一
とめどなく溢れる血が、平穏な日常の終わりを告げた。
まだ暖かい母の血は、レオの手のひらを濡らしてゆき、その手のひらから伝わる体温が下がっていくたびに、目の前の光景が現実だと認めなければならなかった。
「レオ……あなたは、あ……人、見つ……」
薄れゆく意識の中で母が本当に伝えたかったことは何か分からない。しかし、途切れ途切れに聞き取ったその単語から、レオは自分の家族を殺した犯人を見つけてほしいのだと解釈した。
違う部屋で倒れていた父や妹は既に事切れており、母の最期の言葉だけが、家族の願いのように思えたのだった。
「いたぞ!」
血塗れの剣を持った男が二人、部屋に入ってきた。その男たちが家族を殺したのだと理解した瞬間、レオの視界は真っ赤に染まった。
その事件から数年後のある日。
青いペンキをひっくり返したかのような空に、眩い太陽がぽつんと浮かんでいる。
北の大地では貴重な夏のこの時期に、一人の女性がブレイハ伯爵家の屋敷から抜け出そうと試みていた。
彼女は屋敷の裏手にある湖で日向ぼっこを楽しもうと思っていた。
「お嬢様、どこへ行かれるおつもりですか?」
この屋敷で彼女の動向を気にかけるものは少ない。彼女があまりにも怠惰で、愚かであるため、屋敷の誰も期待していないからだ。
しかしながら中には例外もいるもので、そんな例外の一人である銀髪の青年が、彼女の行く手を塞ぐように立っていた。
屋敷から抜け出すには、茂みの中に隠れるようにして存在する抜け道を使うのが一番楽である。それを見越していた青年は、その入り口で彼女を待っていたのだった。
「湖岸にぃ、日向ぼっこに」
「供の一人も付けずにですか?」
「あらぁ……レオ、あなたが来てくれるんでしょぉ?」
おおよそ貴族令嬢とは思えない、間延びした喋り方をする彼女は、のんきにそんなことを言った。
するとレオは深くシワの刻まれた眉間を抑えるようにしてため息をついた。
「行かないと言ったら?」
「一人でいくわぁ」
「付ける気ないんじゃないんですか!」
「あらぁ……ばれちゃったぁ」
「ほんっとにお嬢様って人は!」
彼女は文句を言いながらも、レオが付いてくることを見越していた。レオの方も、彼女が自分の行動を分かっていての行動だと思っていたので、少しヤケになりながらも道を開ける。
二人は抜け道を抜けて、のんびりと湖へ向かう。レオだけならばこの半分の時間でたどり着いただろうが、口調と同じくトロトロと歩くお嬢様連れでは、そうはいかない。
「やっぱり、綺麗ねぇ……」
ようやく湖に着くと、彼女は手軽な岩に腰をかけてそう呟いた。
そして少しきつめの美しい顔立ちに見合わない、どことなく気の抜けた笑みをレオに向けた。
「ありがとねぇ。付いてきてくれて」
レオはお嬢様のこの顔が嫌いだった。彼女の笑みはあまりにも毒がなさすぎた。むしろレオの中に渦巻く怒りや憎しみを消してしまうような、そんなものだったのだ。
「仕事ですからね!」
そんなやるせなさは隠して、レオは少しだけ無礼な従者を演じている。
「こうやって、ずっとのんびりしていたいわぁ」
呑気なお嬢様は、彼女の従者の中にある激しい憎悪を知らないようだった。彼女の父親がどれだけこの国であくどい事をしているかも。
箱の中で育つ彼女は、愚鈍ゆえにそういう悪事に染まることもなく、またそれを知ることもなく、ただ平穏に生きている。彼女は一ミリだって、レオが彼女の生家であるブレイハ家に向けている殺気を感知していないに違いない。
だからこそ、初めて会った時に、復讐に燃えるレオを見てもなお、レオを信頼しそばに置くことができたのだろう。
「レオ? 何を見ているの?」
不思議そうにこちらを見つめてくる彼女の美しさに、不覚にも見惚れたレオは、すぐに我に帰って様々な思考を誤魔化すべく、目に留まったものを話題にした。
「少しは勉強するなり、美容に気を使われたらいかがですか?」
採寸が面倒だからと、服は既製品しか着ないこの変わり者の彼女に、レオは無駄だと知りながら進言してみせたのだった。
「必要ないわぁ。私は、ら・ぷはんせす・るふどっどぅ、だもの」
「なんですって?」
「異国の言葉よ。面白いから訳を調べてみたの。愚鈍姫ってことよ」
彼女は全く気にする様子もなく口にしたが、その呼称を本人が知ってるとは思ってもいなかったレオは、驚くと同時に少し呆れながら言った。
「そんなこと言われて悔しくないんですか?」
おそらくここら辺一体では、ブレイハ家の長女たる彼女の名前がリリアナである、ということよりも、愚鈍姫の呼称の方が広く知られている。
「ないわねぇ。愚鈍姫って直接言うのは憚られたから、ちょっと学がある人が言ったんでしょうね。でも、外国語にすれば悪くない響きだわぁ」
「言っている意味は同じですよ」
「わかってるわよぉ」
全くもってプライドというものが存在しないらしい彼女は、のんびりとそんなことを言った。
彼女からすれば、他人が何を言おうと、直接手出しされない限り何の害もない。だから愚鈍姫などと呼ばれていても、彼女は抗おうともしないのだろう。彼女はそうやって怒ることからさえ怠惰に逃げるから、何もかもが穏便に済んでしまうのだ。
「お嬢様といると平和ボケしそうです」
「良いことじゃない。のんびり暮らした方がきっと楽しいわぁ」
「お嬢様はのんびりしすぎです」
お嬢様の主張はばっさりと切って捨てられたが、彼女は何故か嬉しそうに微笑んでいる。そんな彼女の反応にレオは苛立ちと同時に安らぎも感じていて、その自己矛盾が彼を苦しめていた。
「忘れるなよ」
小さく自分に言い聞かせるようにつぶやく。彼女はこてんと首をかしげて何か言ったかと問いかけるが、レオは首を横に振った。
「ねえ、レオ」
「はい」
「もし、あなたの望みが一つ叶うなら……何を願う?」
唐突な彼女の問いに、レオは風に揺らぐ湖面から目を離し、その問いの真意を探るために彼女の方を見た。
丸い大きな目がレオを見つめていた。彼女はいつもどおり気の抜けた笑みをたたえており、その質問には深い意味はないのだとレオは思った。
「お嬢様の幸せを」
「嘘はいらないわぁ。あなたのことよ」
案外鋭い彼女は、首を横に振ってそう言った。ここでもし、お嬢様の不幸であったり、ブレイハ伯爵家の没落と答えれば彼女はどんな反応をするかとレオは想像してみた。
それが本心だが、いくら愚鈍姫と呼ばれるほど鈍くトロい彼女も、そんな願望を口にすればレオの復讐心に気づくに違いない。
しかしレオは自分の復讐の計画とは全く異なるところで、彼女に復讐心を気取られたくないのだと、自覚しつつあった。
「家族に会うことでしょうか」
だから、叶うことがない故に、一番の望み足りえない望みを口にした。死人が蘇らないことを理解はしているものの、失われた家族を恋しく思う気持ちは依然としてレオの中にあるからだ。
「それは、叶えてあげられないわねぇ。じゃあ何にしようかしら……」
「なんの話ですか?」
「誕生日よぉ。再来週でしょう?」
彼女はどうやら誕生日プレゼントをくれる気のようだ。毎年従者であるレオにプレゼントくれる風変わりな主は、今年のプレゼントに困っていたらしい。
彼女のその優しさが、レオの心をさらに荒ませた。
誕生日。
今年の誕生日は、特別な日だ。おそらくプレゼントをもらっている暇はない。しかし、レオが常々抱いてる願望は、確かにその日に成し得るかもしれない。
失敗すれば、それまでだ。
どう転んでも、彼女の優しさを受け取ることはできまい。そして、多少なりとも彼女の愛する平穏を奪うことが、心苦しいとレオは感じてしまっていた。
「考えておくわぁ。何にしようかしらぁ……」
「今年の誕生日は、良い日になりそうです」
「そぉ? そうね。きっとそうだわぁ。私もとっておきのプレゼントをあげる」
もしこの時、レオが彼女の表情を見ていたなら、彼女のかすかな表情の変化に気づけたかもしれない。しかしレオはすでに太陽に輝く湖面に目を奪われており、彼の思考は二週間後の誕生日へと飛んで行ってしまっていたのだ。