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初夏というには幾分肌寒い裏日本の六月の早朝に、薄桃色のノースリーブのブラウスと濃紺の膝丈スカート。花を摘むたびに真っ直ぐな赤茶の髪が揺れて剥き出しの二の腕に零れる。
「夏波ちゃん!」
僕は少女の名を呼んだ。
「何してるんだい、そんなとこで?」
昨日、豊秋が紹介してくれた。
── 妹だよ。
その際、僕はお決まりの挨拶で応じたが。
── こんな可愛い妹がいるなんて知らなかったぞっ!
台詞の方は月並みでも感動は本物だった。
豊秋ときたら、在学中、島の美しい草花のことはやたらと口にしたくせに、美しい妹のことは一言だって言及しなかった。
昨夜もその点を突くと豊秋は目を伏せて困ったように微笑んだ。
その姿がまた、隣りで首を傾げて笑っている妹とよく似ていた。
「何やってるかって? 見た通りよ」
夏波ちゃんは手を止めず花を手折り続けている。
彼女の立っている夏草の周りはちぎれた花の残骸でいっぱいだった。
「私がこれをすると年寄り連中が物凄く嫌がるのよ。『忌み花を摘むと祟りがある』って」
夏波ちゃんは高校三年生。
その少々子供じみた犯罪に僕は微笑まずにはいられなかった。
「キツネノカミソリかぁ。それ、根が食用になるんだよ。飢饉の時の最後の頼み、ってね。だから、絶対に根絶やしさせないために──君みたいな悪戯っ子に手を出させないために、わざと恐ろしげな言い伝えをくっつけたのさ」
少女は吃驚してパッと顔を上げた。
赤い髪が弾けて、蕾が開くみたいだった。
「そうなの?」
「アレ、知らなかった? 兄さんは教えてくれなかったのか?」
僕同様、野草マニアの兄さんが?
夏波ちゃんは手についていたキツネノカミソリを振って落とした。すると復讐のように花びらは少女の、ミュールを引っ掛けた素足の足の甲にピタリと貼り付いた。
「兄さんは何も言わないわよ。いつだって、何処でだって。ただ、困ったように笑ってるだけ」
夏波ちゃんが舗道へ出て来るのを待って、僕は並んで歩き出した。
「兄さんはどうしたの? 一緒だったんでしょ? 海へ突き落とした?」
「アハハハ……」
僕は声を立てて笑った。
「まさか。信彦さんとか言う人と岬で話をしている」
「そうだ!」
少女ときたらもう他の話を始めていた。
「今日は土曜だから、夜、盆踊りのイベントがあるわよ。ねえ、宇人さんも見に来る?」
盆踊りにはいくらなんでも時期尚早だろうと僕が驚くと夏波ちゃんは首を振って、
「ううん。ちょっと早めに来すぎた観光客へのサービスに数年前からやってるのよ。GWからは週末なら島内中、各地域の盆踊りを見ることができるの」
それから、秘密を打ち明けるみたいに声を潜めた。
「実を言うとね」
剥き出しのほっそりした腕を腰の後ろで交差させる。
「私も毎回借り出されてるの。ねえ、ぜひ見に来てよ。町役場前の広場で七時半から始まるわ。提灯と篝火だけでムード満点! おまけに──」
ここでいったん息を継いだ。
「この地域の盆踊りは島内でも一番ユニークなんだから、絶対見る値打ちはあるわよ!」
「ああ、それなら豊秋に聞いたよ。有名な例のおけさ笠の他に……何やら特殊装備があるんだって?」
ぜひ行くよ、と僕は約束した。
本当のところ、特別の装束なんてなくっても、彼女の浴衣姿だけで僕には十分だったのだ。
豊秋の継いだ〈月白荘〉は海を背にして建つこじんまりして風雅な、昔風の旅館だ。
僕と夏波ちゃんは玄関前の駐車場で別れた。
彼女は手伝いがあると言って裏の勝手口の方へ小走りに去ってしまった。
その前に、僕は素早く腰を屈めて、ずっと少女にくっついてきた赤い花の残骸を摘まみ上げた。
その際見た少女の足の爪はブラウスの色と同じ薄桃色だった。
朝食をすますと、早速、豊秋は車で彼推薦の秘密の観光スポットを案内してくれた。
まず、何を置いても、と向かったのが海抜四五〇メートルの山腹にある〈杉池)だ。
コナラ、ミズナラ、ヤマモミジ、エゾイタや、ハウチワカエデ……
二メートル級の広葉樹林に周りを囲まれた自然湧水池だ。
「……池周辺の原始林は三百本を超え、自生する植物も三百種を下らない」
と、豊秋。
こんな場所が日本にあるのか、と言うくらい神秘的な異空間だった。
池は、誰かに肘を掴んでいてもらわないと吸い込まれそうな気分になる、深くて濃いエメラルドグリーン。
「先月までミズバショウとユキツバキが群生してたんだ。ちょっと間に合わなかったな。それでも、ひょっとしたら早咲きのギンリョウソウは見つかるかと期待したんだが……」
「え? それが咲くのか、ここ?」
「ああ。六月から九月くらいまで。この池のコナラとミズナラの林床に大群生してる」
ギンリョウソウはユウレイソウとも言う。希少な菌根植物だ。
光合成をしないから葉も緑色にならず純白の鱗片状。茎も純白。
その茎の先に下向きに白銀色の釣鐘形の花を一個つける。
全形が〝小さな龍〟に似ているのでギンリョウソウ=銀龍草というわけ。
僕は写真でしか知らないが、幻のような、騙されているような、摩訶不思議な植物なのだ。
見られなくて、本当、残念だった。
天平年間(764)には完成していたという〈国分寺〉は礎石ばかりが残っていた。
とはいえ、平安前期の作と伝わる薬師坐像を安置する茅葺き屋根の〈瑠璃堂〉は独特の雰囲気をたたえて印象的だった。
隣接する〈妙宣寺〉の県下唯一と言う五重塔に感嘆した後、〈清水寺〉へ。
「面白いなあ!」
「言うと思った」
と、豊秋は笑う。兄さんはいつも笑っているだけ、か。
夏波ちゃんは学校があって一緒に来れなかったことを僕はこの時、心底残念に思った。
「せいすいじだぜ。清水寺じゃない。面白いだろ?」
そう、ここは紛うことなくあの有名な古都、京都の〈清水寺〉のミニチュア版なのだ。
樹齢四〇〇年の杉の巨木の間にあって、本家同様、飛び降りたら首の骨を折ること間違いなしの〝舞台〟まである。
交通機関が現在ほど発達していなかった遥か昔、島の人々の都への憧憬──言い換えれば、文化への渇望──がどれほどのものだったか、ひしひしと伝わってくる。
「でも、こっちの<清水寺>の方が……いいよ! 素朴で、ワイルドでさ」
仁王門に立って、山門へと伸びている長く真っ直ぐな石段を眺めながら僕は心からそう言った。
「特に冬が」
と、豊秋。
「雪に埋まってる頃が一段といいんだ。凄まじくってさ」
「!」
僕は、今の今まで、雪は柔らかくって静かなものだと思っていたのだが。
流石、雪国育ちならではの雪の表現だ。
「明日は〈梨の木地蔵〉へ行ってみよう」
帰路の車の中で豊秋は言った。
「あそこも変わってるぞ。またまた吃驚すること間違いない。乞うご期待さ……!」