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爪の垢

爪の垢

 アパートに帰るとドアが半開きになっていた。出がけに鍵を掛けた記憶はある。片手にビジネスバッグとゴミ袋を持っていたので鍵をかけにくく、よく覚えていた。

 空き巣だろうか。わざわざ扉をこじ開けて入っても部屋の中には金目の物は一切ない。空き巣には申し訳ないことだと思いながら堅太郎はドアを開けた。

 暗い玄関先に二本の足がにゅうっと伸びている。外廊下の灯りが射し込んで、男が一人倒れているのが見えた。


「大丈夫ですか!」


 堅太郎は持っていたビジネスバッグとコンビニの袋を放り出して男のそばに膝をついた。顔を寄せてみると男は酒臭い息を吐いている。一見したところ怪我はないようだ。男は唸りながら寝返りを打つと豪快ないびきをかきだした。堅太郎はほっと胸をなでおろした。


 灯りをつけて部屋を見回してみる。四畳半の部屋に、小さな台所と一間の押し入れ、壁に立てかけたちゃぶ台、一面の壁を覆う本棚。どこにも荒らされた跡はなかった。


 あらためて男を見てみると十二月の寒さにもかかわらず垢じみた薄手のトレーナーとスラックスという薄着だった。堅太郎は着ていたコートを脱いで男にかけてやった。その時、やっと男が隣の部屋の住人であることに気付いた。ごま塩頭で昼間はいつも部屋にいるようだったので年金暮らしかと当たりをつけていた。男はおそらく酔って部屋を間違えたのだろう。


 それにしてもどうやって鍵を開けたものかと、しげしげと見ると、男の手にへしゃげた鍵が握られていた。無理矢理鍵穴にねじ込んで力ずくで回したのだろうか。この築六十年のボロアパートは鍵さえボロだったのだなと堅太郎は感心した。


「水……」


 男が唸り声をあげた。酒焼けの塩辛声だ。堅太郎は台所に立って湯呑に水を汲んだ。腕を引いて男の肩を抱き起き上がらせると、男は目をつぶったまま湯呑を受け取りひと息に飲み干した。


「メシ」


 ぐらぐらと危なげに揺れながらも男はうっすらと目を開いた。堅太郎はコンビニの袋からおにぎりを取り出し、外装フィルムを剥いで手渡した。男はよく噛みもせずに三口でおにぎりを食べ終えた。堅太郎は袋に残った二つ目のおにぎりも食べさせてやった。


「タバコ」


「すみません、タバコは吸わないんです」


 堅太郎の声に男はぱっちりと目を開いた。自分のそばに膝をついている堅太郎の顔をまじまじと見つめ、首をぐるりと回して部屋を眺めた。


「なんだ、ここは。ええ? 俺の部屋じゃねえじゃねえか」


「はい、僕の部屋です」


「誰だよ、あんた」


「森堅太郎といいます。隣の部屋の者です」


 男はケラケラと妙に高い声で笑った。


「俺は部屋間違えたのか。こいつはいいや、傑作だ。なあ、堅太郎」


「はい」


「飲みに行こうや」


 男は堅太郎の肩をぽんと叩いた。


「いえ、僕はお酒は」


「なんでえ。下戸か、未成年か」


「そういうわけではないんですが」


「じゃあ問題ねえな」


 男はふらふらと立ち上がると玄関に脱ぎ散らかしていたサンダルをつっかけて外へ出た。危なっかしい足取りで歩く男を放っておけず、堅太郎はビジネスバッグを掴んで部屋を出た。ポケットから鍵を取り出して閉めようとしたが、鍵穴の途中で壊れた何かにつっかえて鍵は入らない。軽くため息をつきドアをきちんと閉めて、堅太郎は男を追って走っていった。


 男は絵に描いたような見事な千鳥足で暗い住宅街を歩いていく。堅太郎は横に並んで男の腕を取って支えた。


「そんな薄着で、寒くないですか」


「酔い覚ましには、これっくらいがちょうどいいんだよ」


「そういうものですか」


 男は気分よさげに鼻歌を歌いだした。時おりしゃっくりをしているのが、いかにも酔っ払いという風情で堅太郎はそれにも感心した。


 ふらりふらりと気ままに歩いて、男は駅の近くの一軒のスナックに入っていった。


「あら。いらっしゃい、幸ちゃん。珍しいお連れ様ね」


 店の中に客は居らずカウンター席に四十年配の和服姿の女性が一人座っていた。


「おう。いい男だろう、惚れるなよ」


「もう遅いわ、一目惚れよ。ビールでいいかしら、焼酎?」


「まずは、真っ先にビールが大人の常識だろうよ」


 男は三つあるボックス席の真ん中にどっかりと腰を下ろした。堅太郎はテーブルを挟んで、おどおどと視線をさ迷わせながら男の正面に座った。

 スナックなど始めて入った堅太郎はおっかなびっくり店の中を眺めまわした。


 古ぼけて薄暗い店内はカウンターの中だけが明るくて、棚に並んだ酒瓶をきらめかせていた。カウンターにはスツールが八脚整列している。ボックス席のソファは合皮らしい茶色の固めのシートで、体が沈みこむようなことはない。客が酔っ払って眠りこまないようにしてあるのだろうか。


 堅太郎がきょろきょろしている間に幸ちゃんと呼ばれた男はトイレに立った。戻ってきたところに、タイミングよく女性がやってきて熱いおしぼりを二人に差し出した。男はおしぼりでごしごしと顔を拭く。


「堅太郎は酒は一口も飲んだことねえのか」


「はい。幸ちゃんさんは……」


「なんでえ、その『幸ちゃんさん』ってのは。俺の名前はこうたっていうんだ。幸多いと書いて幸多だ」


「幸多さんはお酒がお好きなんですか」


「好きなんてもんじゃねえな。もはやアル中よ。酒なしじゃ暮らしていけねえな」


 そう言って幸多はケラケラと笑う。女性がお盆にビール瓶とグラスを二つ、殻付きピーナツが入った小皿をひとつ乗せてやって来た。健太郎は自分の前に置かれたグラスを睨むようにじっと見つめた。


「アル中だなんてまだまだ遠いわよ。幸ちゃん、三日に一度ぐらいしか来ないじゃない」


「医者に止められてるから、一応な。遠慮してんだよ。ママの顔は毎日見たいけどな」


 堅太郎はグラスから目を無理やり離して、幸多とママの顔を見比べた。


「幸太さん、どこか悪いんですか」


「なに、ただの糖尿病だよ。死にやしねえ」


「何言ってるの。重度になったら色んな合併症が出て危ないって言うじゃない」


 そう言いながらも幸多の隣に座ったママは幸多のグラスにビールを注いだ。堅太郎のグラスにも注ごうとするのを、堅太郎は慌てて手でさえぎって止める。


「いや、僕はお酒は……」


「いいから飲んでみろって。せっかく大人になったんだから飲まなきゃ損だぜ」


「一応、味見してみる?」


 ママが一口分だけグラスに注いでくれる。堅太郎はただじっとグラスを見ていた。


「よし、堅太郎の初ビールだ。乾杯!」


 幸多は健太郎が見つめるグラスを取り上げ、右手に自分のグラス、左手に健太郎のグラスを掲げ、宙で合わせた。カチンとグラスが鳴って泡が少しだけこぼれる。幸多はあわてて二つのグラスに口を付けて、それぞれから泡をすすった。


 泡を抑えて落ち着いた健太郎のグラスをテーブルに戻すと、幸多は自分のグラスをかたむけて喉を鳴らしてビールを飲み干した。

 堅太郎はちびりと、ビールをひと舐めしてみて天井を向いてしばらく考えた。


「どうだ、堅太郎。美味いか」


 尋ねられて、もうひと口飲んでみる。天井を見上げて首をひねった。


「ええ、まあ。どうだろう」


「不味くはねえか」


「はい、不味くはありません」


「なら飲んでりゃ、おいおいと味が分かってくるって。ほら、飲みな飲みな」


 幸多は堅太郎のちょっぴりしか減っていないグラスになみなみとビールを注いで自分のグラスにもお代わりを注ぐ。

 堅太郎はビールをぐっと飲んでみた。冷たくて、炭酸がしゅわっと喉をくすぐりながら落ちていく。口の中にほんのりした苦みと香ばしさが残る。悪い感じではなかった。

 黙ってグラスをかたむけて飲み干すと、ママが瓶に残っているビールを堅太郎のグラスにあけた。席を立ち、次のビールを運んでくる。


「それにしてもよ。堅太郎は鍵も掛けずに出かけるのか、あぶねえぞ。入りこんだのが俺じゃなくて泥棒だったらどうすんだ」


「あらやだ、幸ちゃん。堅太郎さんの部屋に忍び込んだの」


「いえ、部屋を間違われたみたいで」


「それで、ちゃんと幸ちゃんを叱ってやった?」


 ママの問いかけに堅太郎はあいまいに笑ったが、幸多は自慢げに胸を張った。


「それがよ、堅太郎は叱るどころか甲斐甲斐しく介抱してくれてよ。飯まで食わしてくれたんだ。優しいやつなんだよ」


「いえ、僕なんて全然優しくなんか……」


「優しくなくても親切だわな。えらいことだよ。なかなかできないぜ」


 堅太郎は申し訳なさそうにうつむいた。両手を組んでじっと見おろしている。


「母の遺言なんです。誰にでも親切にしなさいって。僕はただそれに従っているだけで、親切心があるわけじゃないんです」


 ママがほうっ、と溜め息をついた。


「堅太郎さんは今どき珍しい謙虚な人ねえ」


「謙虚でもなんでもありませんよ」


 どこまでも深く深くうつむく堅太郎の肩を幸多が力強く叩いた。


「とにかくえらい! 親の遺言を守ってよ。よし、今夜は母ちゃんのために飲もうや」


 幸多は自分のグラスにビールを注ぎ、堅太郎のグラスと合わせて勝手に乾杯するとあっという間に飲み干した。幸多はもう何杯目を空にしたのだろうかと堅太郎が考えていると「飲め飲め」としきりにビールをすすめられる。堅太郎はすすめられるままにグラスを傾けた。


「堅太郎、母ちゃんはいつ死んだんだ」


「三年前です。膵臓を悪くして亡くなって」


 堅太郎は酔いが回って気がゆるんでいるのを感じた。いつもならごまかしてしまう質問に素直に答えていた。


「そうかい。まだ若かったろうに」


「四十三でした。僕の成人を見たかったと言っていました」


 ちびりちびりとビールを飲みながら二人の会話は続いていく。


「堅太郎はいくつだ」


「二十二です」


「母ちゃんを亡くした時は大学生か」


「いえ、もう働いていました。うちは貧乏だったので」


「もしかして母子家庭だったのかい」


「はい。母が一人で僕を育ててくれました」


「父ちゃんは、死んだのかい」


 堅太郎は黙りこんでしまった。幸多はピーナツを堅太郎の手に握らせた。手の中のピーナツは心地よく乾いていて、その殻をぱりぱりと砕いてみたいと思わせた。ピーナツの殻を剥きながら堅太郎は無表情に口を開く。


「父は、僕が中学生の時に死にました」


 殻の中から顔をのぞかせた丸いピーナツ二つをテーブルの上にころりと転がす。それを食べることなく堅太郎は次の殻付きピーナツに手を伸ばした。幸多はうつむいた堅太郎の手元をじっと見つめていた。


「病気かい?」


「いいえ……」


 音楽もかからない店内はしんと静まった。ママは黙って席を立ってカウンターの中に戻っていった。堅太郎は黙ってピーナツの殻を剥く。三つ目のピーナツの中から薄皮が真っ黒なピーナツが出てきた。黒い豆をつまみ上げてじっと見つめたまま堅太郎は口を開いた。


「自殺でした。会社が倒産して借金を返せなくて、母と僕をおいて一人で死にました」


 幸多は半分だけ空いた堅太郎のグラスにぬるくなったビールを注いだ。堅太郎は黙ってビールに口をつけた。


「そりゃあ、寂しかったなあ」


「寂しくなんかありません。ちっとも。寂しがるような暇もなかった。家を差し押さえられて母と僕は行くあてもなくて」


 ビールを飲み干して堅太郎はまたピーナツを剥く。じっと手元だけを見つめている。殻の中からころりと出てくるピーナツは、どれも普通の、茶色の皮のものばかりだった。


「母は住み込みで働ける、寮の管理人の職を見つけて、住むところと食べることはなんとかなりました。僕の学費は内職をして寝る時間を削って稼いでくれたんです。本当に申し訳ないです」


「申し訳ないなんて言うなよ」


 幸多が真面目な重い声で言う。


「親はな、してやりたいんだよ。辛いだとか嫌だとか思う日があっても、子供が笑えばそれでいいんだよ。だから笑え」


 堅太郎の口元が震えた。力なく下がっていた口の端を無理矢理上げた。


「そうだ、それでいい。父ちゃんも母ちゃんもその笑い顔が見たいはずだ」


 堅太郎の笑顔が苦い表情に変わった。


「父は僕の顔なんて覚えていませんよ」


「なんでだよ」


「仕事ばかりの人でしたから。家にいる時はお酒を飲むか、寝ているかで。僕と話をするのは月に二、三度あるかないかでした」


「そりゃまた、よっぽどの酒飲みだ。だから堅太郎は酒を飲まなかったのか」


 天井を向いて堅太郎は少し考えた。


「そうかもしれません。意識していたわけではないんですけど」


「じゃあ今日はなんで飲む気になったんだ」


「父の命日だからかもしれません」


 幸多は少し黙った。堅太郎はまたピーナツの殻を剥く。


「じゃあ、父ちゃんのために飲もう」


 幸多は立ち上がってカウンターまでビールを取りにいった。堅太郎はテーブルに転がるピーナツをじっと見つめている。茶色の薄皮のピーナツの中に一つだけ黒いピーナツ。異質で奇妙で見ていると気分が落ち着かない。


「ほら、堅太郎」


 すすめられるまま堅太郎はグラスを空にして新しいビールを注いでもらった。白い泡と金色の液体。これが父が好きだったものなのかと思うと口に入れたいとは思えなくなった。


「どうした、堅太郎」


「いえ、もうビールの炭酸でお腹いっぱいになってしまって」


 幸多はうつむいた堅太郎の目を、腰をかがめて下からじっと見あげた。


「嘘はつくなって母ちゃんは言い残さなかったのかい」


 堅太郎はテーブルの上に視線を泳がせた。幸多は続ける。


「飲みたくないなら飲みたくないって言えばいいんだよ。父ちゃんのためになんか飲みたくないってな」


「僕は……、そういうんじゃないんです。父が嫌いだとか恨んでるとか、そういうわけじゃなくて、ただ……」


 ビール瓶の水滴が垂れていくのを見つめながら堅太郎は長いこと考えて、口を開いた。


「ただ許せないんです。自分勝手に事業を拡大して、失敗したら全部捨てて自分一人で逃げてしまって。そんな大人に僕はなりたくなかった。だからお酒を飲まなかったんです」


「ならなきゃいいじゃねえか」


 幸多の声は低く落ちついていた。堅太郎は視線だけを上げて幸多を見た。腕を組んで目をつぶっている幸多は、いくぶん酔いがさめてしっかりしたように思えた。


「自分がなりたくないものになんか、ならなきゃいいんだ。堅実に生きていけばいい。博打なんか打つ必要はねえ」


 博打と聞いて堅太郎は口の中に残っていたビールの苦みを強く感じた。それを唾と一緒に無理矢理飲みこむと、喉にいがらっぽいものが絡まるようだった。


「父が言っていました。人生は博打だって」


 幸多は薄目を開けて盛大なげっぷをした。


「そりゃまた難儀な父ちゃんだな」


「一生ってのは一回しかない。一回限りの大博打だって言ったんです。それが男だ。一人で戦う、ついてくるなって。そう言って勝負に負けた」


 幸多は堅太郎の言葉を熱心に聞いている。


「負けるのはいいんです。負けたっていい」


 いつの間にかこぶしを握りしめていた堅太郎はテーブルを叩きつけた。


「でも、逃げたら、死ぬことに逃げたらダメじゃないですか。そこに逃げられたら、もうどうしようもないじゃないですか」


 幸多は黙って健太郎の話を聞き続ける。


「誰も手出しできないじゃないですか。ふざけるなよって怒鳴れないじゃないですか。ふざけるなよ、なんで置いていくんだよ、置いていくなよって言えないじゃないですか」


 堅太郎は震える手でグラスを取ると、ぐうっと飲み干した。堅太郎の頬が酔いで赤くなっていることに幸多は気付いた。


「母さんだってずっと泣けかなかったんです。泣いてる暇なんてなかったんです。僕を育てるのに忙しかったし、父さんが迷惑をかけた色んな人に謝ってまわってそれどころじゃなかったし。それもこれも全部、父さんが博打だなんて言って人生を無駄にしたから」


 幸多は堅太郎のグラスにビールを注いでやった。堅太郎はそれもあっという間に飲みほした。ビールはもうぬるかったが、堅太郎はそんなこともどうでもよくて一人喋り続けた。


「僕は今でも父の日が嫌いです。誰もかれもが父親を尊敬しているわけじゃない。でも父の日なんてものがあるせいで僕はいつまでも父を大切にしているふりをしなきゃいけないんです。そうしなきゃ母さんが悲しむから」


 空になった賢太郎のグラスの底に、小さな泡がぷつぷつと残っている。


「母さんのために僕はずっと父さんを好きなふりを続けてきました。母さんのために。でも何もかもみんな全部嘘なんです。僕は父さんなんか全然、好きじゃないんです」


 堅太郎はグラスに残った泡を飲みこもうと口を開けてグラスを逆さに振った。けれど泡は堅太郎の口まで届かない。あきらめてグラスを置いて堅太郎は殻付きピーナツをひと粒つまんで殻を剥く。ぱりぱりと乾いた音がテーブルの上に響いた。


「堅太郎は思春期の子供みてえだなあ」


 しみじみと呟く幸多に、堅太郎はムッとして顔を上げた。


「僕は子供じゃありません」


「堅太郎、反抗期はあったのか」


「反抗期?」


 堅太郎はきょとんとした顔をした。幸多は堅太郎が剥いたピーナツを取り口に入れる。


「親に反抗心を持ったことねえだろう。母ちゃんに気を使わせないように、父ちゃんを恨まないように優しく優しく生きてきたんだろう」


 堅太郎は力いっぱい首を横に振る。


「僕は優しくなんかないです。優しくなんかなれなかった。だからせめて人には親切にしようと思って……」


「それが優しいっていうんだよ」


「優しくないです……」


「人に親切にできる男が、優しくなりたいって言う男が、優しくないわけないんだよ」


 堅太郎はうわごとのように「優しくない」と繰り返す。幸多は小さな子供をあやすようにゆっくりと語りかけた。


「俺の女房は内気なやつでさあ。小さいころからそうだった。幼馴染みだったんだけどよ。いつも一人で黙って、じいっと何か考えてた。反抗期なんてものもなかったぜ。とにかく親ともまともに喋らねえ。俺はそんなことお構いなしで、あいつを嫁にもらってからも自分の好きなように生きてきたんだ。給料もろくに家に入れずにさ。それで気がついた時には女房は子供連れて出て行ったあとだったんだわ。そうかー、あいつはずーっとこれを考えてたのかーって、どすんときたね」


 堅太郎は膝に腕をついて頭を落としてしまった。泣いているようにも見えるが怒っているようにも見えた。


「書き置きも何もないわけさ。荷物なんかなんにも持って行ってねえんだよ。みんな置いていっちまった。子供だけだよ、持って行ったのは。俺は置いていかれたガラクタと一緒に暮らしてきたってわけさ」


「幸多さんは追いかけなかったんですか」


「追いかけてどうすんだよ。やり直してくれえって頭下げるのか。俺は絶対変わりやしないのに嘘ついて、もうしないから許してくれえって言うのか」


「嘘なんかつかなくていいじゃないですか。ただ追いかければよかったじゃないですか。逃げられたのに追わないなんて、置いて逃げたのと同じですよ。きっと待っていましたよ」


「堅太郎、だいぶ酔ってんなあ」


「酔ってないですよ。まだ飲めますよ。ビールください」


 堅太郎が突き出したグラスに向かって幸多は瓶を傾けたが、液体は出て来ず泡ばかりが二つ三つと固まって出て来た。


「けどなあ、堅太郎。置いていかれた方だっていっぱいいっぱいだったんだぜ」


「だからって、放っておかなくてもいいでしょう。どうにだってしようがあるでしょう」


「けどなあ」


「そうやって逃げているのは幸多さんの方なんでしょう。奥さんのせいにして全部見ないふりして逃げているんですよね」


 堅太郎は幸多の酔った赤い顔を睨み据えた。

 さっきまで全く知らなかった、自分の孫ほどの年の堅太郎が一生懸命語っているのを見るのは、夢を見ているような不思議な気持ちだった。堅太郎を見ていると自然と頬がゆるんだ。


「なんで笑うんですか」


「楽しいなあと思ってさ」


「何がですか」


「俺はもう何十年も子供の顔を見てないが、うちの子も今頃堅太郎みたいな息子を持ってるのかもしれねえと思ったらさ、なんだか無性に楽しいってか、嬉しいねえ」


「幸せだとは限りませんよ」


 堅太郎は上目づかいに幸多を見据える。


「子供がいるから幸せだとは限りませんよ」


「そりゃそうだし、そうでもないさね。幸せなんて人それぞれ違うんだ。けどな、俺が言ったのはそういうんじゃねえんだ」


「じゃあ、どういうのですか」


「俺はな、夢を見てるんだよ、堅太郎を見て。俺が追いかけなかった未来をな」


「勝手に見ないでください」


「そうさな。堅太郎は昔ばっかり見てるからなあ。でも今日くらい前を見ねえか、父ちゃんのためにも」


「勝手なこと言わないでください!」


 堅太郎はガタンとテーブルを揺らして立ち上がった。カラのビール瓶が音をたてて倒れた。


「夢なんて一人で見て下さい。僕を巻き込むのはやめてください!」


 幸多は倒れたビール瓶をそっと起こしてあふれた泡をおしぼりで拭いた。


「堅太郎は幸せになるのが恐いのか」


 幸多の言葉に堅太郎の動きが止まった。


「それであんなおんぼろアパートで暮らしてるのか。酒も飲まねえ、タバコも吸わねえでよ。人生の楽しみなんてのは人それぞれだが、堅太郎は楽しんでるのかよ、毎日を」


「毎日毎日が楽しい人間なんているわけがないじゃないですか。苦しいことや辛いことの方が世の中には多いんですから」


「俺は毎日楽しいぜ」


 胸を張って幸多が言う。


「好きな時に起きて、好きな時に酒飲んで、好きなやつと話すんだ」


 健太郎は幸多を睨みつけた。


「じゃあ、僕なんかと話さないで好きな人とお酒を飲めばいいじゃないですか」


「俺は堅太郎が好きだぜ」


 まじまじと目を見つめられ、堅太郎は幸多から目をそらした。


「どうしてですか。親切だからですか。僕は誰にでも親切にします。けれどそれは僕の義務で、好きだからじゃありません」


「義務なんてもんは通り越してるよ、堅太郎の親切は。母ちゃんが見たら『この子はやりすぎだわ』って驚くぜ」


「分かったようなこと言わないでください!」


 堅太郎の口から、腹の底からにじみ出たような低い声が出て来た。


「僕の気持ちを決めつけないでください、母の気持ちを好きなように想像するのはやめてください! 幸多さんに何が分かるんですか。好き勝手に生きて何もかもなくしてお酒に溺れてるような人に何が分かるんですか」


「分からないよ。俺にはなーんにも分かりやしねえよ。けどな、一番分かってないのは堅太郎、お前自身じゃねえのか。俺に言われたことで腹がたつってことは、堅太郎の中の大事なものが揺れてるってことじゃねえのか」


 ソファの背にもたれたリラックスした姿勢で幸多は話を続ける。


「大事なものがないやつは怒りもしねえ、感動もしねえ。俺はそんなやつをたくさん知ってるよ。ただ酒を飲んでクダを巻いてるようなやつらだよ。その辺の安酒場を覗きな、ごろごろしてるぜ。みんな黄色い濁った目をしてる。大事なもの全部、とうの昔に捨てて逃げちまったやつらがよ。そんなやつらに比べりゃ堅太郎の父ちゃんはえらいよ。夢にしがみついて最期まで一緒だったんだからな」


「父さんの話をするな!」


「ほらな、大事なことを他人につつかれたら怒るだろう」


 健太郎は両手を握りしめて自分の膝を何度も叩いた。


「大事なんかじゃない。父さんのことはなんでもない。昔からずっと平気なんだ。ただ僕は嫌いな父さんの話を聞きたくないだけだ」


「本音がひとつ出たぜ、堅太郎。お前は父ちゃんが嫌いなんだ」


「ああ、嫌いだよ。人生は博打だなんてくだらないこと言って、さっさと一人で逃げて、母さんと僕のことなんか考えもしないやつなんか嫌いに決まってるじゃないか」


「二つ目の本音だ。お前は父ちゃんに置いていかれたことに腹を立ててるんだ」


「そうだよ。あんたには分からないよ。父さんは僕達のことなんかいらないんだって思い知らされたんだ。だから僕と母さんを置いていったんだって。僕たちを置いていったんだ」


「三つ目だ、堅太郎。お前は父ちゃんがいなくて寂しかったんだ。ずっとそばにいて欲しかったんだろ」


 堅太郎はテーブルの上に身を乗り出して幸多に噛みつこうとしているかのように歯ぎしりした。


「あんたに分かるわけない。だってあんたは子供を見捨てたんだから。逃げられたとか言って本当はいらないから追いかけなかった」


 幸多は深い溜め息をついた。堅太郎から視線をはずし、ソファの背にもたれた。


「その通りだ、堅太郎。お前の言うとおり。俺は自分のことしか考えちゃいねえ手前勝手なやつだよ。生きてても酒以外になんの楽しみもねえ。一番濁った目をしてるのは俺さ」


「そうでしょ。その通りだよね。あんたは誰からも必要とされないし、誰かを必要とも思ってないんだ」


「お前の父ちゃんと一緒だよ、堅太郎」


「ああ、そうだね。そっくりだよ。お酒を飲んで顔を赤くしてつまらない夢の話をして。本当にそっくりだよ。なんでそんなに似てるの。なんで……」


 堅太郎はソファに崩れるようにうずもれた。ソファの座面は硬いのに、体はどこまでも沈んでいきそうだった。


「だけどな、堅太郎。俺なんかよりお前の父ちゃんはえらい男だよ。大きなことを言える男なんて今時そうはいねえ。お前だってもう気付いてるだろ」


「そんなことないよ。父さんなんかだめだ。生きてる方が、貧乏したって家がなくたって、生きてるんならずっとえらいよ」


 ポツリと呟いたきり堅太郎は黙りこんでしまった。幸多も何も言わずにグラスに残っていたビールをちびりちびりと飲む。テーブルの上にころんと乗った殻を剥かれたピーナツの中から、皮が黒いものをつまみ上げて口に入れてかりりと噛んだ。


「やけに苦いなあ」


 ふと漏らした幸多の声が震えている。堅太郎は顔を上げて、ぎょっとした。


「どうしたんですか、幸多さん!」


 幸多は冷や汗をだらだらと流しながら震えていた。顔色も真っ青で今にも倒れそうだ。カウンターからママが飛び出してきて幸多の背を抱いた。


「低血糖よ! お酒の飲みすぎよ。堅太郎さん救急車呼んで、早く!」


 ママは幸多をソファに横たえながら堅太郎に指示を出す。堅太郎は慌ててバッグからスマートフォンを取り出した。その手が震えている。


「救急車って何番ですか」


 咄嗟のことで、すぐに番号が浮かばない。


「119よ。堅太郎さん、落ちついて」


 落ちついてと言われて初めて堅太郎は自分がどれだけ動揺しているかに気付いた。ママに叱咤されながらなんとか救急車を呼んだ。幸多の顔色はますますひどくなり、青くさえ見える。


「嫌だよ、置いていかないでよ」


 すがりつく堅太郎を見て、幸多は震える声で堅太郎を励ます。


「これくらいで死ぬかよ。いつものことさ」


 遠くからサイレンが聞こえてきて、堅太郎は店から飛び出した。救急車の赤いランプに向かって大きく手を振る。救急隊員の先導をして店内に戻った。幸多が救急隊員が持つ黄色の毛布にくるまれる。ストレッチャーに乗せられる頃には体が温まったおかげか幸多の冷汗はだいぶひいていた。


「おい、堅太郎」


 震え続ける幸多に呼ばれて、堅太郎はストレッチャーにしがみついた。


「俺ぁな、いっちょ人生を賭けた大博打を打ってくるからよ。いつまでも病院なんかにいやしねえ。絶対勝つから、待ってろよ」


 堅太郎は幸多の手をぎゅっと握った。震える幸多の肩にそっと触れた。子供のころから聞きたかった言葉を、父が言ってはくれなかった言葉を、今やっと聞いたのだと思った。


「僕は父さんに、待ってろって、帰ってくるって言って欲しかったんだ」


「四つ目の本音だな、堅太郎。帰ったらまた部屋に転がり込むから、うまいメシ食わせてくれよな」


 強がりを言う幸多を、堅太郎は涙がにじんだ目で見つめた。言いたいことはたくさんあった。文句も言いたい、悪態もつきたい。けれど一番言いたい言葉は、堅太郎の腹の底にわだかまっていた気持ちをとかして流れ出た。


「あなたの爪の垢を、父に飲ませたかったよ。帰って来るって、それだけを聞きたかったんだ」


 堅太郎は幸多のために笑顔を見せた。


「行ってらっしゃい。元気になって帰って来てよ。おにぎり買っておくからね」


 遠ざかる救急車の赤いランプとサイレンは幸多の命の強さを示しているようだ。堅太郎はそれをいつまでも、じっと見つめ続けた。


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