道
雨は僕を憂鬱にさせる。
だから梅雨の季節は嫌いだ。一年を季節ごとに四等分して、ちょうど春と夏の境の辺り、中途半端な季節。それでも梅雨は必ずやってくる。なんの為に? 僕を憂鬱にさせる為にだ。天にいる神様って奴は、少々意地が悪いらしい。
そんなことをぼんやり考えていると後ろから強く肩を押された。思わずよろけると、ブヒヒっと笑い声が聞こえる。振り返ってみると嫌な笑いを浮かべたブタくんが立っていた。相変わらず僕にはよくわからない高級な匂いのする服で全身をビシッと固めている。
「やあ、ええっと、」
「そんなところに突っ立ってるんじゃねーよ、邪魔だ」
「ああ、ごめんごめん」
どうやら僕はいつの間にか道の真ん中に立っていたらしい。そもそも、いつの間に僕は外に出たんだろうか。この季節は雨の匂いに酔ってすぐに記憶を失くしてしまうから大変だ。慌ててブタくんの前から退くと、ブタくんは鼻を鳴らした。そして馬鹿にしたような目で僕を一瞥したあと、さっさと道を進んで行ってしまった。
「ところで、あれはどこのブタくんだったんだろう」
「僕が初めて結婚式にお呼ばれした所の子供だよ。ブタくんは大きくなるのが早いね」
足元から声がしたので下を見てみるとモグラくんが立っていた。モグラくんは小さくて、僕の腰までしか身長がない。
「やあ、モグラくんか。ブタくんは他の皆より見分けがつかなくてね。流石にオスかメスかぐらいはわかるんだけど」
「僕もブタなんて見分けられないさ。ついでに言うと、君も僕が知ってる君なのかイマイチわからない」
「みんな同じに見えるものね」
ははは、と僕が笑うとモグラくんも笑った。モグラくんの開いてるのか開いてないのかよくわからない目が僕をじっと見ている気がする。なんだろう?
「ああ、でも一つだけ」
「なんだい?」
「君は雨がとっても好き?」
「嫌いだよ」
にこりと笑うと、モグラくんも笑った。
「ああ、僕の知らない君だ」
「どうやらそのようだね」
それからしばらくモグラくんは僕と話をして、やがて道を進んでいった。その時モグラくんに一緒に行かないかと誘われたけど、僕はなんとなく断った。どうして僕はモグラくんと行かないんだろう? 考えたけれど、答えは出なかった。
僕がまたぼんやりと考え事をしていると、今度は女の子がやってきた。すらりとしたキレイな色白の女の子だ。彼女は道の真ん中に立っている僕を見ると、ぎょっとしたような顔をした。細い手に水を垂らしている傘を持っている。僕の嫌いな雨の匂いがした。
「やあ。雨でも降っていたのかい?」
「……ええ、そうなの」
「雨に降られるなんて、君はとても可哀そうな人だね。僕は考えただけでもぞっとするよ。もしかして今は梅雨の季節なのかい?」
「そうよ」
「ああ、なんてことだ!」
憎らしい雨、それも梅雨の季節! 恐ろしさのあまりぶるりと身体が震える。女の子は手元の傘を見て不思議そうな顔をした。
「あなたって、変わってるのね。そんなに雨が怖いかしら?」
「怖いよ、とても。雨って聞いただけで身体がむずむずするんだ」
「それって興奮してるんじゃないの?」
「まさか。雨が降ると僕は記憶を失くしてしまうほど混乱するんだよ」
そう言うと、女の子はくすくすと笑った。
「あなたが雨を嫌いだなんて、お祖母ちゃんに教えたらきっと驚くわ」
「お祖母ちゃん?」
「ええ、あなたがとっても大好きなのよ。って、ああそう、私ったらお祖母ちゃんにお遣いを頼まれてる最中だったのに!」
女の子が慌てた様子で叫ぶので、僕はにこりと笑った。
「それならこの道を戻るといいよ。君が進むには、まだ少し早いらしい。それに君からは、僕の嫌いな雨の匂いがするしね」
「あら、そうなの。でもあなたは?」
「僕?」
僕が首を傾げると、真似をして女の子も首を傾げた。
「ええそうよ。だってあなたは進むことも戻ることもしないみたいじゃない」
「ああ……」
どうしてだっけ。少し前にも考えた事をぼんやりと思い返していると、女の子が心配そうな顔をした。……雨の匂いがするなあ。そればかりが気になる。土に混じった水の匂い。僕はいつからこの匂いが嫌いになったんだろう? そう思った途端、緑色がぱっと頭に浮かんだ。僕はこの緑を待っている、そんな気がする。
「僕はここで待ってるんだ。だから僕のことはいいよ、君は大好きなお祖母ちゃんの所へお帰り」
「……本当?」
「僕は嘘も嫌いなんだよ」
女の子は何度も僕を振り返ったけれど、結局道を引き返して行った。僕は誰を待ってるんだ? ふいに浮かんだ緑色はもうすっかりぼやけて、それがなんなのかは結局思い出せなかった。
それにしても、今日はやけに来客が多い。いつもはもっと静かなのに。いつも? いつもっていつだ、それより僕はどうしてここにいるんだろう? ここはどこだ? モグラくんや豚くんが進んでいった方も、女の子が引き返して行った方も先が長くてよく見えない。ただひたすらの一本道。それ以外はなにもない。変な場所だ。
ぼうっと上を見ているとまた誰かが来たようだった。少し古臭いワンピースを着て、頭に大きなリボンをつけている。それはカエルの少女だった。僕は憂鬱な気分になった。僕はカエルが嫌いなのだ。だってあいつらは雨の匂いが強すぎて、僕が酔ってしまう。
「……やあ」
僕が気力を振り絞って声をかけると、彼女は僕をまじまじと見つめた。白いワンピース、大きな赤いリボン、それに緑。なんだか懐かしい気がした。
「……迎えに、きてくれたの?」
「え?」
僕が聞き返すと、彼女は寂しそうに笑った。
「いやね、忘れちゃったの? あまりに長い間、あなたを一人ぼっちにさせてしまったから」
なんのことだか、僕にはさっぱりわからなかった。
「僕を知ってるの?」
「ええ、ずっと昔から」
「もしかして、雨の日に会ったのかな」
「ええ」
「じゃあ僕にはわからないや、ごめんね」
雨の日に会った人を覚えていることはできない。変な気分になって記憶が失くなってしまうから。僕が謝ると、彼女はにっこり嬉しそうに笑った。
「知ってるわ、あなただけだもの。雨が嫌いなカエルなんて」
「カエルは君だろ?」
「そうよ。でもあなたもカエル。やだ、それも忘れちゃってたの?」
おかしそうに笑う彼女に嘘を言っている様子はない。冗談でもないらしい。僕が無言でいると、よく自分を見てご覧なさいと言われた。……確かに緑色だ。ということは、僕はカエルだったのか。もうずっと、わざわざ自分の体を見ることなんてしてなかったから何も気付かなかった。カエル、カエルか。僕が嫌いなカエル。なんだか嫌だなあ。
「それはあんまり思い出したくなかったかもしれない」
「まあ」
堪え切れないといったようにカエルの少女はくすくすと笑いだした。なんだか複雑な気分だ。彼女はしばらく笑っていたけど、やがてそれを収めると僕に手を差し伸べてきた。
「ねえ、一緒に行かない? あなたが忘れてしまったこと、私が全部お話してあげるから」
「それは少し怖いね。でも、どこへ?」
「もちろん決まってるわ」
彼女は優しく微笑んで、先の道を示した。
「なるべくゆっくり歩いて、一緒にいきましょう」
僕はそっと彼女に微笑んだ。なんだろう、彼女からは懐かしい匂いがする。僕は、彼女を待っていたんだろうか? わからないけれど、僕が嫌いな雨の匂いはいつの間にか消えていた。