとでも名付けましょうかっ!」
右手のギプスをさすりながら、そう言うヴェラは反撃をする気満々の様子だ。
「うおぉ。何それカッコ良いっ!」
攻撃される側のレイチェルもなぜかノリノリだった。
倒れた机、転げた椅子。散乱した整理前の投書書類。確かあの中には、クラーラから聞いた話も入っていたはず……多分、ヴェラが反撃をしたら、次は、レイチェルの近くにある丸机がひっくり返って、その上に置いてある、ポットとカップが割れる。そしてソファと床が紅茶まみれになる……
エマは素早く予想被害を算出した。
「出入り禁止っ‼」
エマは激しく立ち上がると、声を張って言った。
「えっ⁉」
それに、逸早く且つ大袈裟に反応したのは誰あろうヴェラだった。
「にひひひっ、ざまーみろぉ。まぁ、魔法使が使えるようにしてくれるんだったら、エマの機嫌を直してあげなくもないけどねぇ。エマってば単純だから、プリンの一つでも買ってくれば忽ちニコニコだしね~」
ニヤニヤしながら言うレイチェル。
さすがのヴェラも、この状況でそれを本人の前で言うべきではないと思った。
確実に火に油である。
案の定、
「レイチェルも‼」
「えっ‼うそでしょエマっ!」
自分からエマの逆鱗に触りに行ったレイチェルも、もれなく出入り禁止勧告を受けた。
「もう二人とも、出入り禁止っ!」
すっかりエマの機嫌を損ねてしまったレイチェルとヴェラは二人して、逃げるように店を飛び出すと、脇目もふらず、プリンを買いに走ったのである。
「「生クリーム乗せにしよう」」
二人の心は、はじめて共鳴したのであった。
「なんだぁ、キャシーかぁ」
救世主の登場かっ?と期待に胸を膨らませていた分、エマは友人の来店に落胆を隠せなかった。
「何よその言い方っ。随分と酷い待遇じゃないのよ」
「ごめん、ごめん。今月もネタがなくってさ。お客さんかと思ったの」
「レイチェルはどうしたの?見当たらないけど」
と言いつつ、ソファの上しか見ていないキャシー。
「わかんない。いつも通り取材に行ったっきり帰ってきてないわ。夕暮れ過ぎには帰ってくると思うけど。あ~レイチェルがまともなネタを持って帰ってきてくれたらなぁ」
エマはそう嘆きなら、頭を抱えた。
「その分だと、相変わらず変なのしか持って帰ってないみたいね」
「そうっ!アトランティス大陸発見した話とか、不倫中に妻が乱入してきて修羅場になった話とか……」
「アトランティスって…ホラ話決定ね。不倫の修羅場なんて、論外だし」
「でしょう⁉そのくせ、経費の領収書は札束みたいに多いのよ。今月も経理さんに怒られるぅ~」
「エマも大変ね……」
「はぁ。ところでキャシーは今日どうしたの?」
エマはため息を吐きながら、ソファまで歩いてやってきた。
「えぇ、実は、ノーフォークに行くことになってね」
キャシーはうつむき加減で言った。
「またどうして、ノーフォークなんかに?」
「詳しくは言えないんだけど、とにかく行かなくちゃなのよ」
今回の特ダネは貴族絡みだから、下手に喋るとエマも巻き込んでしまうかもしれない。キャシーはそう思って、エマに詳細を話さなかった。
「急に決まったの?もっと早く教えてくれたら、お別れ会もできたのに……」
エマは少し怒った顔をしていた。
キャシーにはどうしてエマが怒ったのかはわからなかったが、どうやら、詳細を話さなかったことに対して怒っている様子ではなかった。
「まぁね。昨日決まったから。それにお別れ会なんてお大袈裟よっ。それじゃまるで、私が無事に帰って来られないみたいじゃない」
「昨日決まったの⁉えぇ。よく受けたねそんな無茶なの。ノーフォークはそんな治安の悪いところじゃないんだから、そんな意味じゃないよぉ」
エマは驚いた表情を浮かべたが、次第に優しい顔になっていった。
表情豊かなところは相変わらずだなぁとキャシーは思った。
そんなところも、エマの良いところだとも思った。
「無茶も何も私が申請したんだもん。文句は言えないわ」
「えぇ、そうなんだ……ロンドンの町はキャシーには合わなかった?」
「なにそれ?別にロンドンの町も嫌いじゃないわよ?細々してるところもあるけど」
唐突にどうしたのだろうか?キャシーはエマの的外れな問いかけに首を傾げたが、とりあえずは答えた。
交通の便も良いし、行きつけのBARもあるし。何より、エマがいるのだから、合わないはずがない。
「そっか。それじゃあ、忙し過ぎたんだよね。それで、いつ発つの?」
「えっと、明日の夜、二十二時発の夜行で行くつもり」
もしかして、エマは見送りに来てくれるつもりなのだろうか?キャシーは思いがけない幸福の予感に胸をときめかせた。
「夜行で行くの?それに、昨日の今日って、いくらなんでも早すぎない?向こうの住む所だって、引継ぎだってあるだろうし」
住むところ?引継ぎ?
「ホテルは、もう予約してあるから大丈夫よ、引継ぎは別にしなくても大丈夫だし」
「ホテル住まいなの?すぐにお金なくなっちゃうわよ⁉ノーフォークが田舎だからって物価だってロンドンとそんなに変わらないんだからねっ!それに引継ぎしないって、それはいけないことだと思うの。立つ鳥あとを残さずって言うじゃない」
「そんな無責任なの、キャシーらしくない」エマは困惑した顔で続けて言った。
えっと、エマさん?
「んーとエマは何か勘違いしてる気がする。ノーフォークに行くのは大体一ケ月間くらいよ?まあ、場合によってはそれより長くなるかもしれないけど……」
「へっ⁉もしかして、出張?ノーフォーク支局に異動になったんじゃないの?」
エマは思わず立ち上がった。
「そうよ、出張よっ。異動なんてしないしないっ。大体、ノーフォーク支局なんて聞いたことないし。もぉ~さっきから、なんか嚙み合ってないなぁって思ってたら、エマってば早合点しすぎよぉ」
キャシーは笑いながらそう言ったが、一方のエマは、
「ちゃんと言わないキャシーが悪いんじゃないっ。私、てっきりキャシーがノーフォークに異動になったんだと思ったもんっ!異動になるなら、前もって教えて欲しかったし、ちゃんとお別れ会だってしたかったのに。まぁ、ちゃんと聞かなかった私も悪いけど……」
と頬を膨らませて怒っていた。
「たとえ私が異動になっても、エマの日常には何の変化もないわよ。心配しなくたって」
キャシーは自分で言って、悲しい気持ちになってしまった。そうなのだ、例え、自分がいなくなったとしても、エマの日常にはなんの変化も来さない。
エマには、レイチェルが居て、ネイマールが居て、ヴェラも居るのだから……自分一人が欠けたところで……
今回の取材は少し危険な香りがするので、せめてエマにだけでも、最後に話をしたいと思って寄稿文店に顔をだしたのだが、かえって虚しくなってしまった。
「どうしてそんな寂しいこと言うの?キャシーが居なくなったら、寂しいに決まってるじゃない。普通、友達が居なくなったら寂しいと思うでしょ?」
エマはさらに怒った風に、唇を尖らせて言った。もしかしたら、照れ隠しなのかもしれなかったが、キャシーにとってはそんなことはどうでもよかった。
エマがくれた言葉だけで十分だった。
「えっ、ちょ…うそ…」
キャシーは降って湧いた、幸せの瞬間に眩暈をもよおしてしまった。
私、こんな幸せでいいのかしら……
はぁ、どうしてエマってばこんなに可愛らしいのかしら。唇を尖らせちゃって……もう、抱きしめてしまいたい……最後になるかもしれないから、食べてしまおうか……
キャシーの倫理の鎖は、欲望の前に切れてしまいそうになっていた。
「たっだいまぁ~っ。あれ?キャシーじゃん。どったの?」
キャシーが両指をワキワキし始めた頃合いで、ドアベルがけたたましく鳴り響き、元気よくレイチェルが返って来た。
「お帰りレイチェル。収穫あった?」
「もちろんですともっ!今日はね、〈田舎のお爺ちゃんが拾って来た犬が、どう見ても狸にしか見えない〉って言う話っ!っで、キャシーはなにしてんの?」
レイチェルはいつも通り、エマの机の上に領収書を置くと、鞄をソファの上に放り捨てて、冷蔵庫から牛乳を取り出すと。腰に手を当てて飲んだ。
「また、そんな使えない話拾ってきて……」
キャシーがそこまで言うと、これに反論しようとしたレイチェルが、急に噎せ込んで含んでいた牛乳を床に吐き散らかした。
どうやら、牛乳が気管に入ったらしい。呼吸すら苦しそうに噎び苦しんでいる。
「もおぉ、何やってるのよっ、レイチェル大丈夫⁉」キャシーの前をエマがそう言いながら駆けてゆく
「(レイチェルらしいわね)」
何一つ特別じゃない平凡な日常こそ、何ものにも代え難い貴重で愛すべきもの。
キャシーはそれを噛みしめながら、所々、軋む床を歩き、ベルを鳴らさないようにドアを閉めたのだった。