食卓の日々
食卓の日々
件名:食パン買いましたよ。
本文:夕飯はサンドイッチにしますね。
義母にメールを送りスマートフォンをカバンにしまう。つい、ため息が出た。
サンドイッチは義母の大好物で、わが家の誰かの誕生日やクリスマスなど、特別な日はいつもサンドイッチ大会になる。還暦を過ぎた義母が嬉しそうにサンドイッチを頬張る姿はとても微笑ましい。だからわが家は、楽しい時にはいつでもサンドイッチなのだ。
けれど今日は違う。義母を慰めるためにサンドイッチを作る。
義父が転倒し肋骨を骨折した。その際に肺がつぶれ肺炎も併発し入院したのだ。意識はないままだ。三日前から義母は病院で義父につきっきりになっている。義母の食事は三食、私がはこぶ。義父の口をふさぐ酸素マスクを見つめながら、義母は自分の口に無理に詰め込むように食事する。
義両親は仲の良い夫婦で、どこに行くにも一緒だった。よく二人で旅行にも出かけて、熊の置物やらこけしやら、古めかしくも懐かしいお土産を買って来てくれた。来年、義父が六十五歳で退職したら二人で日本一周するのが夢だと話していた。旦那と二人、どんなお土産が届くかと苦笑いしていたのだ。
「ただいま」
玄関を開けて声をかけても家の中はしんと静まっている。いつもと違う冷え冷えとした空気。人が二人いないと家というのはこんなにも様変わりするものなのか、と帰るたびに思う。
台所に入り、冷蔵庫から卵を取り出す。鍋に水を張り、卵を沈めて食卓に置く。
古い台所だ。狭い食卓とこじんまりした流し台、二口コンロ。今風に言うならダイニングキッチンだけれど、今風なものと言えば昨年買い代えた冷蔵庫くらい。狭いし暗いし使い勝手が悪い。けれど私はこの台所が好きだ。義母が長年磨き続けた床も、義父が壁を崩して義母のためにとり付けた小窓も、子供の頃の旦那の背丈が刻まれた柱も、全部大好きだ。もちろん中学生の子供達も揃って家族全員で食卓に座ることも、たまらなく好きだ。
寝室で服を着替えながら、また、ため息が出る。家族が一人亡くなろうとしているのに、お腹はいつもと同じようにへる。きっと亡くなったその朝にもお腹はへるのだ。生きているってなんて残酷なのだろう。
台所に戻り、エプロンの紐をしめて、卵の鍋を中火にかける。
キュウリをスライスして塩でもむ。
レタスを洗い小さくちぎる。
トマトを……。
トマトは、どうしよう。
義母はトマトが嫌いで、義父は大好物だ。だからいつもはトマト入りとトマト無し、二種類のサンドイッチを作っていた。けれど今日は……。
考え込んでいると、メールの着信音が鳴った。義母からだ。
件名:Re
本文:サンドイッチ、全部にトマトを入れて下さい。がんばって食べます。
思わず、涙があふれた。義母はまだ諦めたりなどしていない。私は包丁をとり、トマトを薄くスライスしていく。きっと義母はこのサンドイッチを押し込むように飲み込むように食べるだろう。味など分からないに違いない。でも、それでもいい。それだからいい。
貪欲にしたたかに、意地汚い食欲にまみれて人は生きる。死が、世界と自分を分かつ、その時まで。
****
トキメキ。
そんな言葉を忘れて何年たつだろう。付き合っている頃は「すき」という気持ちがすんなり分かっていたように思う。
鍋に水を張り、出汁昆布を沈め食卓に置く。
けれど結婚生活も二十年目にもなると、旦那というのは、ただ手がかかるだけの三人目の子供だ。長女は高校三年生、来年は就職する。長男は高校二年生、進路はまだ決めていないらしい。そして旦那。建築会社で係長。収入に文句はなし。外見のことはお互い様。だけど、ただ……。
止まっていた手を動かし、白菜をきざむ。私は削ぎ切りより、ずばりずばりと垂直に包丁を入れる切り方の方が、食べた時に味がしみていて美味しいと思う。義母が生きていたら、ずぼらだね、と笑われただろうけれど。
ただ。最近、とみに会話が減った。
旦那の四十五という年齢を考えたら、いたしかたないのかもしれない。会社では現場と上司との板挟みになる役回りだ。毎日疲れているだろう。
しかし……。
鱈に塩を振り、バットに寝かせておく。
しかし、聞いて欲しい話だってある。長女はデートで留守ばかりだし、長男は反抗期から脱していない。何より。これを認めるのは癪にさわるが、何より、私自身が寂しいのだ。
だいたい若い頃、私たちが付き合い始めたのも旦那の押しの強さに負けたと言うだけのことで、旦那を愛してやまないっていうわけではなかったのだ。
それなのに、結婚したらどうだろう? 電話はない。メールもない。あれもこれもイロイロない。
それでも二人の子供が生まれ、そこそこ幸せな生活を送っているつもりだった。けれど子供たちが手を離れようとしている今、なんだか自分が透明人間になってしまったかのように、空気が体を通り抜けていくのだ。
鱈から出た水気を拭き取り酒を回しかける。
家事が一段落つき、ふと、窓の外に目をやる。夕焼けが過ぎた空に一番星が光っていた。
ああ、きれいだな。
ぼんやりしていると、スマートフォンが鳴った。グリーンスリーブス、家族からのメール着信音。手にとって、おや、と手が止まる。
めずらしい。旦那からだ。
件名:お疲れさま
本文:西の空に一番星がきれいだよ
思わず吹きだした。鼻の奥がツンとする。ああ、まったくもう。
この人は学生時代に、この文章を一言一句違えずに送ってきたこと、忘れているに違いない。あの頃、恋にやぶれ学問につまずいた私を勇気づけた、あのメール。
この人はなんの下心もなく、なんのてらいもなく、きらめく言葉を送ってしまう。そんな人だから、私は一緒に生きようと思ったのだったっけ。そんなことも忘れていたのだもの、忘れっぽいのもお互い様か。
件名:Re
本文:今夜は鱈チリ鍋よ。気をつけて帰ってきてね。
メールに返信して、もう一度、空を見上げる。もう外は暗くて星がたくさん瞬く。でも私は見逃さない、一番星を。もう二度と。
「よし、私もがんばろう!」
声に出して宣言してから鼻をかみ、私は勢いよく鍋に向かった。
****
「あんたはほんとにお祖母ちゃんにそっくりねえ」
ミカンの皮をむきながら、母が言う。
「そのちり紙、ポケットに入れてどうするのよ」
「あとでもう一度、鼻をかむ」
私は四つ折りにしたティッシュをパジャマのポケットにつっこんで、こたつの上のミカンに手を伸ばす。
「ねえ、お祖母ちゃんにそっくりって、顔のこと?」
「まさかあ。お祖母ちゃんは近所で噂になるくらい美人だったのよ」
それって私がブサイクっていうこと? 私は少しむくれてみせる。
「似ているのは、ちり紙のこと。一度鼻をかんだちり紙を取っておくのよ。『そのちり紙、どうするんですか?』って聞いたら『あとでもう一回鼻をかむの』って。あんたとまったく同じこと言っていたわ」
母はミカンの白いすじを几帳面に一本一本とりさる。それから小房にわけて丁寧に口に入れる。
「うん、このミカン当たりだわ。あんたも早く食べたら」
言われて私もミカンをむく。へたの方から爪を入れてぺりぺりとむいていく。皮を四つ割にむくだけで白いすじはそのままにする。あーんと口を大きく開け歯で小房を齧りとる。
「ほら、そのミカンの食べ方も、お祖母ちゃんとまったく同じ」
「だって、これはお祖母ちゃんに教わったんだもん。こうやって食べるのが一番おいしいんだって」
私は二口でミカンを食べ終え、次のミカンに手を伸ばす。
「だけど白いすじを取らないと口の中が、イガイガしない?」
「なに? 口の中が、イガイガって」
「なんか、こう、ざらつくっていうか、べたべたするみたいな……」
「ええ? よくわからないなあ」
部屋の隅、ストーブの上のやかんがカンカンという音をたてている。そう言えば、お祖母ちゃんはいつもストーブの上に鍋を置いていたっけ。中に入っているのはたいてい、ただのお湯で「やかんより鍋の方が蒸気がよく上がって部屋が暖まるの」と言っていたけど、どうやら科学的根拠はなさそうだった。
たまに、その鍋の中で小豆が煮られていて、それを見つけた私はわくわくしたものだ。翌日のおやつがお祖母ちゃんのぜんざいになるから。
お祖母ちゃんのぜんざいは粒がしっかり残って白玉だんごが三つ入ったものだった。小豆を潰さないように、ストーブの火を細く弱くして丁寧に煮ていた。そうすると部屋が寒くなってしまうので、お祖母ちゃんはしょっちゅう私の部屋に避難してきた。
「この部屋はあったかくていいわあ」
そう言って、私のベッドに腰かけてミカンを歯で齧りとっていた。お祖母ちゃんが亡くなってから、あのぜんざいも食べられなくなった。
「ねえ、お母さんは小豆を煮たりしないの?」
母はミカンの皮を意味もなく小さくちぎりながら、ちらりと私の方を見た。
「お母さん、下手だもの。いっつも鍋を焦がしちゃって、お祖母ちゃんに笑われたわ。だからこの家で小豆を煮るのはお祖母ちゃんの仕事なの」
「でも、お祖母ちゃんがいなかったら?」
カンカンとやかんの音がする。こたつの温度が上がったような気がした。
「それはそれで仕方ないわよ」
そう言うと母はミカンの皮を回収して立ちあがった。台所に入ろうとしている母の背中に呼び掛ける。
「ねえ、お母さん」
「ん? なに?」
「私が煮ようかな、小豆」
振り返った母は不思議な表情をしていた。怒っているような泣きそうな、驚いているような笑いだしそうな。
「いいんじゃない? じゃあ、お鍋出しておくわ」
そう言うと、何事もなかったように台所に行ってしまった。
こたつに顎を乗せて、手を肘までこたつ布団の中に突っ込む。冷えていた指先がじんとする。
勢いで小豆を煮るなんて言ってしまったけれど、どんな分量でどれくらいの時間煮ればいいのかなんて全然知らない。
「ま、いっか。やってみてダメだったら焦げるだけ」
そう言って立ち上がり、ポケットのティッシュで鼻をかんで、ゴミ箱に捨てた。
****
写真立ての写真を取り出し台所のコンロで焼く。灰はツナの空き缶に捨てる。
男と別れるたび、私は全ての写真を焼き捨てる。写真をすべて焼き捨て、住所録の整理をし、スマホやラインの通話記録も消去する。なんでそんなことを始めたか今となっては思い出せない。まあ、それはいいでしょう、そういうことは人生には往々にしてある。たとえば、いつ言葉を覚えたのか思い出せないように。
だから今現在、私のアルバムに残っている写真はすべて一年以内のものだけ。それを一枚ずつ丹念に、眺めては焼き、眺めては焼きしていく。
これはバラ園に行った時の写真。これは巨大迷路で迷っている時の写真。お花見の時に隣の奥さんに撮ってもらった、二人並んだ写真。一眼レフで撮った写真は妙に明るい。どれもこれもニヤけていて腹立たしくなる。
あんたたち、一年後には鬼のような形相で怒鳴り合いするんだからね!
自分で自分に嫉妬して、さらに腹立たしい。あんまり腹が立ったので、写真は後回しにしてアドレス帳を先に片付ける事にした。
真っ先に消したのはヤツのメールアドレスと電話番号と住所と名前と誕生日と。腹立ちをぶつけるように一段ずつ細かい二重線を何度も何度も重ねて黒く塗りつぶす。最後にメモ欄を見ると「カレーライスが大好きなヤツ」と書いてあった。メモするほどの情報か!
さらに腹を立てて住所録の記録をどんどん塗りつぶしていく。ヤツの友人、二人のお気に入りだった店。ヤツの会社の電話番号、次々と。そうすると溜まった鬱憤も少しは晴れたので、写真に戻ることにした。
二人の写真だけでなく、普段の何気ない写真もどんどん焼いていく。一年間の思い出を全部消し去るように。なにも残らないように。この一年、ヤツのことを考えていない時なんて、なかったから。
ふと手が止まった。その写真の日付は春先だった。見ていてもどこなのか、なんでそこに行ったのか全く思い出せない。
定食屋らしいテーブルで、私一人が写っていた。大きく口を開けてソースカツ丼を食べようとしている。その表情のなんと嬉しそうなこと!
よっぽど腹ペコだったかなんなのだか、自分で見ても良い笑顔だと思う。
写真を隅々までよく見てみて、やっと思い出した。写真の中の私は、お気に入りだった白のセーターを着ていた。これはヤツと初めて一緒にご飯を食べた時の写真だ。その頃はまだ付き合ってなくて、ただの友達だった。
『すげえうまそうに食うのな。写真撮ってやるよ』そう言うのでカメラを渡したのだった。
そうだ、そしてこの後、私はソースがたっぷり染みた千切りキャベツを二本こぼして、セーターに染みを作ったのだ。そのセーターは、未だタンスの奥に眠っている。お気に入りという言葉では足りないくらい好きだったから、捨てられなくて取っておいたのだ。
思い出して、私は最後の写真を焼いてしまった。これで思い出は全部消した。すっきりさっぱり。
部屋に戻り、タンスから白いセーターを取り出してみる。胸のあたりに赤い染み。なんだかハート型に見えない事もない。
いや、それはこじつけだろう。染みはどう見たって染みなのだ。むりやり思い出に結び付ける必要はない。
でも。できることなら、次に付き合う人とは。写真ではなくたくさんの、染みを残してみたい。そう思う。
****
「ただーいま」
ほろ酔い加減で玄関を上がると、台所に明かりがついていた。のれんを上げて見ると、娘がセーターの袖をまくりあげてキャベツを千切りにしている。
「あら、あんた、夕飯まだなの?」
「ううん、もう食べた。お母さん、いつも酔って帰ったら何か食べるし、サラダなんかいいかなと思って」
「サラダって、キャベツの千切りしかないじゃん」
「だって冷蔵庫の中、キャベツとピーマンと卵しか入ってない」
「あ、しまったあ! 明日の朝ご飯がないわ」
「いいんじゃない、おむすびとゆで卵で」
会話が、ふと途切れた。娘はもくもくとキャベツをきざむ。しゃく、とん、しゃく、とん、規則的な音が台所に響く。几帳面すぎるほど丁寧に、できるだけ細くきざもうとしているようだが、キャベツは千切りと言うよりは短冊切りに近かった。私がしみじみその山を見つめると、娘は手を止め包丁を置いた。
「ドレッシングかければサラダになるよ」
「うーん、この大量はきびしいよ」
娘はうつむき、ぽつりぽつりと喋る。
「あたしさあ」
「うん?」
「あたし、気持ち切り替えるの下手でさあ」
「うん。知ってる」
「さっき、ラーメン作って食べたんだ。そしたら、少しだけ落ちついたの。だから、料理なんかいいかなあって思ったんだけど」
眉根を寄せて黙り込んでしまう。娘がいら立っている時のクセだ。
「だけど、冷蔵庫にはキャベツしかなかった、と」
「そう。だから千切り」
娘は両手をがばっと天井に向け突き上げた。
「あー! なんだかなあ! もう!」
「ね、ケーキ作ろうか」
床に落ちたキャベツのクズを拾いながら娘に提案する。
「ケーキ? こんな遅い時間から?」
「簡単なのだったらできるわよ、ブラウニーとか。あんた好きでしょ?」
「……うん」
冷蔵庫から材料を出す。小麦粉、卵、バター。それと戸棚からココアパウダーと砂糖。手を止めて娘に聞く。
「ねえ、クルミあったっけ?」
「お父さんのおつまみのがあるんじゃない?」
お酒の置いてある戸棚を開ける。
「あったわ、クルミ。上等上等。あとはボウルと秤と木ベラね」
食卓に材料と器具を並べて、エプロンをつけ袖をまくる。娘がキャベツの山をビニール袋に突っ込み、冷蔵庫にしまう。
「じゃ、まずはバターを二百グラム。一箱全部だね。ボウルに入れて練るの。はい! がんばって!」
娘が冷蔵庫で冷えてカチカチになったバターと格闘している間に、私はやかんでお湯を沸かす。
「お母さん、全然ダメ。歯が立たない」
「待ってね、湯せん用のお湯沸かしてるから」
娘は唖然とした顔で木ベラから手を離した。
沸いたお湯を一回り大きなボウルに入れ、バターが入ったボウルを浮かべると、見る間にバターが溶けだす。
「早く早く! 早く練らないと全部溶けちゃう!」
娘が慌ててバターを練り始める。一度溶け始めると簡単に練れるもので、すぐに湯せんからあげる事ができた。しっかりと練っていくと、バターは白っぽい色に変わる。
「じゃ、卵を二個投入」
「卵は溶いてから入れなくていいの?」
娘の言葉には頓着せず、ボウルに卵を割り入れる。
「ボウルの中で溶いちゃえば洗いものが減るじゃない」
「ねえ、こんな乱暴なやり方で本当に美味しくできるの?」
「できるわよ。あんたいつも美味しい美味しいって全部食べちゃうじゃない」
「そりゃそうだけどさあ」
ぶつくさいいながらも、娘は卵を溶いてバターと混ぜるが、両者はちっとも馴染まない。
「あ、しまった。卵より砂糖が先だわ」
「ええ! どうするの?」
「今入れればいいじゃない。毒にはならないって」
そう言って、ボウルを秤に乗せ、砂糖三百グラムを、卵入りバターの上に直接振りかける。ついでにココアパウダー、五十グラムも加える。
「さあ、練って練って! 練れば練るほど美味しくなるから」
娘は木ベラを勢いよく、ぐるぐると回す。その腕の運動のおかげか、顔に血の色がさしてきて生き生きとして見える。
「クルミは本当は空煎りしたり小さく刻むんだけど。いいわね、このままで」
ボウルの中にクルミを全部放り込む。娘は何か言いたげに口を開けたが、結局なにも言わずに生地を練り続けた。
「クルミもよく混ぜてね。生地によく馴染んでいないとひだひだに小麦粉が入り込んで美味しくないの。じゃ、小麦粉いこうか」
再度、ボウルを秤に乗せ、六十グラムの小麦粉を投入する。
「今度は混ぜちゃダメ、切るの。ボウルの中の生地を、憎いあいつと思って縦横無尽に切って切って、切るの」
芝居の殺陣よろしく腕を振り回すと、娘は苦笑いする。けれどボウルの中の生地は的確に、切るように撹拌されていく。
「あとは、オーブントースターの天板にワックスペーパーを敷いて、生地を流して、十五分焼くだけ。簡単でしょ?」
「そうね……。そうなのかな?」
「あんたはお菓子作らないもんねえ。あ、八百ワットにしてね」
オーブントースターの熱円筒が赤い光を宿している。私と娘は食卓の椅子に腰かけ、見るともなく赤い灯を見つめる。甘いお菓子が焼けるにおいが辺りにただよう。
「お母さんは小麦粉を入れたあと、誰を想像しながら切るの?」
娘が赤い灯から目をそらさずに言う。
「そうねえ。お父さんかしら」
「お父さん? どうして?」
「残業ばっかりで、けしからーん! って」
「それは仕方ないじゃない。仕事なんだから」
「でも、寂しいじゃない、家族みんなが揃ってご飯を食べられないのって」
娘は食卓に頬をつけてオーブントースターを見上げる。
「そうだよね、一緒にご飯を食べるって、大事なことなんだよね」
春とは言え、外にはまだ雪が残り、ストーブをつけていない台所は足元から冷える。娘はくちゅんと小さなくしゃみをした。せめてひざ掛け代わりにと、エプロンをはずして娘に渡す。
「お母さん」
「うん?」
「あたし、彼と別れた」
「うん」
それ以上、娘も私も口を開かず、二人とも食卓に頬をつけ、トースターを見上げていた。頬の熱で食卓の木材が温かくなったころ、オーブントースターが、チン、と鳴った。
ミトンをつけて天板を取り出す。鍋敷きの上に天板を置き、そのままナイフで出来たてのブラウニーを切り分ける。
「あちちち」
焼き立てのあつあつを娘に渡す。娘は両手の平の上でケーキを跳ねさせ冷ましている。私も真似して跳ねさせ、すこし冷めたところを頬張る。上出来だった。
「ねえねえ。なんで焼きたてのお菓子ってこんなに美味しいのかな」
娘の問いに、首をひねる。
「さあねえ。もしかしたら、お菓子が幸せだからかもしれないわね」
「幸せだって、お菓子が思うの?」
「そう。憎いあんちくしょうの恨みつらみをこねられ切られ痛い思いをしたけれど、おかげでとっても愛される甘いお菓子になりました。ね、幸せでしょ?」
娘はふふっと笑った。
「そうね、今が甘いなら、幸せかもね」
私も娘の顔を見て、ふふっと笑った。
****
「おお。今朝はおむすびか」
パジャマ姿で朝刊を握った父が台所に入って来た。
「おはよう、お父さん。今日、冷蔵庫が空っぽでさ。あと、ゆで卵ならできるんだけど」
「ええ? おむすびとゆで卵じゃ、遠足みたいだなあ。おむすびだけでいいんじゃないか」
父はガラリと音を立てて椅子を引き「どっこらせ」と言って座った。最近、膝の調子が悪いらしい。お茶を入れて目の前に出すと
「ああ、ありがとう」
と言って一口すすった。
「お前も、お茶を入れるのがうまくなったなあ。昔は緑で苦いだけのお湯だったが」
「いやだ。忘れてよ、そういうことは」
私もお茶を手に椅子に座る。
「そう言えば、お母さんにもおむすびあげたのか?」
「うん、今朝はそうした」
父はおむすびを取り上げて、かぶりついた。
「うん、お母さんのおむすびにそっくりだ。特に塩をつけ過ぎなところがそっくりだ。さすが母娘だな」
「だから、そういうことは言わずが花っていうでしょう」
「ちょっとちがうな、言わぬが花、だ」
父は黙々とおむすびを食べる。弟が階段を駆けおりてきて、台所に顔をつき出した。
「姉ちゃん、それ包んで。行きながら食う」
「なに、あんた。まだ講義の時間には早いでしょう?」
「バイトが早出なんだ」
ラップにおむすびをいくつか包んで渡す。
「行って来ます」
ぶすっとした声でそう言って、弟は玄関を出て行った。
「もう。せっかく今朝はみんな揃ってご飯を食べられると思ったのに」
「しょうがないさ。大学生の男なんて家族水入らずには興味がないだろう」
「でもお母さんが、そうしたいって、病院でずっと言ってたからさ」
窓の外でスズメがさえずっている。台所の窓から差し込む光が、埃に反射してキラキラ光る。私もおむすびに手を伸ばす。
「お母さんさ、おむすび作る時、両手を塩だらけにしてぎゅうぎゅう握ってたじゃない? あれじゃ、おむすびじゃなくて時代劇に出てくる握り飯だよ、なんて思ってたんだ、私」
父が黙ってお茶をすする。
「でもさ、おむすび握ろうと思ったら、どうしてもお母さんと同じに握っちゃうんだよねえ。これが母の味ってやつかな」
「いや、隔世遺伝かもしれんなあ」
「隔世遺伝?」
「お母さんは、お祖母ちゃんの握ったおむすびを真似してくれていたんだよ。お前はお祖母ちゃんにそっくりだからなあ」
「それ、お母さんにも言われた」
「そうか」
二人とも黙ったまま、おむすびを咀嚼する。
おむすびはやわらかいように見えて噛みごたえがある。独特の、歯を引っぱられるような感触。かるく頬の内側に貼りつく感じ。
噛み終えていないまま、まだ粒が残ったままで飲み込む。それでもするりと飲めてしまう。固形物なのに、なぜか優しい。塩をつけすぎたのに、なぜか甘い。
子供が産まれたら、私はこのおむすびを握ろう。孫が産まれたら、その子は教えなくてもこの味のおむすびを握るかもしれない。ひ孫はどうだろう。その次は?
きっと私の子が、私の孫が、この味のおむすびを握ってくれるだろう。そうしていつの日か家族みんなで、この食卓を囲むのよ。
****
「私、この世の中の食べ物でサンドイッチが一番好きよ」
「それはまた安上がりな好物だね」
「そうなの。でもいいの。あなたは? 一番お好きな食べ物はなあに?」
「そうだなあ。君の作ったしょっぱいおむすびかな」
「しょっぱいは余計ですよ」
「そうか。それは失敬、失敬」
台所の隅でストーブがカンカンという音を立てている。新品の食卓からはまだ木の香りがする。今夜も温かな二人の食事。
食卓は夢を見る。遠い先の幸せな、家族団欒の夢を。