貴女に伝える最後の想い
十二時十五分。
最寄り駅から徒歩十五分にある四階建てのビル。
小此木啓太が彼女の助手となってから、ずっと通い続けてきた道のり。
この四階にある探偵事務所へ俺はいつも通っている。
「それも今日で……」
事務所の前で溜息を吐く。
覚悟を決めて来たというのに、いざ目の前まで来ると、どうしても躊躇ってしまう。
「ふぅ……よしっ!」
事務所への扉を開け、中へ入る。
「あ……」
物一つと存在しない部屋で、一人呆然と立ち尽くす女性の姿がそこにはあった。
華奢な身体に端正な顔立ち。そして誰もが見惚れるであろう一糸乱れることもない綺麗な黒髪。十人十色といえど、彼女を綺麗と思わない人は恐らくいないであろう。
折原葵。ここの責任者だった人だ。
「折原さん」
背中を向ける彼女に声をかける。
首だけを傾け、こちらを向く。冷やかに真実を見通す観察眼が、今はただ優しく、何処か憂いを帯びた眼で俺を写す。
「小此木くん。……ここはもう空き部屋だよ、何にもない」
そう言って身体ごとこちらへ向け、おどけたように微笑む。
「本当ですね。……荷物はもう実家に?」
「ええ。必要なものだけ全部、向こうに送ったよ」
「そうですか……マンガも?」
「もちろん。読みたかった?」
「いや、少女マンガでしょ」
「問題ないでしょ。今時そんなの気にする人はいないし、この前古本屋に行ったとき、少女マンガコーナーで立ち読みしてた男の子もいたし。ふふ、決めた。家に着いたら送ってあげる」
「遠慮しますよ」
両手を上げて拒否のポーズ。
「えーっ面白いのに」と冗談交じりの不貞腐れた顔に苦笑しながら、自然と部屋を見渡す。
いつも彼女が座っていたワークデスクも、奥の部屋に収納しきれなくなった資料を置く本棚(ここに依頼者に見えないようにマンガも隠されてた)も、此処にあったものが全て綺麗になくなっていた。
殺風景な探偵事務所。
依頼の無い日は、二人だけの部室のように一日を過ごす緩やかな場所。あの頃の楽しい面影も思い出も、もうここには無かった。
一つの事件で彼女に救われて、ずっと追いかけてきた。
彼女に恩を返すために。
彼女の力になれるように。
彼女の助けになれるために。
彼女の背中を追いかけるために。
彼女の隣に立ちたいがために……。
ここは俺にとって掛け替えのない居場所だった。
掛け替えのない、家だった……。
それも全て、今日で終わる。
俺がここに来たのは、その全てを、悔いを残さないために、清算するため。
「葵さん」
突然名前で呼ばれたことに葵さんはピクリと驚いた顔を向ける。
ずっと呼びたかった彼女の名前。
折原葵の助手となってから一年半。
ロクデナシの自分に沢山の思い出をくれた人。
機能不全家庭。十五の夏、一家離散秒読みの家庭に溜まった鬱積が爆発した日。ドラマのような反抗的な態度で夜の街を歩いて、事件に巻き込まれた自分を必死に庇ってくれた。
あの時、塞ぎ込んだ俺の頭を優しく撫でてくれた。あの小さな手の温もりは今でも忘れない。
碌に勉強のしなかった自分に、様々な知識を与えてくれた博識な彼女。
付きっ切りで勉強を教えてくれた。雑学も混じってたりしてよく脱線していたりもしたけど、楽しかった。すごく楽しかった。
あの時の貴重な時間は決して忘れない。
社会のはみ出し者。有象無象の中の一人の観客だった自分に光の当たる舞台へ。助手という舞台へ上げてもらった。嬉しかった。嬉しくもあり切なくもあった。矛盾したこの気持ちは決して言葉に出来ないだろうけど。
あの時の気持ちは今でも忘れない。
こんなに沢山のものを与えてくれた彼女へ全てを伝えたい。
悔いを残さないように、全てを伝えたい……。
「俺、葵さんのことが好きです」
彼女と共に過ごした時間が、今になって止め処なく溢れてくる。
こんな言葉じゃ足りない。
絶対的に足りてない……。
どうして好きを伝える言葉はこんなに少ないのだろうかと、心の中で悪態をつく。
それでもこれ以上は言わない。
『過度な言葉は意味を薄めてしまうようから』と、彼女がよく口癖に教えてくれたことだ。
彼女に教わったことはいつだって守ってきた。これからもずっと守っていくつもりだ。
だからせめて、何万分の一でも伝わることを願って、胸を張ってしっかりと彼女の姿を見よう。
この目にしっかり焼き付けるため。決して記憶にはしない。思い出として、残しておくために。
これは清算。これから前へ進むために、しっかりとここで決着を付けなくてはいけない……。
こみ上げてくる想いに涙が溢れそうになる目を必死に堪える。
「葵、さん」
「うぅ……」
彼女が大粒の涙を零していた。
「ぐず……! ごめんっ! ごめんね」
「葵さん」
「うぅ……ごめん。嬉しくって、ほんとに嬉しくて……!」
そういって泣きじゃくる姿に胸が苦しくなる。
「ずっと心配だったの。君は優しいから……いつも一歩引いて。自分を押し殺すところがあったから」
「葵さん……!」
「大きくなったね。ほんとに……大きなったね」
「嬉しい」と今だ止まらね嗚咽を漏らしながらも伝える彼女の言葉。
感受性の強い彼女はいつもそうだった。他人の笑顔に喜び、他人のために尽くし、他人の悲しみに共感する。それは時に、犯人に同情して危険な目にあうことも……。
そんな姿をそばで見ていて、不安を覚えることもあった。
今の彼女は一体、何に涙したのだろう。
言いたいことは沢山ある。それでも自分の気持ちを優先せず、ここで彼女に投げかけるべきは気遣いの言葉だ。
自分を押し殺すことには慣れている。
なのに……。
胸に渦巻く感情が語彙をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
吐き出したくなるほどの万感の思いだが、それを吐き出すには余りにも口が小さい。
今はそれが救われる。
何も言えずにいる自分に彼女は優しく声をかける。
「啓太君。ありがとう」
「葵さん?」
今、下の名前で読んでくれた……?
俺の心を読んだかのように、もう一度、彼女は言った。
「啓太君の気持ち。すっごく嬉しい。だから、ちゃんと言うね」
「っ……」
息をのむ。
いよいよこの時が来た。
自分から仕掛けたことといい、この瞬間はやっぱり緊張する。
ドクドクとうっかり聞き漏らすほどに耳障りな心音。
見たくもない結末を知るのが怖くて、ずっと先々へ引き伸ばしていたことだ。
本気にならず、流されるがままに変わらぬ日常を過ごす。傷つかないためのに身に着けた処世術。
それを投げ捨てての告白に、駄目だと思うネガティブな気持ちと、その奥底に小さくある甘く淡い期待を胸に、彼女の答えを聞いた。
「ごめんなさい」
そういって深々と頭を下げる葵さん。
「……こちらこそ、こんな我儘に付き合ってもらって。有難うございます」
落胆した気持ちを何とか抑え、もう一度お礼を言う。
「本当に、有難うございます……」
言葉とともに深々と頭を下げる。
鏡を見なくてもわかる。今の自分の顔は能面のような、感情をごっそり削ぎとした顔をしているのだろう。こんな顔とても見せられない。
下げた頭の上に、くしゃくしゃと優しく温かな手で撫でてくれた。
「顔を上げて」
優しい声に促されるまま、顔を上げる。
涙を拭い彼女は微笑む。
「正直まだまだ心配だけどね。さっきのも、今のも。もっと自分の気持ちをぶつけていいのよ」
「さっき?」
「私が涙した理由考えてたでしょ?」
葵さんの指摘に思わずハッとさせられた。
「それに有難うなんて、駄目だよ」
「駄目……?」
「男の子だって、泣きたいときは泣いてもいいんだよ。それは全然恥ずかしい事じゃない」
「私は泣きすぎなんだけど」とおどけて言う。
「今度はもっと自分の気持ちを優先して。そうすれば、君はもっと素敵になれる」
そう言って優しく微笑む姿は、俺の一番好きな笑顔だった。
「そう、ですかね」
「勿論。だからこれからはもっと自分に正直に! もっと自分を大切にして、ね」
「……はい」
「これが最後の授業」
「……」
「なんだか。また泣きそうになるから、もう行くね」
そう言って外へと続く扉へ歩いていく葵。
「じゃあ……さよなら」
「はい……さよなら、です」
ドアノブに手をかける。
一瞬のタメの後、ガチャリと景気よく開かれた扉の先へ、凛とした姿勢で前を向いて立ち去っていった……。
誇りたくなる。
こんな素敵な人と出会えたことが。
生涯でもう二度と会えない。出逢えたことが奇跡のような人。
二度と、会えない……。
「……まっわかってたことなんだけどさ。最初から清算のつもりで来たんだし」
嘆息を漏らしつつ、思う所を口にする。
どうせ誰も見てないなら、思い切って愚痴りまくろう。
「むしろここは、自分の気持ちを伝えたことが大事だろ。よくやったよ。昔の自分だと考えられないことだぜ」
本当に自分は変わったと思う。
葵さんとの出会いが全てを変えてくれたんだ。
拳を固めながら、自分は大丈夫だとひたすら言い聞かせる。
ゴツゴツと足音を立て扉の前へ。
大丈夫。ここまで来てまだ頬が濡れている感じはしない。
「それも今日で終わり。この扉を開ければ、本当に終わり」
ここを出るときは笑顔でいようと、ここへ来る前から決めていた。
ドアノブに手をかけると突然、ぶわりと気持ちがこみ上げてくる。
まずい! ……また泣きそうになった。
「大丈夫。大丈夫、大丈夫」
先にこの扉を開けて立ち去っていった彼女の背中を思い出す。
何気ない一連の動作でも、どきりと心を高鳴らせる凛々しい姿。
結局最後まで葵さんのことを考えてる自分に苦笑する。
「……よしっ!」
ガチャリと扉を開けて、一歩踏み出す。
眩しく差し込む太陽に一瞬目を顰める。
「うわっ眩しい……!」
結局笑って出ていくことが出来なかった自分に、「締まらないな」と口にした。
まだまだ葵さんに追い付くのは遠いようだ。
例えもう会うことがないとしても、俺の目標は何時だって折原葵なのだから……。
ここまで読んでくださってありがとうございます。