第一話 黄泉戻師
俺は頭の中が真っ白になった。なんだ、こいつは。この薄気味悪い目は。ええ、悪魔、魔女。いったいどうなっているんだ。
いつの間にか、俺の周囲は得たいの知れない紫や青や赤などドス黒い煙のような気体に包まれていた。夕日は、どこにもない。土手や周囲の建物はある。しかし、土手道を散歩していたり、ジョギングしている人は誰もいなかった。人の気配が何もないのだ。
俺ひとりきり。目の前にいるものは”人の気”を感じない何かだ。こんな肝心な時にも関わらず膀胱にはしょんべんが貯まり、今にも蛇口から吹き出そうだった。
「どうした。何を驚いている」
マユだったそれは俺に話しかけてきた。俺にはそれとしか表現できなかった。それの見た目は”人”だった。それも少女に見えた。
しかし、あの赤黒く光る目、透けるように白い肌、闇のように真っ黒な黒髪をしたそれは、気配は感じてもとても人の感じはしなかった。おまけに、それは肩に何かを背負っていた。弓矢か、いやたぶん、竹刀か木刀の類いだろうと思えた。
「おまえは、いったい何なんだ」
心なしか声が震えてしまっている。剣道の試合なら、どんなに敵いそうもない強敵を目前にしても、全力でつき進めていた俺がなんとしたことだ。
「ふっ、何か? だって」
マユだっやそれは不敵な笑みを浮かべた。
《あたしは、マユ。早瀬真由美だよ》
頭の中で、マユの声がした。だが、それの口は閉じたままだ。そして、薄笑いを浮かべながら、じっと俺を見つめている。
「やめろ、やめろ、きさま、きさま、マユの声を勝手に使うな! やめろ!」
俺は必死にそれに訴えた。怖くて足ががくがくしていのに、それでも俺は訴えた。あいつの、マユの声を勝手に使っているそれが許せなかった。あいつの、あいつの声を勝手に真似やがるそれが憎かった。
「まあ、落ち着けよ。健児くん」
それは、瞬時に俺の眼前へ移動し、デコを人差し指でつんと突いた。俺はみるみる腰の力が抜け、河原の草の上に尻餅をついた。
「驚かしてすまなかった。この通り、謝るよ」
それは急に同学年の女子のように丁寧な言葉を使い、とても深々と頭を下げた。そして、俺のすぐ隣に腰を落とした。
「き、君はいったい、何者なんだ」
俺はそれを君と呼んでいることに気付いた。そう、さっきまではそれとしか言えない不気味さがあったが、今はその気配がまったくなくなっていた。
どこにでもいそうな普通の女子に変わっていたのだ。肌の色も血の気を感じる程の赤みを帯び、唇もピンク色だった。そして、魔物のような赤黒い瞳は、普通の焦げ茶の潤んだ瞳に変わっていた。そして、えもしれないいい香りがした。風呂上がりの石鹸のにおいとも、整髪料や香水の香りとも違っていた。まるで、甘ったるいリキュールのような香りだった。
「申し遅れた、わたしは比良坂黄泉という者だ。黄泉戻師だ」
「黄泉戻師?」
俺は聞き慣れない言葉に戸惑った。
「あ! わたしを呼ぶ時は黄泉ちゃんとか、よっちゃんとかでもいいぞ。まあ、黄泉様もいいだろう。でも、姉御がいいかな。そっちで呼ばれる方が多かったからなあ」
「おい、ちょっと待てよ!」
「わたしは、おいじゃなく、黄泉だぞ。比良坂黄泉だ。黄泉ちゃんとか、よっちゃんとかでもいいが、姉御の方が心地よいと、さっき、申したばかりだが。キミは、記憶力が無いのか?」
「いや、そうじゃなくて」
俺は突拍子もないこの黄泉と名乗る少女に翻弄されまくった。だが、冷静になろうと努めることにした。
「ここはいったいどこなんだよ。おまえは・・・・、誰なんだ」
「わたしは、おまえじゃない。黄泉だ」
ここはこの女を黄泉と呼ばないと話が進まないのだと俺は悟った。
「わかった。んじゃ、黄泉。君は、いったい何者なんだよ。どうやって、マユに化けたんだ。それにここはどこだ、納得の行く説明をしてくれよー!」
もう俺は必死に叫んだ、叫ぶ以外の方法が分からなくなっていた。
「ああ、もう五月蠅いなあ、耳元でぎゃんぎゃん騒がないでくれるかなあ。鼓膜が破けたらどうするんだ」
「いや、そうじゃないだろう。俺、今めちゃ、パニクってるだろうが!」
「ああ、そうみたいだな。ミルクを欲しがる仔犬のようにきゃんきゃんわめいている。それで、何だ?」
「い、いや、何だじゃないだろう」
くそー、この女、完全に俺をおちょくってやがる。いいたい何なんだこいつは。
今日はあいつの葬式で、俺は悲しみにくれていたというのに。なんてことしやがるんだ。くそー、くそー、くそー。
俺は何度も「くそ」を連発しながら、地面をたたき、うずくまり疲れきってしまった。それから何時間が経過したかわからないが、周囲の景色は夜になることも、朝が訪れることもなかった。
「そろそろ落ち着いたかな」
おどけた声で、黄泉は俺の前にしゃがみ込み俺の頬をつかんだ。その時、一瞬、かがんだ足付け根の先にパンツが見えた。さっき見上げたのと同じ色、同じ刺繍が施された勝負パンツ的なそれだった。
やはり、マユの姿に見えていたのはこいつだったようだ。しかも魔道士のような黒装束の下はセーラー服で、ウチの学校のものとよく似ていただ。
「しっかり、見たか? まあ、これは所謂サービスだ。じっくり見たいならもうしばらく、この姿勢を続けてやっても良いぞ」
くそー、この女まだ俺をおちょくってやがったのか。場合が場合で無けりゃあ、スケベエネルギー充填一二〇パーセントで波動砲発射で、襲いかかっても不思議ないところだが、今はそんな気分というか、状況じゃないことはバカな俺でも分かっている。ここは素直に流すか。
「いや、いい上げてくれ」
「意外と素直じゃないか。健児くん。ちょっと、安心したよ」
女はふにっと笑みを浮かべた。だがすぐに何かを思い出したような顔になり、「おっと、その前に、おしっこしなくて大丈夫なのか? 相当に貯まってるだろう。早くしないと膀胱炎になるぞ!」
そう言われた途端、俺は急に下の方が大変な状況にあることを悟った。ダムの決壊、もしくは富士山大爆発と言わんばかりの緊急事態が起きていた。トイレを探そうにも近くには無かった。
「何してるんだい。川の方を向いてそこですればいいだろう。ここにはわたしとおまえしかいないのだから」
それを聞いて安心したのか、俺はベルトを緩めチャックを開いて、むんずとナニを握ると一挙に放水した。あ――――、気持ちいい。
「ほほう、ワリと立派じゃないか、健児くん」
黄泉が笑みを浮かべながら、しっかり覗いている。だが、今の状態ではナニの放水は止めることが出来ない。俺は見るなら見やがれ!と構わず放水した。放水時間はざっと二分はかかった。そんなに体にたまっていたとは、いったいどういう状態だったのか。
放水しおわった俺のナニは、塩で水分を奪われたナメクジのように情けないほどにしぼんでいた。
「なーんだ。実際はそんなもんか。そっちも結構カワイイけどな。赤いリボンでもつけてやろうか、健児くん」
顔が熱くなった。見ず知らずの少女に大事なイチモツを見られ上に、評価までされてしまったのだ。
「あああ、もうおまえ。黄泉、さっきから何だよ!おまえはいったい、何者なんだよ。俺にいったい何の用があるんだよ!」
俺は異様に顔が熱くなっているのを感じたが、とにかくこの女にこれ以上、ふざけないようにと必死に訴えることにした。すると、ようやく気持ちが通じたのか、女は再び、真剣な表情に変わった。
「少々、悪ふざけが過ぎたようだ。久しぶりに同世代の者と話すので、わたしも、つい、はしゃぎすぎてしまった。すまない」
女は右手の握り拳を口にあて、コホンと息を整えた。
「よし、改めて自己紹介しよう。わたしは、比良坂黄泉。黄泉戻師だ。黄泉戻師というのはなあ、死者の世界へ行こうとする者の魂を現世に戻す者なんだ。それも自然の摂理から逸脱した死を迎えた者のな。
言っとくが、霊媒師のようなインチキ商売屋とは違うぞ。わたしはきちんと日本の国家組織に所属する、言わば霊的技術を持ったエージェントなのだ」
まじめに話し出してくれたかと思ったら、国家組織だの、エージェントだの、絵空事のようなことを話だしたのだ。何だそりゃあ。それと、この俺がいったい何の関係があるのだ。俺は黄泉の言うことがさっぱり理解出来なかった。
「おまえは今日、早瀬真由美の葬式に出たよな。アレは偽物だ」
「何だって!」
クラスの連中がテレビ番組に応募して、俺にドッキリを仕掛けているとは当然思わなかった。マユのお母さんが元女優だとは言っても、お父さんやお姉さん、学校のみんなの悲しみようは本物だった。演技じゃない。絶対に違う。
「ここは精神的に作られた仮想世界でな。現実の世界とリンクはしているんだが、過去の記憶情報と、これから起こりうる予想情報を被験者の脳に見せているんだよ。
まあ、バーチャルリアリティの一種なんだが、そこに霊的パワーを使ってあるのさ。だから、まがい物なのに、おまえの頭の中にはリアルに感じるのさ」
「じゃあ、俺は今いったいどこにいるんだ。家のベットの中とかか?」
「河原さ、おまえが住んでいる町の、おまえが早瀬真由美と毎日登下校している通学路でもある久遠川の土手だよ。時間はそうだなあ、早瀬真由美の葬式があった日より四か月ほど遡った金曜日の夕方、六時頃かな。当然だが、早瀬真由美はまだ生きている」
「本当なのか!」
マユが生きているという言葉だけに反応した。他も気になっているのに、そこにしか興味がいかなかった。
「だが、このままでいると、四ヶ月後には今日、おまえが見たようなことが現実となってしまうだろう」
黄泉の瞳は最初に見た時と同じ赤黒く光り、肌は透けるように白く変わっていた。俺は黄泉に見せられていた幻覚を思い出し、嘔吐しそうな程に胸がむかむかした。
「早瀬真由美は、凶悪な死神に目をつけられたのだよ。いや、彼女だけじゃない、この久遠舞町)全体が、奴の魔の手に落ちているのだよ」
俺は、この黄泉と名乗る女のとんでもない話に唖然となった。とにかく死神とはぶっ飛んでいる。だが、黄泉のこの雰囲気はただ者では無いことを、野生の本能ともいうべき感覚が、行動を封じていた。そして、そのあまりの衝撃的名迫力に声すら出せなかった。
黄泉はその赤黒く光った瞳からの鋭い視線で見つめ、右手を伸ばし、人差し指を鼻先につきつけた。
「聞け、木村健児よ! この町は死に覆われている。おまえはわたしの使い魔となって、わたしと伴にこの災い種を滅ぼすのだ!」
「は、はい――――?」