第五話 兆候
「このお肉柔らかくておいしいですねえ、お母様。お野菜も新鮮で、しゃきしゃきしてて、お豆腐は手作りなんですかあ。木目が細かくて、弾力があってとっても、おいしいです。お漬け物は、やっぱり糠漬けに限りますよね。絶妙な塩加減、お醤油なしでもいけますね。
そして、この卵、お箸で黄身が掴めるなんて、すばらしいです。直営の養鶏所をお使いとは、食にかけるお父様とお母様のプロフェッショナルぶりには感服いたしますです。 お米の炊き加減も良いですね、昔ながらの釜で炊かれているんですよね。お米のひとつぶひとつぶがふっくらしていて、すき焼きのおつゆと溶き卵とまざりあって、お口の中ですばらしいハーモニーになってますう・・・・」
すっかり、うちの食卓になじんで飯をくらう黄泉がいた。一ヶ月前、爺ちゃんが門下生を、家に住み込みさせるからと、二階の俺の部屋の裏の倉庫を改築して部屋を作り、住まわせていたのは知ってた。しかし、その同居人が、黄泉だったとは。俺の部屋からも、廊下からもその部屋へ行く戸はついていて、更にその別の出入り口が壁側についているが、爺ちゃんから、門下生には「迷惑をかけるな!」と部屋への入出を堅く禁じられていた。そんな状況で、一ヶ月。見慣れる門下生は、家の中はおろか、道場でさえ、その姿を見かけることはなかった。
黄泉が我が家の食卓に現れたのは今夜が初めてだった。裏口から入って服を着替えての登場だった。水色のワンピース、髪は赤いリボンで結ってある。そして、あの勝負下着。生白いうなじはもう、鼻息もののなまめかしさがある。しかも、あのリキュールのようなほのかに甘い香りがさっきよりも強い。なんちゅう幸せ。だが、油断は禁物だった。突然、脳天に激痛が走り、目に火花が飛んだ。
「こら、健児。何、わしの黄泉ちゃんに鼻の下、伸ばしとるか!男ならしゃんとせい!」
黄泉ちゃん、すまんなあ。こんな愚息だが、こき使ってやってくれな」
「健児はアホやけど、体力だけは人一倍あるんよ。健児、あんたも二階級特進するくらいの気持ちで、仕事にあたんなさい」
「でもさあ、健児と一緒にいたら、貞操の危機とかやばいんじゃねー。こいつ本当に体力バカだから」
「大丈夫じゃ。こいつヘタレじゃけん。そんなことはできんさ。未だに、お隣のマユちゃんと、ちゅーの一つもしとらんのじゃそうじゃ」
「じゃあ、心配しなくても大丈夫だ、わははは・・・」
爺ちゃん、父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん、あんたら本当に俺の肉親ですかい。黄泉も笑っている、すごく無邪気な顔をしている。
「おい、健児、黄泉ちゃんの仕事は今日聞いて知っただろう」
爺ちゃんは、急にいつになく真剣になった。父ちゃんや母ちゃん、姉ちゃんまでもが真剣な顔つきで、俺をにらみつけている。俺は、生唾を飲み込んだ。
「わしら一家は、国家安泰の仕事に従事しとることをくれぐれも忘れるなよ。黄泉ちゃんの受け入れは家族の総意なんじゃ。おまえは未成年じゃから、外れとったが、今は同意できとるじゃろ」
俺は爺ちゃんの言葉にうなづいた。
「わしら一家は、偶然、剣術や柔術、空手や弓道などをたしなんでいる訳ではないぞ。おまえも十六になったから教えるが、わしら、木村一族はご先祖様の時代から、このような役職についておるのじゃ。おまえの父ちゃんの雅彦は、大衆食堂の父ちゃんの顔の他に、警察や自衛隊への武道指導やっとるじゃろう。姉の愛女は婦人警官や女性の自衛官への武道指導やっとるなあ。おまえの母の清美さんも長刀と合気道の有段者で、市民の集いとかで指導しとるよな。
おまえの兄の裕次郎は、武道があわんとか言って、五年前に家を飛び出していってしまったが、おまえは武道の素質があった。黄泉ちゃんを助けて、見事、勤めを果たせ!いいな、健児!」
爺ちゃんは、母ちゃんからご飯のおかわりを受け取ると、白菜漬けに醤油をたらし、ほ飯にのせてがつがついった。こんな重要な話を飯時にすんなよ、爺ちゃん。
黄泉はすっかり俺の家族に溶け込んでいた。話し方もさっきとはうって変わっていて、非常な運命を背負った陰など微塵も感じさせないほどに明るくて、普通の十六歳の少女だった。それにしても、黄泉からの話が今日あったこと知ってたくせに、竹刀でひぱたくとは。まったく、言っても無駄だとはわかるが、なんか悔しいよ。
飯が終わると俺は道場へ行き、馴染みの木刀で素振りを始めた。クラブ活動に備えた練習ではない、日課であり日々の鍛錬だ。子供の頃から続けている。ちょっと前までは、兄貴と姉貴がいた。もっと前には、もう一人、いや、二人だったろうか、誰かいたのだが記憶が薄らいで思い出せない。
いかん、いかん無心だ。無心で素振りをするんだ。俺は小一時間、ひたすらに素振りに打ち込んだ。いい汗もかき、体もほぐれたところで、井戸で体を拭くことにした。井戸水はひんやりと冷たく、体をひきしめてくれた。
道場の生徒も入る大風呂に入って自分の部屋に戻った頃、何気なく子供の頃の写真に目が行き、手に取って見ることにした。いつもは見流しているのだが、黄泉のことが気にかかっているのか急にしっかり見たくなったのだ。うちの道場にはいろいろな子供たちが毎年、夏合宿にやってくる。その時の記念に写真を撮っているのだが、この写真は、俺が小学三年生頃のものなのだ。なぜ、その時期のものを額縁に入れて机の上に置いているのか自分でもよくわかっていない。この写真には大学生の兄貴と、高校生の姉貴が写っている。そして、前の方には歩くエロ字引のマサと、生ける身体測定器(for女性)、田上がウンコ座りしてやがる。こいつらとは今も腐れ縁で、俺らは守手高校の二年三馬鹿トリオとして有名だ。
そして、俺の後ろはマユと豪田か。この時は身長抜かれてたんだよな。まったく女というより、美少年だよな。兄貴と同じ年くらいのいかしたイケメンは誰なんだか思い出せない。そしてだ、俺の横に立っているきりっとした、いかにも剣道少女という感じの女の子がいるんだが、誰だかさっぱりわからねえ。年下じゃない感じしかわからんときている。黄泉のようにも見えるがさすがにそう言い切れそうなところもある。門下生の名簿とか調べればわかるかもしれないが、あれは爺ちゃんの部屋にあるから簡単には見れない。ああ見えて、門下生のプライバシーの保護にはうるさいんだ。そして、そのいかにも剣道少女な娘の反対側も、これまた女の子だった。育ちが良さげで、いい感じの娘が寄り添っている。俺はまさか、当時モテモテだったのか?
今ではさっぱり記憶が無いのが悲しい。まあ、子供の頃の記憶なんて、あいまいなものだ。これはわたしですよという奴が近くにいないと、例え親しい奴でも時が経てば、顔も声も、思いでも忘れてしまうんだ。
新しい発見も無かったので、俺は写真を机の上に置くと、背中を椅子に預けおもむろに隣を眺めた。隣はマユの家だ。時間は深夜の十時をまわっているが、今日はめずらしく二階のマユの部屋の明かりは消えていた。いつもなら夜の十二時まで勉強しているのだがな。下の居間は明かりがついている、きっと家族でテレビでも見ているのかもしれないな。なにせ今日は部活休みだったのだから、あいつもたまには羽根を伸ばすこともあるさ。
俺は両手を上げて大きく背伸びをした。すると、どこからとも無く、小さな鈴の音がして、窓から「にゃわー」とマヤがやってきた。マヤは、ご主人のマユにはあまり懐かず、俺にはぞっこんだった。椅子に反り返っている俺の胸に飛び乗ると、その顔を俺の顎や頬にこすりつけてくる。
ご主人とは違って、本当に可愛いやつだ。人の年に換算したらもう、三十歳くらいらしいが、子供を七匹も産んで、夜は十六歳の少年に夜這いをかけてくる。なんてな。
こいつの御所望はわかっている。我が家が仕出しに使っている最高級の煮干なんだ。煮干を与えると、さっきまでの俺への関心はどこぞえと行き、まっしぐらに煮干へと向かった。それと、この季節は、うちの二階の屋根上が涼しいんで、ここに来るんだろうとは思う。子猫も多すぎるといって、一匹娘残して、あとは、親戚や友人に里子に出されたんだな。
その娘は、マユの弟と妹が世話してるから、拾い主のひとりでもある、俺のところしょっちゅう、入り浸っているってわけだ。でも、こいつにはゴロというれっきとしたダンナもいるんだなあ。そいつは野良だけどな。だから、今は不倫というわけだが、夫婦円満が一番を知っているのか、煮干を平らげると、さっさと家に戻ってしまった。
それから三十分ほどして、黄泉が部屋に戻りごそごそして、階下へまた降りていった。おそらく風呂にでも入るのだろう。昨日までは裏の出入り口を使っていたが、今日からは部屋の中から出入りしているのが妙に新鮮に思えた。それまでは、おっさんだと思っていたせいか分からないが、今日はいつもより人の存在感を感じるから不思議だった。昨日までの一ヶ月は、物音はするが、およそ年頃の少女が寝泊まりしているようには感じなかった。
俺はこう見えても自他共に認めるスケベな筈なんだが、こうもいい女センサーが働いていないことが不思議でならなかった。やはり任務遂行中ということで、黄泉は極力気配を消していたのだろうか。今日まで俺と顔を合わさなかったのも、任務遂行上の作戦なのだとは思うが。
ガラにもなく考え事したので、眠気が出たので布団に潜り込むことにした。しかし、ふいに黄泉に見せてもらった悪夢の映像が頭をよぎり、例の言葉が俺の頭の中で何度もくり返された。
《末期は枯れ木のように水分もなくなりミイラのように干からび、体重もほとんど無くなってしまうんだぞ。そんなマユの姿をおまえは見たくないだろう》
黄泉が目を赤く腫らして叫んだ顔も思い出された。だが、まだ何もしていない俺にとっては、不安でしょうがなかった。死神が化学組成の気の流れのようなもので、生命エネルギーを吸い取る意志を持った生命体というのは、ぶっ飛びすぎだが、作り話の死神の話よりは、信憑性を感じる。
古より伝わっている死神の話は、科学が発達していない無い時代に不可解なものをわかりやすくする為に編み出されたと思えば、分からないでもない。霊魂が実際にあるかはしならないが、化学物質で人や動物、植物などが影響されることは実際にあるのだし、実態については解明しきれていないものが殆どなんだから。
黄泉は風呂から上がってもまだ下でうちの家族と騒いでいるようだ。笑い声がまだ聞こえる。そういえば、あいつは家族とは離ればなれなんだろうか?死んでも無縁仏として葬られる。ということは、家族とは一切、面会できないってことなのか。何年間も、この先もずっとなんだろうか?それはあまりにもかわいそうだ。
だが、ガキの俺にいったい何が出来るというのか。俺は悩んでもしょうがないことをぶつぶつと悩み続けるうちに眠りについていた。
朝になった。俺は人間時計が正常に働くせいか、目覚ましが鳴るよりも前に目が覚め。目覚ましのスイッチを切るのが日課だった。生理的にあのジリジリっとなる音が耳障りでもあるからだが、こう習慣がついていると案外便利なものである。
俺は短パンとTシャツに着替え、ジョギングに出かけた。すると、家の前でショートパンツにTシャツの黄泉がいた。
「健児くん、おはよう!」
俺は黄泉のカモシカのように美しい足に釘付けになった。しかもショートパンツで、下着もしくは、その奥の秘所が顔をのぞかせてしまうのではないかと思えるほどのきわどさだった。さらにその上はノーブラではないかと思える小さな突起がわずかに山の頂点に見えた。そして、頭は昨晩と同じポニーテールだった。にこっと笑った笑顔には、白い歯が光ったように見えた。まだ、ようやく空が白み始めているとはいえ、家の周囲は薄暗い闇なのに、彼女だけは明るく見えている。昨日以上にうなじが美しい、そして、そして、あのリキュールのようなほのかな甘い香りがたまらない。
どうして、黄泉は俺と出会ったとき、まるでこの世のものとは思えないような奇妙な雰囲気で登場したのだろうか?彼女なりの演出だったのだろうか?
そう言えば一ヶ月も俺と黄泉は壁を境に生活していたことになるのに、物音はすれど”女の子”がいる気配というか感じはないようだった。いや、違う。”人がいる”という感じがしなかったのだ。物音はしていたが、なんと言うのだろうか、息づかいというか何かが違っていたように感じたのだ。まだ、黄泉の部屋が倉庫だったとき、家の者が中に入った時とは明らかに違っていた。
「くおら! 健児!」
姉貴の真空飛び膝蹴りが俺の顔面を直撃した。姉貴といい、爺ちゃんといい、俺をどつく理由は何でもいいから困ったものだ。大人しくしていても、それを理由に一撃が来る。俺はあんたらのサンドバックかつうーんだよ。
「おまえ、何いやらしい視線で黄泉ちゃんのからだを下から上まで舐めまわすように見てんだ。このエロガキが!」
そして、俺の頭を左手で締め付け、右手で握り拳を作り親指の関節でこめかみをうりうり攻撃してきた。しかし、少しばかりの幸せが。姉貴のノーブラの胸が綿一枚を挟んで頬に触れる。お仕置きというよりご褒美のようなプレイだ。俺たち姉弟の拷問プレイにくすくす笑う黄泉。
「おまけに股間もっこりじゃ、黄泉ちゃんも引いちゃうだろうが」
姉貴の十八番のコブラツイストから転じての卍固めに移行するフルコースが来た。道場なら最後はパイルドライバーだが、さすがに外ではそれはなかった。
これが我が姉貴、愛女の朝のウォーミングアップだ。スポーツドリンクを口にしながら片足を縁石に起き、肩にはジャケットを羽織るこの御姿。うちの学校の男子どももあこがれる木村愛女のジョギング姿での降臨だった。写真に撮ってプリントして売れば一枚一万円は堅い代物だ。
毎日見慣れているとはいえ、特に胴着で締め付けてない姉貴の胸は後光ものだ。お御足もまたすばらしい。まったく弟冥利につきるよ。
五時になると一斉に走り出す。掛け声を出したいが近所迷惑も考えようという配慮を最近はするようになった。姉貴を先頭に俺と黄泉が続く。父ちゃんと、母ちゃんは材料の仕込みをやっている。爺ちゃんは門下生兼食堂の従業員達と道場の清掃。その後は朝稽古だ。俺たち若者はとにかく体を鍛えろが、爺ちゃんの教えだ。
いつもなら、マユと、向かいの女子中学生のこのみも加わっているんだが、そういえば、今日はいないな。朝が弱いこのみはともかく、マユが居ないのは珍しい。昨日までは普通に参加してたのに。体調でも崩しているのだろうか、ちょっと心配だ。
あれ、よく考えたら、俺って、女ばかりに囲まれてねーか。これって、天国?学校の男子どもが俺をねたむ理由もなんとなく分かったよ。
「健児くんのお姉さんって、きれいだけど本当に面白いね!うふふ」
走りながら、笑顔の黄泉が俺に話しかける。本当に、昨日とは全然違う、明るさがある。何だったんだ昨日のあの不気味さと、妙なものいいは。まったく、別人じゃねーか。姉貴とは昨晩結構話し込んでたみたいだから、結構、意気投合したのかもしれないな。
久遠寺の境内までは、片道四キロ、入り口の鳥居までは、ちょっとした丘をいくつか超えるだけだが、そこからは百段ある階段を登るのが結構しんどい。本堂は更に百段登るわけだが、早朝トレーニングは下の水飲み場や社務所のある境内までである。
最近はお年寄りにも配慮してすぐ脇には、エスカレータもあるのだが、当然、我々は階段だ。境内の社務所の裏手には室町時代に、高い法力を持った僧侶が悪霊を鎮め封印したといわれる大きな岩が祭られている。それはどこから持ってきたのかも分からないような大きな岩である。なんでも、平安時代に氾濫を起こした武将の何とかの、あ、そうそう、下総正盛が首を刎ねられて、一番怨念の篭った首を当時は神の地だったこの地の地底奥深くに埋め、怨念を沈めたとかいうけど、嘘くせーな。
こういう言い伝えにありがちなのは、もともと石だけがその場所にあって、後から寺を建て、さもそれらしい話を作ったんじゃないかっていつも思うんだが、少なくとも爺ちゃんはそう思っていないようだ。だが、科学の発達した現代では、かけでなしの天変地異でも起こらねば、そんな話、誰も信じないのが普通だ。でも、黄泉はその石を見て、神妙に手を合わせ祈っているようだった。
家に帰り着くと六時だ。シャワーを浴びて飯食ったら補習に行かねばならない。シャワーを出ると、髪をおろした黄泉がいた。昨日は気付かなかったが髪からは薄紫の煙のようなオーラのようなものが出ているように見えた。目は昨日会った時と同じように赤黒く光っていた。
「キミ、レディの前なんだから、前くらい隠せよ!」
そう言って、黄泉はシャワー室から出て行った。また、見られた、今度は全部。しかし、口調がまた戻っていた。ジョギングに行っていた黄泉とは別人だった。なんだか俺は頭が混乱してきた。
食卓に行けば、ポニーテールで元気はつらつに飯をほおばる黄泉がいた。うちの朝食は、ほぼたまごかけご飯だ。卵を気に入った黄泉は、嬉しそうに食べている。自家製の梅干しも気に入ったようだ。
だが、俺は黄泉の服装を見てびっくりした。なんとうちの学園の制服だったのだ。しかも学年章もついていた、二年だった。
「黄泉、お、おまえ、いつからうちの生徒になったんだ」
「あんた、同じ学校に居て知らんの? ださいなー、おまえ」
「いつからって、こちらに来た時からだから、一ヶ月前からよ」
「な、何ーっ! まさに驚天動地だ! 一ヶ月もの間、俺は、こんな、いい香りのする美しい女子が、同じ学年に来たことにまったく気付いていなかったとは! ありえーん。俺のスケベ触手はすっかり衰えたというのか!」
「まあ、知らないのも無理ないんじゃない。健児は下から数えた方が早い体育会系バカだし。黄泉ちゃんは進学コースで特待生だもんね。秀才組の女子は、不細工と決め込んでいるから、転校生来ても興味の対象にならなかったんじゃないかな。
わたしも、高校時代は、そっちの組だったから、アホの男子は眼中に無かったからね」
バカ呼ばわりされるいつもの朝食を終えて俺は、玄関口に立った。「行って来ます」と玄関の戸を開くとそこには我が最愛の友、早瀬真由美がいた。
「ゴメン、健児。今日は寝過ごしちゃってさあ。ジョギングすっぽかしちゃって、明日からまた参加するからさ。それと、このみちゃんは宿題忘れてたらしくて、朝やってたみたいで、残りは学校に行ってやるって、もう出かけちゃったみたいなの」
俺は、マユの顔をまじまじと見てしまった。昨日、黄泉に見せられた映像が頭をよぎった。そう、マユの顔はいつもより、面細くなっていたのだった。
「ま、まじかよ」
「健児、平静を装え」
黄泉は俺のケツの肉をつまみねじった。
「あら、あなたは一組の神平さんかしら、神平小夜さんですよね。この間の学年模試でトップをとられた。すごいなー、わたし、健児と同じ体力バカだから、成績も真ん中くらいなんで、尊敬しますよ。でも、健児の家に住んでらしたんですか?今までお会いしませんでしたね」
「ええ、あたし、健児くんのお爺さんの知り合いの娘で、父子家庭なんです。父が海外赴任する間だけ、こちらにごやっかいになることになって、でも、部屋は別ですよ。最初は離れに住んでたんですけど、母屋の方がいいからって、今はご家族と一緒に生活させていただいているんです」
「そうですか、今後ともよろしくおねがいします。
あ、健児がなんかいやらしいことしてきたら、遠慮無くわたしに言ってください。倍返しでしばいてやりますから!」
鼻息も荒々しく、右手で力瘤を作って見せるマユを見て大声で笑う黄泉。つられてマユも大爆笑した。だー、もー、俺は、強き女性達に一生いびられる人生かよ。
「ほらあ健児、早くしないと補習に遅れるよ。今日はあんたの苦手な中西の英語だよ。あんたのことだから宿題してきてないと思うけど、ノートは見せてあげないからね。それじゃあ、神平さん、また学校でお会いしましょう」
片手でばいばいをして駆け足で、マユは走って行く。俺はマユの後を追おうとしたとき、黄泉はがしっと、俺の右腕をつかんだ。
「健児、わたしは、進学組の特別クラスで、朝の補習はないから早瀬真由美が行った後、結界を張ってこの近辺の霊体変異を調べてみる。今日、明日何かが起きるわけじゃない。予想よりちょっと早かったが、予測範囲内だ。心配するな。おまえはいつも通り、マユと学校へ行け。
それから、神平小夜は、比良坂黄泉のモノグラムだ。学校に入るからにはコードネームはまずかろう。だから偽名を使っているんだ。頭の悪いおまえの為に説明してやったのだ。
そしてだ、健児!学校にいるときは、わたしを神平さんと呼べ、いいな!一応、おまえの家の同居人ということは公開することになるが、まだ親しくはないという関係を周囲に認知させておいた方がいいんだ。いきなり、小夜とか呼ぶなよ!黄泉も当然駄目だぞ、わかったな!」
「今度はいきなり、さん付けかよ。やりにくいなー、てー、おまえ、そのヘアスタイルでも、最初に会った時と変わらないしゃべりじゃないか!」
「キミ! わたしは別にヘアスタイルで口調が変わる訳じゃないぞ。それに、わたしだってなあ、普通の女の子でいたいときもあるんだよ。気にするな、ぐちゃぐちゃ言ってないで、早く行け!」
どうしたことか、俺は急に動けなくなってしまった。いきなり、あんな光景を見ちまったら、腰が抜けたというより、魂が抜けちまったのだ。いったいどうすりゃいいんだ。まごまごしているところにお尻の中から直腸に激痛が走った。
「くおらー、健児、さっさと行かんか!」
痺れを切らした黄泉が、俺のケツの穴につま先蹴りをいれたのだ。まったく、この女、なんちゅうことしでかすんだ。だが、この嗾けに、動かなくなっていた俺の体は、柔軟性を取り戻し、動かせるようになった。今は、とにかく、ハマーと化して突進中のマユを追いかけねばならない。俺は夢中で駆け出した。
しかし、マユのあの顔、あの悪夢の映像通りだった。昨日まではいかばかりかぽっちゃりしてたマユの顔。ちょっとダイエットしたくらいじゃ、あんなに急激に顔は細らない。顔が一番細りにくいことは体育会系の俺はよく知っている。
まずいぞ、まじで、本当に。黄泉、本当に俺はおまえを信じていいんだな。俺は信じるおまえを、そして、俺はやるぞ、やってやるぞ!
だが、まだ何も聞かされていない俺にはやるものが何かわからず、がむしゃらに走るしかなかった。