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黄泉戻師(よみし)  作者: 星歩人
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第十一話 目覚めのとき

 イノシシはじっと死んだようなうつろな目つきで睨んでいる。鼻息も荒く、後ろ足を軽く蹴りながらふー、ふーと唸っている。

 やばい、今にも突進してきそうだ。俺はちらりと黄泉の方を見た。だが、この角度では岩に隠れて見えない。


 そうしているうちに、イノシシはスタートを切った。その走りは、まるでブレーキの壊れたダンプカーのごとくな暴走ぶりだ。俺は御神刀をさっと抜くと、身構えた。だが、突きの構えをするには間が持たず、一目散に逃げ出すことになった。

 俺はイノシシが突進する寸前でわきによけた。勢いがつきすぎたイノシシは急ブレーキも、旋回もできないまま俺の背にあった大木に頭から突っ込んだ。さすがに大木は倒れなかったが、どすんという重い音と、木が壊れる音がした。

 普通なら、「しとめた!」と安堵するところだが、淀みが染み込んだ生物は痛みをまるで感じない。割れた木が刺さり血みどろのイノシシがよろけもせずに、立ち直って来た。

 とにかく、走らねば。ちょこまか、ちょこまかと狭い木々の間をすり抜け、直線的にしか向かってこれないイノシシを翻弄したが、いっこうに突きを見舞うことはできず、俺はただひたすらに逃げ回るしかなかった。


「黄泉ー、どうすりゃいいんだ」

 俺は、助けを求めた。だが、あいつは寝ているのだった。それでも、タヌキ寝入りだと思って、見やると、岩陰から、ぐったりとした手が見えた。おそらく、岩を背にしやがんで、そのままぐったりしたのだろう。

 まじ寝か?まさか。しかし、手練れの黄泉戻師ともあろう者がいったいどうしたと言うのだ。

 気がつくと、アルコールがひどい濃度になっていた。これは、ウオッカ並み、いや、それ以上というかアルコール度数、百パーセントに近かった。

 それで、黄泉も酔い潰れたのか。だが、どうして、俺は無事なんだ。アルコールは感じるのに、意識は、はっきりしている。しかし、考え込んでいる余裕などはない。イノシシがついにそこまで突進して来たのだ。

 

 とにかく走った。この一帯は、俺にとっては庭のようなものだ。足場は体が覚えている。左右に飛び跳ねても、足の裏がふれる感覚で、どういう体制にするべきかを、体が勝手にとっている。

 俺は、イノシシが苦手な木の間を抜けたり、段差のあるところを降りたりとして、追突をのがれた。俺を追撃しそこなったイノシシは、失敗するたびに、痛々しい深手を負う。

 だが、痛みを感じない奴は、怪我をしながらも突進してくるのをやめない。その姿は、怒れるゾンビというべきだろうか?何にしてもこれはやばい。逃げ切れるのか俺は。




 かれこれ三十分は走り回っただろうか。黄泉が眠り落ちたアルコール臭漂う場所からは、二キロ近く移動してしまった。

 相変わらずイノシシは突進しては大けがを負うが、いっこうにスピードが落ちる気配がなかった。逆に俺は油断して、地面に露出した木の根っこに足をひっかけ、こけてしまった。

 すると奴は、俺がそうなるのを待っていたかのように突進してきた。目視しているわけじゃないが、感覚でそれがわかるようになっていた。何も考えずに、俺の手足は動き、気がつけば、木の上によじ登っていた。だが、右手に御神刀は持っていなかった。木によじ登るときに、落としてしまったようだ。真下を見ると、御神刀が落ちていた。

「しまった」が、降りて拾うわけにもいかない。更に三十分は立っただろうか、奴はあきらめて帰る様子はなかった。じっと木の下から俺を見上げている。


 やがて、奴は体から濃い沼気を出した。さっきのアルコール臭とは違う匂いだ。すると、木の上にいた蛇や昆虫、鳥が俺をめがけて突っ込んで来る。それも一匹や二匹じゃなかった。俺は手で払いのけるが、次第に払えなくなって、たまらず木を降りた。

 降りたのは、刀を落とした側の反対だ。この木は樹齢五百年の大杉の木だ。回り込んで、御神刀をとる事はできない。またも策もないまま、逃げ回るしかなかった。

 俺の体も奴と変わらぬほど、疲れを知らぬようで、まだまだ軽快に動けている。意識と体が別々に動いているようでもあった。

 逃げる一方で、いつまでも戦う腹を決めれない俺は、ヘマをやらかしてしまった。そう、袋小路に飛び込んでしまったのだ。


 目の前は窪んだ土壁。今度ばかりは、脇へ逃げることはできない。そして御神刀も手には無い。どうする、親父に直伝の空手の正拳突きで倒すか。いやまて、俺は空手家じゃないんだ。道場の初段ごときに何が出来る。

 考えている時間は一分も無い。正拳突きで行くかと、腹を決めた直後、脇に御神刀の柄らしきものが土壁に刺さっているのを見つけた。考えるよりも先に、俺の右手はその柄を握り、刀身を引き出し、正面に突き出すように、突進してくるイノシシの眉間に刀の先を定めた。

 すると、どうしたことか周囲の音が急にゆっくりとなり、目に見えるものもゆらりと動きだしたように感じ始めた。

 やがて、腹の底から熱いものがこみ上げ、体全身に広がってくる。そして、気流のようなもの体の中から発生し、刀を持っている右腕を伝わって振動しはじめた。

 最初は腕の周囲を巻くような気の流れが起き、それは徐々に刀の刃先に伝えられた。刃先でも竜巻のような強い気流が起き腕の気流と逆巻きに起きることで、5キログラムはある刀をまっすぐに保った。


『やれ、今だ!』


 頭の中で声がした。女の声だが、黄泉では無かった。もっと、キレのいい澄んだ声だった。俺の体は声に操られるように自然に一歩前に出た。イノシシは猛スピードで突進している筈なのに、のろのろ歩いているかのようにさえ思えた。そして、俺は左手を添え、突きの構えに移行する。さっきまでの、恐怖はどこかえ消し飛んでいた。今は、ただ、ただ、まっすぐにイノシシの眉間を狙っていた。

 そして、一撃をみまった。不思議と、どすんと鈍い音も、俺の体に衝撃も走ってこなかった。だが、体からは、すさまじい気の流れが腕から刀の先端へ抜け出る感じがした。そして、その直後にそれ以上の大きな気の流れが刀の先端から入って来て、柄の部分から出ていく感じがした。


 目の前では、間近に詰め寄ったイノシシが、次第に安らかな表情になり、眠るように倒れていった。気づくと、イノシシは、俺の足元に倒れていた。

「よくやったなキミ。はじめてにしては上出来だ」

 背後から、黄泉の声がする。振り返ると、いつもの元気そうな彼女が居た。

「黄泉。大丈夫なのか?」

「ああ、高濃度のアルコールで多少、頭痛はするが、キミらが移動してくれたおかげで、濃度が薄まって、どうにか意識を取り戻せたよ。わたしとしたことが不覚だった。すまない」


 元気な黄泉の姿を見れて安堵したが、同時に体が金縛りにでもあったかのように動かないのを感じた。必死に動かそうとするが、ぴくりとも動いてくれない。

 すると、黄泉は、俺の背後にまわり、両肩に手をかけると、えいっという気合いを入れたように感じた。そのとたんに、俺の手足は動かせるようになった。 

「まさか、衝撃波が打てるとは驚いたよ。あのままただ突いていたら、この辺はイノシシの臓物ぞうもつが飛び散っていただろうけど、衝撃波を打ったおかげで、イノシシのとりついた淀みが抜けだし、そのエネルギー波の戻りと一緒に淀みと沼気が刀に吸い込まれ浄化されたようだ。


 だが、イノシシはキミに突進する間にあちこちぶつけて、ほぼ半死だったようだな。最初に衝撃波が打てていれば、助けられたかもしれないが、仕方ない。それ以上にキミが無事でなによりだ」

「俺は何もしてないぞ。勝手にああなったんだ。さっぱり訳がわからないぞ」

「最初は無意識に出てくるものらしいぞ。後は、使い手にこつを教われば、自分でできるようになるさ」

「使い手? お前がつけてくれるんじゃないのか」

「わたし? わたしは無理だよ」

「どうしてだよ。黄泉戻師なんだろう?」

「う、うん、まあ。出来ないこともあるんだよ。そのうち、それにふさわしい教え手が来るさ」

 俺は黄泉の説明に釈然としないものを感じた。彼女の口調はどこか寂しげで、悲しそうな雰囲気があり、それ以上、ふれられないものを感じていた。

 それと俺は、見慣れない御神刀を拾ったことを黄泉に告げた。彼女は刀を見るなり、眉間に皺をよせた。刀を手に取り「とても軽い」と言った。

 確かに思わず手にしたので気づかなかったが、自分の刀より軽く、片手ですっと抜けたのを思い出した。

「合金の種類が違うみたいだな。気を簡単に入れることができる。それで健児が衝撃波を撃てたのか?」

「これも黄泉戻師の御神刀なのか、形は似ているみたいだが、ちょっと違う感じもしたな」

「これは練習用の御神刀に似ている」

「練習用?なんだそれ」

「いや、何。わたしのような一般人から黄泉戻師の素質を見いだされた者は、最初、気の使い方がなかなかわからないから、こういった気を伝えやすい練習用の刀で気を溜める訓練をしてたんだよ」

 練習用があったとは驚きだ。俺はそんなものなしに、本物を直接渡されたが、それはどういうことなのだ。

「俺たちの他に黄泉戻師がここにいるのか」

「さあ、どうだろうな。いれば、この共鳴装置を入れると刀に仕込んだ発信装置に反応して、位置を確認できるんだがなあ、あいにく、この刀は練習用で発信機は入っていないんだ。

 捜索はうちのスタッフに任せよう。とにかく、これは持ち帰って調査だ」


 俺たちはイノシシをそのまま放置して、ひとまず、沼に戻ることにした。俺は自分が何をしたのかさっぱりわからなかった。曇った沼気はすっかりなくなっていたが、アルコールの濃い臭いは、まだ残っていた。黄泉は、心なしか俺にもたれるように歩いていた。

 どうやら、眠り込んだのは、一瞬の不覚というやつだったのだろう。でも、どうして、そうなったんだろうか。調子でも悪いのかな。それとも、まさか、あの日なのか?

 目がチカっとするほどの、激痛が落ちてきた。

「誰があの日だ!」

 黄泉の手刀だった。あいかわらず力強い。マジで痛い。

「なんだ、元気じゃないか!」

「わたしだって、油断することはある。黄泉戻師はその為に、ペア行動を原則にしているんだ。それに、倒れていたのは、数分だ。すぐに、キミの後を追い、そばから見ていたさ」

「それは良かった。あのまま寝てたら、戻ったときに、何かいけないことをするところだったよ」

「はいはい。ジョークとしてはいまいち。第一、キミにそんな勇気があるのかな。それとも、たまには、してみるか、チェリーくん」


 黄泉は、俺の眼前にさくらんぼのような唇をつんと突き出し、さあ、キスしてみろ!と言わんばかりだった。

 それならばと、その唇に重ねてやろうと、唇を突き出すのだが、何かが頭をよぎり、体を屈めることを躊躇してしまう。やがては、左の耳元から『そのまま抱きついて押し倒せ』と邪悪な声が、右の耳元では『マユに知られたら、またシバかれるわよ』と聡明そうな女性の声の囁やきが聞こえてきた。

 俺はどうにか、あと五ミリというところまで唇を接近させるところまで来た。

 しかし、もうひといきというところで、黄泉は、かっと目を見開くとともに、「意気地なし」の言葉を発し、振り返って、「行くぞ」と沼の方へ歩き出した。

 いやはや、我ながらなんとも情けない。

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