蜜柑の花咲くころ
蜜柑の花咲くころ
「こら! 何をしとる!」
泰三の怒鳴り声にびくっと身をすくめ、女の子は手に持っていた蜜柑の小枝を取り落とした。泰三が一歩近づくと、目を見開き泰三を見ていた女の子は泣きそうな顔で、ぴゅうっと隣家に駆け戻った。
「ああ、なんてことをしてくれるんだ」
泰三はコンクリートの上に落ちて散った小さな小さな白い蜜柑の花びらを一枚ずつ丁寧に拾う。玄関先の蜜柑の根元に花びらと小枝を埋めると力が抜けたようにしゃがみこんだ。蜜柑の木はまだまだ若く小さく、五年をかけてやっと花をつけたのだった。亡くなった妻がとうとう見ることのできなかった花を。
先ほどの女の子の表情を思い出し、嫌われてしまったかもしれないと泰三はため息を漏らした。最近とみに増えた溜め息は年齢以上に泰三を老けさせて見せた。
隣に若夫婦が引っ越してきたのは五年前のことだ。にぎやかで明るくて未来に曇りひとつない家庭に待望の女の子が生まれたのは妻が亡くなった翌日で、泰三はひそかに隣の女の子を妻の生まれ変わりのように思い、温かく見守っていた。垣根の向こうから女の子の笑い声が聞こえれば胸がはずみ、泣き声が聞こえれば潮垂れるようだった。
その女の子を怒鳴りつけたという事実は泰三を打ちのめした。けれど妻が遺した蜜柑の木を何よりも大事にしていたのも本当のことなのだった。
その晩、泰三は冷や奴だけの夕食をとった。食欲などかけらも無かったのだが、どんな時でもご飯は食べるというのが妻との最期の約束だった。真っ白な冷や奴に滔々と醤油をかける。妻が生きていたら塩分の取り過ぎだと叱られるところだ。けれど、もう叱ってくれる人はいない。食事を一緒に楽しんでくれる人もいない。
泰三は真っ黒になるまで醤油にまみれさせた冷や奴を無理矢理、喉に押し込んだ。
翌朝は曇ってどんよりとした天気だった。だらだらといつまでも布団の中で過ごしていた泰三は昼過ぎにやっと起きだした。新聞を取りに寝巻のままで玄関先へ出る。ポストを開けるとそこには白バラがひとつ、新聞の上に乗っていた。泰三は白バラを手に取り怪訝な表情で見やると、庭の隅にぽいと捨てた。翌日はポストの中にクチナシが入れられていて新聞に濃厚な甘い香りがついていた。次の日にはまっ白なマーガレット。どれも庭の隅に捨てた。
何日も続くいたずらを不審に思った泰三は早起きして、玄関わきの小窓から外を観察することにした。
翌朝、新聞配達人が新聞を落とすカタンという小さな音で目を覚まし、そのまま寝床から出て観察を開始した。
外は明るくなりつつあり、遠くから電車の警笛の音が聞こえてくる。ほのぼのとした朝の空気のなか、隣の娘がパジャマのまま家から出てくると庭の花を摘んで駆けてきた。背伸びをしてポストに真っ白な一輪草を差し入れると満足そうに笑って家に駆け戻っていく。泰三は外へ出るとポストから一輪草を取り出し、庭に捨て置いた他の花と一緒に妻の遺影の前に置いた。
花の配達は毎朝続き、妻の遺影のまわりは白い花園になっていった。
雨が続いた。庭木は雨に打たれ、せっかく咲いた蜜柑の花も大部分が落ちてしまった。隣の庭の花も皆しおれていたり落ちてしまったりして泥にまみれてしまっている。
玄関わきの小窓から外を見ていると、隣の女の子は傘をさして庭の花を見て回っていたが、目ぼしいものが見つからないようで肩を落として家に戻った。
泰三も部屋に戻ろうと廊下を少し進んだところで、ポストの蓋がカタンと音を立てたのが聞こえた。戻って見てみると、女の子がスキップで家に戻っていく後ろ姿が見えた。
泰三はポストを開けてみた。そこには小さなビー玉がひとつ、ころんと転がっていた。取り出して覗いてみると、ビー玉を通してみる世界は虹色に輝いた。もっといろんな色を見たくて、光を求め見上げるといつの間にか空は晴れ、青く澄みきって、初夏の日が明るくさしていた。輝く日差しに胸の底から何か暖かいものがこみ上げてきた。
泰三はビー玉を大事にポケットにしまうと、女の子に渡すために、花の残った蜜柑の小枝を手折って隣家へと歩いていった。