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一度だけベルは鳴る

一度だけベルは鳴る

 固定電話を解約して半月がたった。電話がない生活は半次郎にとって六十年ぶりだ。その当時、まだ若い頃の貧乏下宿に電話などなく、公衆電話ばかりを使っていた時代だった。

 あのころ電話で呼び出される時というと不幸事が起きたときくらいで、緊急連絡先を請け合ってくれた大家に呼び出されたときには背筋が凍るような思いをしたものだ。

 結局、下宿にいる間に電話で呼び戻されたのは一度だけ、祖母が急逝したときだったのだが。


 齢八十を数えた半次郎に身寄りはない。いや、一人いることはいるのだが放蕩息子で借金をこしらえて夜逃げして、今はどことも所在が知れない。そんな息子から電話がきてもろくなことはないだろうと電話のない生活を選んだ。

 日中に三件も四件もかかっていた、なんやかやの営業電話がなくなると半次郎の家は静かだった。冷蔵庫のモーターが動いているかすかな音までよく聞こえる。半次郎は自分の耳がまだまだ現役なことに満足した。


 それでも万が一の時のために携帯電話を持てと町内の民生委員の佐藤さんに強くすすめられて、携帯電話を買うことになってしまった。

 初めて手にした携帯電話は小さく軽く、これで電話がかけられるなんて信じられなかった。

 使い方が分からない半次郎に代わって佐藤さんが携帯電話に電話番号を登録してくれた。三つある大きなボタンのうち一つは110番、一つは119番、一つは佐藤さんの携帯電話番号だった。

 なにかあればボタンを押すだけで電話ができると言われ、半次郎は半信半疑で目の前の佐藤さんに電話をかけた。佐藤さんは電話をとって、なかなかいいですよとよく分からない褒め方で半次郎を褒めた。


 もしもの時に充電が切れてはいけないからと家にいる間は携帯電話を充電器に繋ぎっぱなしにしている。外出の時にはおそるおそる持って歩く。いつ電話が鳴るかと戦々恐々としていたが、携帯電話は一向に鳴らない。

 それもそうか、と半次郎は一人ごちる。半次郎の電話番号を知っているのは佐藤さんだけなのだ。



 ある日、なぜか早朝に目が覚めた。いつもなら朝のニュースの時間までぐっすり寝ているのだが、その日は新聞配達が来る前に目が覚めた。

 なにやら胸がどきどきする。よくない知らせでもくるのだろうか。

 そう思って携帯電話を見て自分のことがおかしくなった。誰から電話がかかってくるあてもない。


 そのとき、携帯電話が鳴った。

 半次郎は驚いて身動きもできず携帯電話を見つめた。電話の音はいつまでもいつまでも鳴り続ける。半次郎はそっと携帯電話を取り、教わった通りに通話開始のボタンを押した。


『もしもし、おやじ?』


 携帯電話から聞こえてきた声は中年、というか老年に差し掛かった年代の男性の声だ。


『俺だよ、急に電話してごめん』


 どこかで聞いた声だと思った。半次郎は携帯電話を耳に押し付けてもっと声を聞こうと耳を澄ませた。


『長いこと家にも帰らずにごめん。実は今、会社を作って経営してるんだ。おやじには長いこと迷惑かけたけど、やっと親孝行できると思ってたんだ……』


 声は少しずつ沈んでいく。


『だけど、ちょっと失敗しちゃってさ。悪いんだけど……本当に申し訳ないんだけど、金を貸してくれないか』


「いくらだ」


 半次郎が問うと声は一瞬つまり、そっと囁いた。


『二千万……』


 それは半次郎が家に隠し持っている札束と同じくらいの金額だった。


「取りに来るのか」


『俺は行けないから、会社の若いのを行かせるよ。加藤って男だ。そいつに預けてくれ』


「分かった。いつ来るんだ」


『すぐに向かわせる。……おやじ』


「なんだ」


『すまない』


 男の声に半次郎は、ただじっと空中を見つめただけだった。



 電話を切って畳を上げる。畳の下にずらりと敷き詰めた札束をスーパーのレジ袋に詰める。この金が半次郎の最後の頼みの綱だった。これがなくなれば半次郎には雀の涙ほどの年金しかなくなる。

 家の外でバイクが止まる音がした。半次郎が出てみるとフルフェイスのヘルメットをかぶった男がバイクにまたがったまま半次郎に声をかけた。


「社長のお父さんですか?」


「あんたが加藤さんかね」


「はい。お金をあずかります」


「金はあんたには渡さん。私を連れて行ってくれ。直接社長とやらに渡す」


 それからしばらく二人は押し問答を続けた。バイクで危ないから連れて行けないと言う加藤。どうしても金は渡さんと言う半次郎。日はだんだん上って明るくなってくる。新聞配達がやって来たのを見て、フルフェイスの男は慌てて半次郎をバイクの後ろに乗せた。


「本当に危ないですからね。しっかりつかまっていてくださいよ」


 そう言ったが加藤の運転は穏やかで半次郎はなかば楽しいツーリングを満喫した。

 バイクがたどり着いたのは郊外のさびれた大型の倉庫だった。きしむ扉を押し開けると、倉庫の中には大きなコンテナがいくつも積み上げられていた。


「こっちですよ」


 ヘルメットを取った加藤が半次郎を倉庫の隅へと招いた。コンテナの陰に隠れるようにしてプレハブの社屋が建っている。

 中に入るとみすぼらしい小男がぼんやりと椅子に座っていた。半次郎を見るなり「どうしてここに……」と言って絶句してしまった。


「金を持ってきたぞ」


「なんで……」


 小男は目を見開いて半次郎を見つめた。半次郎は抱きしめていたスーパーのレジ袋を小男に突き出した。


「金が要るんだろう、佐藤さん」


 佐藤はふらふらと椅子から崩れ落ちるようにして床に両手をついた。


「すみません! 電話詐欺なんかしてすみません! でもどうしても金が必要だったんです」


「だから、この金を持ってきたんじゃないか」


 半次郎は、床に額をこすりつける佐藤の腕を取り立ち上がらせた。


「あんたが使うならこの金も救われる。これは息子の長次郎が残していった宝くじの当選金なんだよ。息子がこしらえた借金を返せるだけの金額だ。息子は早まったんだ、逃げ出したりする必要はなかった。そんな金を私はとても使うことが出来んかったよ。あんたが使ってくれ、佐藤さん」


 半次郎は佐藤の手に袋を押し付けると静かに倉庫を出て行った。外はすっかり明るくなって爽やかな青空が広がっていた。


 帰ったら何年かぶりに畳を干そう。半次郎は携帯電話の電源を切ると、明るい気持ちで街に向かって歩いて行った。

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