◆1
見晴かす一面の橙色だった。
あとは青。たった二色の世界。
橙色はシマユリの群生で、青は海だ。
僕は息を飲んで立ち尽くしていた。
まだ早い時間だったので、一瞬、錯覚したほどだ。
今朝の日の出の太陽がそこら一帯に染み付いてしまったんじゃないか、と。
そのくらい圧倒的で美しい光景だった。
「な?」
呆けて突っ立つ僕のすぐ横で豊秋が微笑んだ。
「凄いだろ? これを見せたくて……一般的な観光シーズンにはちょっと早いけど、今の時期に招待したんだぞ」
それから、悪戯っぽく付け足した。
「感謝しろよ。持つべきものは友人だろ?」
本当に。
僕もまさにそれを考えてたとこ。持つべきものは、良き友人だよ。
僕たちは日本海はS島の南端にある岬に立っていた。
友人の本間豊秋が僕を誘ってくれたのだ。六月の島は花の盛り。来る気があるなら今を置いて他にはないぜ。
僕はと言うと、本来ならマトモな旅行などできる身分じゃなかった。
この春、大学を卒業したものの──僕には定職がなかった。
教師になる予定だったのだが、見事に地元の教職試験に落っこちたのだ。
そう言うわけで、僕は就職をもう一年先に延ばして、今年は勉強とバイトと、それから、少しばかりの実家からの援助でやって行こうと決めた。
豊秋から招待のメールが届いたのは六月半ば。
僕の住む首都には鬱陶しい梅雨の雨が降り続いていた。
豊秋と僕はW大学入学以来の友人だ。
どちらも文学部。しかもサークルが一緒だったから──趣味が同じだったのだ。
僕たちは〈山歩き同好会〉に所属していた。
〈山岳部〉などというハードなやつじゃないよ。自然にも体にも優しい、あくまでも山歩き専門。
そして、何より、僕も豊秋も無類の野草マニアだった。
S島出身の豊秋はしょっちゅう故郷の話をしては、そこに咲く、珍しくて美しい草花について僕を死ぬほど羨ましがらせて来た。
「僕がさ、野草に興味を持ったその始まりは、小学3年の時、シラネアオイを見てからだ……」
出会って間なしの頃、大学のカフェテリアで豊秋から聞いた話が僕は忘れられない。
「シラネアオイだって? 本物を見たのか?」
僕は興奮して、思わず厚紙のコーヒーカップを噛みちぎるところだった。
「勿論。尤も、その時、その名を知ってたわけじゃないけどな」
シラネアオイは清冽なピンク色の、それはそれは優美な花だ。縮緬のような柔らかい葉を持つ。
「ちょうど春休みだったな」
豊秋は教えてくれた。
「僕は虫籠を下げてブナ林を走り回ってた。その頃はどっちかって言うと花よりも虫に夢中だったのさ。
で、偶然、ブナの根元に咲いているその花を見つけたんだよ」
揺れる花びらが蝶々のように見えたそうだ。それで、反射的に摘み取ろうと、虫取り網を持ち替えて右手を伸ばした時、後ろで声がした。
── 七五〇〇万年……!
「何のことはない。声の主は一緒に来てた親父だったんだけど。
親父は、別段、僕を制すわけでもなくただニコニコ笑って繰り返したんだ」
── 七五〇〇万年……!
「『何さ、それ、父さん?』僕が尋ねると親父は澄まして答えた。『その花の歳だよ』
僕は笑ったね。『こんな弱っちい花があ? まぁた、嘘言ってらあ!』……」
だが、高校の生物教師だった豊秋の父の言葉に嘘はなかった。
シラネアオイ(栃木県の白根山に多く、花がタチアオイに似ているためこの名がある)は、
日本固有種で一科一属一種。
日本の植物のほとんどが列島誕生後の二五〇〇万年前に生まれ、分化発達したことを考えると、このシラネアオイ属は破格に古い時代、遥か古第三紀初めの七五〇〇万年前に誕生した。
彼等は七五〇〇万年という気の遠くなるような時間の中で、多くの種を分かち、栄え、そして、そのほとんどが滅亡した。
現在、地球上で日本、しかも、日本海側のブナ林床という特殊な立地にのみ生き残った〈遺存種・固有種〉……
一科一属とは、つまりそういう意味を持つ。
── だが、どうだい? 〝生き残り〟などという言葉は儚すぎてこの花には似合わないな?
豊秋の父は笑いながら言ったという。
── 私なんか七五〇〇万年生き続けた、自信と誇り……『どうだ!』ってカンジに見えるぞ。
今春、大学卒業と同時に豊秋は島へ帰って行った。
彼の父は、シラネアオイを一緒に見てからほどなく亡くなったそうだ。
二人してブナ林を歩いた時、既に末期の肺癌だったことを豊明は後で知ったとか。
自然が好きだった父のことだ、最期に息子と山歩きをしたかったんだろう、と豊秋は微苦笑して言った。
実は、母親も彼が物心つく以前に他界したそうで、父の死後、子供のなかった親戚に後継として養子に入った。
そういう事情もあって学業を終えるとすぐ家業の旅館を継ぐべく、年老いた養父母の待つ故郷へ戻って行ったのだ。
とはいえ、僕のことは忘れなかったと見えて、島での生活が落ち着くとすぐ連絡をくれた。
《 本当に忙しくなる真夏のかきいれ時前に来いよ。
実は六月の島は一番の花の季節。
野草好きには、七月、八月より断然嬉しいはず。
どっちにとっても好都合だろ? 》
と言うわけで、僕はスポーツバッグに最低限の衣類を押し込むと一週間の予定ですっ飛んで来た。
昨日、昼過ぎ、新幹線でN市についた時、こちら側も雨が降っていた。
雨は群青色の日本海にも降り注いでいた。
けれど、海は夏凪でほとんど波はなく、カーフェリーの旅はとても快適だった。
そして、今朝は真っ青に晴れて、この橙色のシマユリのお花畑だ……!
「〈伝承〉はかくも不思議な結果をもたらす」
豊秋は腕を組むと感慨深げに息を吐いた。
「この辺りでは代々シマユリは海神様の花と言い伝えられていて──この花を摘むと海神様が怒って海が荒れるってさ! だから、漁師町のここら一帯、何十年、いや、何百年も、誰もこの花を手折らなかった。結果、岬を覆うこんな見事な群生となった……」
「同じ黄色なら、俺はヨーラメの方が好きだな」
真後ろから聞こえた野太い声にハッとして振り向く。
僕たち二人だけだと思っていたのに、いつの間にかもう一人花の中に男が立っていた。
年齢は僕たちと同じくらい。だが、体つきが違う。
黒いTシャツから突き出した筋肉隆々のたくましい腕。そして、その肌の色ときたら──
赤銅色とはこういう色だったのか!
「信彦……」
豊秋がすぐ紹介してくれた。
「我山信彦と言って、僕の幼馴染なんだ。祖父の代からずっとうちの旅館の釣り船も出してもらってる」
「ヨーラメの花はもう見ましたか?」
信彦は豊秋ではなく僕の方を見て話した。
「北の海岸……大野亀の辺りは大群生地だ」
「あ、いえ、そっちはまだ。昨日、着いたばかりなんです」
「あっちもちょうど今が盛りだ。俺はこっち、シマユリよりヨーラメの方が好きだな」
「そりゃ、おまえが漁師だからだろ?」
豊秋はクスクス笑って説明してくれた。
「ヨーラメって言っても島の人間でないとわからないよな? カンゾウの一種なんだ。島の方言で〝魚孕み花〟が訛ってヨーラメになったらしい。それが咲くちょうど今頃、磯には卵を孕んだ魚が産卵にやって来る。要するに、豊漁を呼ぶ花なんだよ」
「ヘ──っ!」
僕は素直に感嘆の声を漏らした。
信彦は口を引き結んだまま、漸く豊秋の方へ顔を向けた。
「話がある」
その深刻そうな表情を豊秋も気づいた。
「あ、じゃ、僕はブラブラこの辺を散歩して一人で帰るから」
二人を岬に残して僕はその場を離れた。
岩の斜面を登りながら、途中、一度だけ振り返ると、橙色の野に真っ黒い頭と、やや赤茶けた頭が二つ不思議な種子のように浮き上がって見えた。
二人は何やら真剣に話し込んでいた。
岬から離れて舗装道路に出た。
僕が厄介になっている豊秋の旅館まで距離にして二キロ位だ。朝の散歩にはちょうどいい。
僕はゆっくり歩き始めた。
が、すぐ足を止めた。
アスファルトの道の端で真っ赤な花をポキポキ手折っている少女がいた。