◆3
余計な気を使わないようにという配慮から、豊秋は僕を客室ではなくて自室に泊めてくれていた。
そこは旅館本館と渡り廊下で繋がった二間続きの〝離れ〟だ。
廊下側に細長い坪庭があって、高い漆喰の塀で囲ってある。
塀の向こうは駐車場だ。反対、座敷側の窓からは海が望めた。
実際、〈月白荘〉の全ての客室からは海が眺められたが。
のんびりと大浴場に浸って、戻ると豊秋が居間代わりにしている一室に目を剥くほど豪勢な夕食の膳が用意されていた。どの皿にも海の幸、山の幸が満載だ。
昨日は卒業以来の再会を祝して島内屈指という寿司屋へ連れ出されたので豊秋の旅館で食べる夕食は今回が初めてだった。
「まあ、信用貸しってことで」
豊秋は笑って、
「いずれおまえが、晴れて教師になった暁には──さぞや教え子をごっそり率いて我が〈月白荘〉に赴いてくださるだろうから」
「おう! 期待しといてくれ!」
ところが、僕が箸を持った途端、豊秋は腰を上げた。
「悪いけど先に一人でやっててくれ。ちょっと野暮用があって……すぐ戻るよ」
勿論、僕の方は一向に構わなかった。
おまけに豊秋は去り際、こうも言ってくれた。
「良かったら、僕の分も食っちまっていいぜ。僕は食い飽きてるんだ」
すぐ戻ると言ったくせに豊秋は中々帰って来なかった。
僕は素直に二人分の夕食を平らげ、添えられていた地酒も二人分、全部飲み干して……
元々酒はさほど強くなかったせいもあって、ついウトウトしてしまったらしい。
目が醒めると九時前だった。
「いけないっ!」
夏波ちゃんとの約束を忘れてた……!
僕は慌てて飛び起きた。
特設盆踊り会場の場所はすぐわかった。
旅館から五分ばかり歩いた処。
県道沿いの区役所前の広場に、朝、夏波ちゃんが言っていた通り櫓が設けられていて色とりどりの提灯が揺れていた。
所々篝火も燃やされていて、そのせいか逆に炎の届かない部分は墨を流したように闇が濃かった。
潮の香りが日中より強く感じられる。
盆踊りの見物人は僕が予想していたより遥かに多かった。四、五十人はいるだろうか?
全員が観光客ではないのだろう。きっと家族や友人、恋人を見に来た地元の人たちも混じっているに違いない。
装束を調えた踊り手は二十人。その輪の中で、夏波ちゃんはすぐわかった。
藍地に白い桔梗の柄の浴衣が、そう。今風のカラフルな浴衣じゃないところが、またらしかった。
伝統の半月型の笠を深く被って、顔はほとんど影に覆われていたけれど、形の良い唇がくっきりと浮き上がって見えた。
夏波ちゃんはその可愛らしい唇を一文字にキュッと結んで踊っている。
僕は遠くからじっくりと観察した。
硬い地面を蹴る桐の下駄に紅い花緒。
僕は今朝、盗み見た少女の小さなピンク色の爪のことを思い出した。
鶸色の帯の上に背負った、島のこの地域独特の小道具も何のその、軽々と身を翻して廻る。
その瞬間を捉えて、僕は片手を振って彼女に合図を送った。
── ちゃんと来たぜ、夏波ちゃん! さっきからずっと君のこと見てるんだよ!
夏波ちゃんは気づいたらしく、口の端をちょっと上げて微笑み返してくれた。
おけさ踊りの所作は〈波〉を表現していると聞いた憶えがある。
少女の繰り出す波に僕は酔いしれた。
あの波頭……揺蕩い、盛り上がり、零れ散る、指先の爪も足のそれと同じピンク色なのかな?
そう言えば──
あのピンクはヒメオドリコソウの色でもある。
姫踊り子草、英名は、確か〝赤い血を流す死者の花〟……
あんな花びらのような波になら、浚われても、言わんや、溺死したって、僕は全然構わないけどな。
篝火の炎の輪の中に入ったり、暗い影の部分に出たりしながら、夏波ちゃんは踊り続けた。
もっと夜が更けて、とうとうイベントがお開きになるまで、僕はその場を離れず、心行くまで楽しい時間を過ごしたのだった。
翌朝、本間豊秋の死骸を見つけたのは僕だった。
その日も、目が醒めるとすぐ僕は散歩に出た。
昨夜は盆踊りから帰ると夕食の膳はとうに下げられていて、奥の方の部屋に僕用の客布団が敷かれていた。僕はそこに潜り込んで爆睡した。
もう片方の部屋に豊秋の布団も敷いてあったことや、朝、僕が起きた時──六時過ぎだった──やはり布団はそのままで豊秋の姿が見えなかったこと等……気づいてはいたが別段これといって気に止めなかった。
それで、その朝も僕は一人、足の向くまま近隣一帯を散策した。
朝食に戻ろうと踵を返した時、それを発見したのだ。
そこは海を眼下にした遊歩道で片側は断崖だった。
斜面にはびっしりと木々が生い茂って、真下の海に合図を送るようにサワサワ揺れている。
海の方では波達がそれに答えてキラキラ瞬いていた。
そんな風に、早朝の光が辺り一面あますことなく降り注いで、それはそれは美しい世界だったのに。
まさにそこ、その美しい風景の真ん中に豊秋は倒れていた……!
僕の友人は断崖の斜面に足を上にして折れ曲がって引っ掛かっていた。
頭が潰れて、大量の血が流れ出ていた。
その血のほとんどは地面に染み込み、残りは既に乾いて彼の周りで固まっていた。
瞬間、僕は頭を仰け反らせて上の方を仰ぎ見た。その辺りから転げ落ちたのだろうと咄嗟に見当をつけたのだ。
豊秋の体には崖を転がったために突き刺さったと思われる小枝が数本突き刺さっていた。
果たして──
もっと高い所、断崖の上にも細い遊歩道が巡っているのが見えた。
そして、その遊歩道の更に上に、真っ青な島の空が見えた。
それらを今一度、一つ一つ確認した後で、僕は全速力で〈月白荘〉へ駆け戻った。