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 ブレイハ領からやってきた一台の馬車がバルツァー領に到着した。町の中ではなくあえて森の中で止まったその馬車から降りてきたのは、商家の跡継ぎといった風情の男である。彼は三人の護衛とともにいた。

「アイラさん。本当、何者なんでしょう。伯爵家と侍女である証明にと、家紋の入った食器を持ち出してくるとは驚きましたけど」

 ルークが自分は商家の跡継ぎだという設定を忘れて敬語で護衛隊長たるアレンに問うと、生真面目な彼は鋭い視線を向けたあと、あきらめたようにため息をついた。

「何度言えばわかる」

「まあ、ここは森の中ですし、大丈夫でしょう」

 セディはそう軽い調子で言うと、隣にいたハノイの肩にぽんと手を置いた。

「ということで、周囲への警戒、よろしく」

「……はあ」

 彼の性格を熟知しているハノイは、あきらめたようにためいきをついて、素直に周囲へと視線をめぐらせた。

「ま、確かにあの人、情報持ちすぎるよな。やっぱり伯爵の部屋に忍び込んだりしてるのかね」

「そうですよね! いくらなんだってあんなによく調べ上げてるなんて……」

 自分の最初の問いに答えてくれたセディにルークは大きくうなずいて答えた。

「それにもう一つ疑問がある。彼女の動きはまるで軍人のそれだ。あまりにも無駄がない」

「誰かに師事していると思われますか?」

 ハノイが周囲に気を配りながらも、アレンの言葉にはまっさきに反応して問いかけた。

「そう思う。ただ、あの領地にそういうことを教えられそうな人間がいるのか疑問だ。もちろん彼女が外の人間の可能性もあるが、密告するということは、伯爵家に恨みがあり、かつあれだけの証拠をそろえるには、長い年月ここにいたと考えるべきだろう」

「南にはレクセル領もありますし、あそこは確か軍学校もあったのでは?」

「レクセル領! いいねえ! 一度はあそこの侯爵夫人にお目にかかりたいよ」

 口笛をふいて軽い調子でいうセディに、ハノイは意味が分からないといった表情で眉をしかめた。するとその意図をただ一人理解していたルークはあきれたように首を振った。

「美人だと有名ですからね。侯爵が溺愛するくらいには」

「溺愛、ねえ……でもそれも本当かどうかわからないだろ?」

 まるで自分に付け入るすきがあるとでもいう様子のセディに、ルークはそれをもう一度首を横に振ってこたえた。

「本当ですよ。マルティナ様は僕のはとこですから」

「侯爵夫人とはとこ!? お前、アルクヴィスト家とつながりがあったのか?」

「そうですよ。祖母がアルクヴィスト家出身なので」

「おい、無駄話はそこまでにしろ」

 自分の疑問がここまで話を広げて脱線していくのを見て、アレンは低い声でそれを止めた。

「はい、かしこまりました。ほら、いくぞ。とりあえずバルツァー伯爵の調査だ」

「任務の内容を高らかに宣言するんじゃない!」

 誰もいない静かな森に、アレンの怒鳴り声が響き渡った。 








 晴れた青空の終わりは、沈んでゆく太陽が残した赤いカーテンの消滅によって告げられる。夜空に横たわる紺碧と、ぽつりと浮かぶ丸い白い月がでてくると、空の天気は一気にあいまいなものになる。

 静かなる夜の始まりに、ブレイハ伯爵家の長女が住まう部屋につながるバルコニーでは、部屋の主が手すりによりかかって歌を口ずさんでいた。

 その歌は故郷を思う哀愁に満ち溢れた歌で、どこか物悲しくも温かみのある歌だった。

 彼女の歌声は透明感のある美しいもので、音程もリズムも聞いていて心地よいものだった。

「さすがに歌では間延びしませんね」

 答えを期待せずにレオはそうつぶやいたが、その歌声はぷっつりと途切れて、歌い手は小さく笑いながら言った。

「歌まで間延びしたらぁ、人間、だめになりそぉ」

「大丈夫ですよ。すでに片足突っ込んでます」

 まったくフォローになっていない突っ込みを入れられて、彼女は困ったようにレオのほうを振り向いた。それと同時に長いドレスの裾がゆれ、彼女の耳飾りが大きく揺れた。

「ひどいわねえ……でもまあ、歌は好きよぉ」

水呼(みなよ)びじゃなくてよかったですね」

 水呼びは、歌を鍵として水を呼ぶことができる人だ。つまり歌を歌ってしまうと無条件に水を呼んでしまうので、その力が判明した段階で、親が子供にむやみに歌わないようにと教育する。焔呼びほどは危険ではないが、子供がコントロールを失うと、家の中で一日中雨が降り続けたりする。そのため親は初めて子供に歌わせるときはたいてい屋外を選ぶのだ。

「本当にね。おかげで歌えるわぁ」

 レオは言葉にしたことはなかったが、自分の主がもっとも伯爵令嬢らしい瞬間は、歌を歌っているときだと思っていた歌を歌っている時だけは、気品のある女性に見えた。ぼんやりとした表情で忘れられがちな整った顔も、生来の美しさをきちんと発揮できるからだろう。

「初めてお会いした時も、歌ってましたね」

「ああ……懐かしいわねぇ。最初はあなたも、猫の皮をかぶっていたのにねぇ」

 レオがブレイハ家に来てからもう三年の月日が経つ。

 彼女はその日のことを思い出して、小さく息を吸った。

 そしてその日に歌っていた歌を歌いだす。

 その歌は春の訪れを喜ぶ歌だった。新しい人間が来るといっていたから、明るい歌を歌っていたのだ。ただし、初めて会ったときのレオは今とはまったく違って完璧な従者を演じていた。

 主人であるお嬢様のいうことには反対しないし、無駄な意見も言わない。

 あのころはまだ、ドミニクにもそこまで嫌われていなかったのではないだろうか。それは、一重にレオがまだ彼女に対する忠誠心がなかったからだと今ならわかる。

 彼女が歌い終えると、レオもまた、いろいろなことが思い出されて、不思議な気持ちで自分の主を見つめていた。

「そういえば、一度も呼んでくれないわねえ……名前」

「え?」

「それとも忘れてるのかしらぁ?」

 彼女の言葉は、レオの中に眠っていた一つの記憶を揺り起こす。レオが決して彼女の名前を口にしないのは、彼女の言葉があったからだった。

「好きになったら、呼んで……そうおっしゃってましたね」

 最初はレオも名前を呼んでいたのだ。それはほかの使用人が彼女の名前に様をつけて呼んでいたからだった。

 しかし彼女はその呼び方が不自然だからやめろといい、口調もあまりにも距離を感じるから変えろと命じたのだった。

 一見矛盾した命令で、レオは戸惑った覚えがある。名前を呼ぶ、という行為は親しみのある行動なのにそれをやめさせ、一方で主従関係を明確にする堅苦しい言葉遣いもまたやめさせた。

「あらぁ、覚えていたのねえ。ということは、まだまだなのねぇ。口調は、治ったのにぃ……」

 今になってみると、レオは今、自分がどうして彼女の名前を口にしないのか不思議なほどだった。

 しかし同時に、その一線を越えてしまったら、自分の復讐という生きがいにも等しいそれを、果たすことができなくなるかもしれないという不安がそこにあった。

 自分さえ黙っていれば、彼女の平穏な生活は守られる。

 復讐はいっそ彼女が嫁いでしまってからでも、遅くはない。

 しかし、恐ろしいことに、彼女が嫁ぐという事実を面白くないと思っている自分がいる。彼女が嫁げなくなればいい。そう願っているのは、かすかに残った復讐心なのか、それとも独占欲のようなものなのか、レオにはまだ判断がついていなかった。

「いつか、呼びますよ」

「……お別れまでには、よろしくねぇ」

「さあ、どうでしょう」

 すべてが終わったら、レオはその名前を呼べるだろうか。

 しかしその瞬間、彼女が名前を呼ぶことを許してくれるのかどうか、それが最も大きな問題だった。

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