第十九話 永遠の愛
俺は、たぶん、泉と呼ばれた場所へ歩いているのだろう。正盛の屋敷があった場所は久遠寺だ。あそこからこの方角は苦音埋湖ではないか!
さっきから正盛の心は無というか考えが読めなかった。ただひたすらに山林を下っていく。やがて開けた場所へ出てきた。そこには湖があった。湖のほとりには、女性がひとり立っていた。長い黒髪で、大層艶やかな柄の着物を着ていた。その女性は鼻歌のような言葉では無い美しい声の響きを発していた。その響きに合わせて、湖面は揺らいでいた。
その傍らは鎧を着た武者が一人倒れていた。鎧には見覚えがあった。女武者の巴だ。
「お早いおつきでしたわね」
「巴をどうした」
「心配はいりませぬ。少しばかり、気を吸うただけでございます。半時もすれば動けるようになりまする」
「陽炎、ぬしは、やはり上皇の」
「さようでございます。お前様の妻のふりをしてきたのもこの泉にいる淀みを開放するためでございまする」
「なぜ、子供たちまで殺した。あの子らは、おまえが腹を痛めて生んだ子ではないか」
「はい、お前様に、無理やり孕まされた子供たちでございます。腹にいる頃は、腹を蹴ったり、生まれてくれば、大声で泣き叫んだりと、騒々しい生き物でございましたなあ」
「うぬー。ぬしには人の心は無いのか!」
「残念ながらございませぬ。お前様との十年間の生活は、すべてが座興でした。でも、少しばかり、楽しくもありました。この世の地獄を見てきたこのわたしが、人並みに泣き、笑ったのですから。幼き日に、親を目の前でお前たち侍どもに無残に殺され、その後は、なぐさみものにされ、喜怒哀楽を忘れていたわたしがですよ。
お前様には感謝しなければならぬのかもしれませぬなあ。でも、もっと前にお前様とで会うておったなら、わたしもここまでは堕ちたりしなかっただろうと。
しかし、お前様は変わっておらます。立身出世を願うこの時勢に、公家ではなく、公家に仕える女官を仕事の褒美に嫁にとるなどありえませぬ。
女官は、必ずしも貴族の出ではござらぬのです。お前様に公衆の面前で告白されたときは、死ぬほど恥ずかしゅうございましたが、人生で最高の喜びにございました。
しかし、運命とはかくも残酷なものでございます。わたしの心はあの方の意のまま。逆らうことなどできませぬ。
わたくしとて人の子、目の前で、家族であった者たちを殺されるのは忍びなく、こうして月明かりの中で、泉の動きを見ながら事の次第を感じておりました」
「ぬしは、俺が命をかけて守ると、あれほど言ったのに。なぜあやつをそこまで恐れる」
「恐れる。いえ、恐れているわけではございませぬ。あの方の背後には陰陽師がおりまする。陰陽師は、われら詠御師とは相対する存在ですが、元は同じものでした。われらが使えるものは彼らもまた使えます」
「ちょっと待て、ぬしが詠御師だと。では、ぬしのお伴に京より来て、離れに住まわせていた詠御師は、ぬしの二役だったと申すか」
「さようでございます。彼女を演じる時は、お前様方がお相手。奥方であるわたしがお側におる必要はございませぬから。わたしが奥方として振る舞うときはわたしによく似た替わりの者を離れにおいておきましたから。
女子は化粧ひとつで変わりますゆえ、怪しむ者などおりませんでした」
何という悲劇だ。ことの始まりはわからないが、なんと悲しい者たちなんだ。だが、正盛の心は、徐々に冷静になっている。きっと、正盛はこの女を心から愛しているのだろう。
「ぬしは、その淀みを開放すると申したな。そんなものを開放して何をするつもりだ。詠御であるぬしは言った。
この淀みは死した命の成れの果てであり、この世の生を調律しているとな。こやつらには意思はなく、地上におる生命の本能で動いていると。そんなものを故意に、わしら人間がとき放てば、この世の生命の生き死にの調和が乱れると」
「さようでございます」
「ぬしらは、それを知っておって、どうするつもりなのだ」
「今ごろの季節は、京に向けて風が吹いておりまする。この風にのせて、あれを京へ運べば、人や獣たちの体に異変が起き、争いごとや、飢饉が生じましょうぞ」
「そんなことになれば、都滅ぶぞ」
「滅ぼすのがあのお方の謀らいにございます」
「帝はまだ十歳の子供ではないか。そうか、そういうことか。くだらぬ。権力者の考えることは実ににくだらぬわ」
「はい、さように思います。百年も生きれぬ生き物が、仮初に世の一部の生き物の頂点にたつだけのことに、そこまで大掛かりなことをなさるのです。
そして、その力に抗えぬ、わたしはただのでく人形でございます。わたしに付けられた名前もその如くでございます。さ、お話はこれくらいにして、お前様もお覚悟を決めなさいませ」
陽炎の歌と手招きにより、泉からなにやら紫や赤、青といった煙のようなものが立ち上り、俺を襲ってきた。俺は咄嗟に呼吸を止めようと思った。だが、この体は俺の自由にはならないのだ。もうダメだ。
「呼吸を止めても無駄ですわ。それは、顔や手足からも入っていきますわ」
だが、正盛は陽炎の言葉を聞いても、狼狽えもせず、平然としている。やがて、鼻や口から煙が入って来たようだ。高濃度のアルコールにも似た強烈なものだと感じた。だが、この煙はただ入って来るだけで、正盛の体には何も影響されている様子はなかった。その様子を見て、陽炎は動揺した。
「馬鹿な、これが効かない。お前様はいったい」
「陽炎。そちには教えなんだが、わしら一族は、お前たちと同様に、この泉を先祖代々から受け継ぎ守って来ておったのだ。
だが、わしらは、お前のように、米や野菜の収穫期を予測したり、疫病の被害を食い止めるといった技は持たなんだ。だが、これを体内に宿し、その力を借りて、身体能力を高めることは出来ておったのだ」
陽炎はみるみる落胆していった。
「陽炎。今一度、思い直せ。あやつは、わしが倒す。ぬしは悪くは無い、もう一度、やり直せる。その為なら、俺は武士を捨ててもよいぞ」
「お前様は、本当に馬鹿なお人ですね。あなたの家族と家臣を殺したわたしを憎もうともせず。まだ、情けをおかけになる。どこまで、お人が良いのですか。
わたしはあなた様の寵愛を受けるに値しない女ですよ。むしろ、その傍らに倒れておる巴こそ、あなたにふさわしい女子です。でも、わたくしは、とても嬉しゅうございます。
ですが、仕事に失敗したわたしは、既に咎人。あなたの怨念の気を淀みに含めて京の都へ送ることもかないませんでしたから、いずれ、わたしは用済みとなるでしょう。
もっとも、うまく行ったとしても、わたしは、あの方の捨て駒。あなたの骸を拾いに来る者がわたしも一緒に葬ることでしょう。わたしはここで果てまする。あなたは、その巴を連れてお逃げください。あと、半時もすれば、別の者達がやってきます。
今度はもっと大勢です。いくらあなたでも、防ぎきれないでしょう」
陽炎は、涙を流しながら、小太刀を抜き、刃先を首にあてようとした。その刃を正盛は素手で止めた。手は切れ、血が流れ出した。
「お前様、何を」
「陽炎。俺たちは夫婦だ。お前だけ先に死ぬことは許さぬ。お前の力と、俺の気の力が、あ奴らを倒せるなら、それで本望だ。巴にはすまない事になるが、それで巴を助けることもできようぞ」
正盛は優しく陽炎を抱いた。そして、両頬をに手をあて、顔を見た。とても美しい顔だ。でも、誰かに似ている気がする。いつも見ている人に似ているんだ。姉ちゃん? いや、似ているがもっと似ている人がいる。千代婆ちゃんだ。婆ちゃんの写真だ。髪型が同じとかじゃない、目元のあたりや雰囲気がそっくりなんだ。
そして、陽炎の瞳に映った俺は、なんとなく俺、というか、兄貴とも、父ちゃんや爺ちゃんの若い頃によく似ていた。この二人は俺のご先祖さまなのか?
正盛と陽炎は自然に互いの唇を重ね吸いはじめた。陽炎の口の中からはほのかな酒のような甘い香りが入って来る。とてもいい気持ちだ。黄泉のそれとはまた違っている。そういえば、姉貴、母ちゃんも似たような匂いがしていた気がする。二人とは唇を合わせたことがないが、子供の頃は何の匂いだかわからなかったからなあ。
ふいに俺の体は宙を舞った。奈落へ堕ちているのだ。この泉に水は無かった。すべてあの眩く光る淀みが濃密に満たされていたのだ。
「あなた!」
「陽炎!」
再び目の前は真っ暗になった。さっきの男。思い出したぞ、久遠神社の裏に祀られていた御神体だ。その御神体の地下に封じられているのが下総正盛の首なのだ。朝廷と伴に都を脅かしていた蛮族を成敗したが、その後、朝廷をも脅かす存在となった為、殺された。
その後、その体は分解され日本各地に埋葬だれた。そして、正盛の怨念がもっともこもったとされる首をあの大岩の下に埋めたと書かれていた。
『歴史は常に勝者によって書き換えられてきた』
歴史学、民俗学に精通していた裕次郎兄貴が語り継がれてきた言葉を口癖のように語っていたことを思い出した。
俺が今体験したことが事実なら、下総正盛は、咎人などではなく、英雄だったのだ。平安京は何度か飢饉や暴動に見舞われたが、それが正盛たちの恨みの魂を宿した眩く光る淀みの影響であったかはわからない。
だが、結局は、正盛たちのような武士たちが政治を治め、公家の権力は衰えた。彼らの願いは成就したことになるのかもしれない。




