5月 前期役員選挙
――side: 深川シズカ
わたしは庭を歩きまわりながら図面を引いて回った。5歩、10歩と下がっては、ここに何を植えたら美しいだろう、どのあたりにアーチを作ろう、と矯めつ眇めつしてノートに案を描きこんでいった。
今日は生徒総会があった。そのあいだずっと上の空で、心はこの静かな庭に飛んでいた。意識の端で、バドミントン部が卓球部より予算が少ないのは納得いかないとか、バドミントン部が文芸部より予算が少ないのは納得いかないとか、バドミントン部が歴史研究同好会より予算が少ないのは納得いかないとかいったバドミントン部の主張と役員会にいちいち説明を求める声を拾ったけれど、園芸部が槍玉にあげられなくてほっとしたら残りは耳に入らなかった。
はっとしたときにはいつの間にか予算が承認されていたらしくて、生徒総会の閉会が告げられていた。それで教室へ帰るのかと思っていたら、この後生徒会の役員選挙があるそうで立会演説会が始まった。各ポストに立候補者ひとりしか立っておらず信任投票になるということは事前にユウコに聞いて知っていたから、立候補者たちを全員信任するつもりでまた心を飛ばせた。
そして帰りのホームルームで名簿のチェックと引き換えに投票用紙をもらって、名前の上に丸をつけて巡回してきた選挙管理委員の持っていた箱に入れ、ずっと心に描いていたイメージを形にするためにノートとペンを手に教室を一番に飛び出してきたのだった。
空にピンクと金の天幕がゆっくりかかってきたころだった。ベンチに誰かが寝転んでいるのが見えた。わたしはここで一月ものあいだ人の姿を見たことが一度もなかったので驚いた。
(一体誰が……?)
そっと近づくと、ゆるく波打つオレンジ色の、長めの髪が目に入った。
(天使)
とっさにそんなことを思った。そんなこと現実にはあるはずないのに、とすぐに自分に呆れたけれど、もしかしたらわたしを元の世界に連れ戻しに来たのかもしれない、という風にも思った。天使がこの学校の制服を着ていて、しかも登場人物のひとりだと気づいてしまえば苦笑いするしかなかったけれど。
見慣れて日常の一部になりかけていた庭でこれといった感慨もなく日々を過ごすようになっていたのに、突然胸に迫るような光景に出くわして、ほとんど頬がほてるようだった。あれは園芸家の守護天使か、そうでなければ薔薇が人間の姿をとったか、といった言いようもない美しさだった。今まで何度か彼の姿を見ているはずなのに、こんな気持ちになったのは初めてだった。それは、新鮮な驚きでもあった。
気だるげに身を投げ出している見知らぬ男子生徒。うら寂しい庭の中でその一点だけが鮮やかだった。わたしの足はそこで止まって、その眺めを長いこと見ていた。
(この場所にオレンジ色の薔薇を植えよう。この人みたいな、オレンジ色の薔薇を)
――side: 藍葉ヒカリ
「あー、チトセ先輩、あんなところでサボってる」
「いけないんだー」
旧校舎3階の執行部部室の窓からすかすかの庭を見下ろしていた。このあいだまでは雑草がはびこり、虫が大量発生し、手のつけようもないように思われていた薔薇園。執行部室は3階だからまだましだけど、2階の各委員会の部屋や1階の学園事務室や警備員室は大変だったらしい。オレも去年の今ごろに毛虫がいたるところにいてみんなギャーギャー騒いでいた事を覚えている。園芸部は知らんぷりを決め込み、環境委員会も仕事が増えるのを嫌って動かず、執行部も環境委員会の仕事だとして放置していた。結局業を煮やした風紀委員会が適当な理由をつけて薔薇園を更地にする案を取りまとめ、役員会でその案が承認された。園生学園の厄介者、それが薔薇園だった。
チトセ先輩は薔薇園にぽつりと置かれた、作りだけはしっかりしていそうな白木のベンチに寝転がっていた。
「ずいぶんさっぱりしたね、あの薔薇園も」
「だね。やっぱりなくなるからかな」
「跡地はどうするんだろうね」
カフェオレの紙パックから突き出たストローをがじがじしていると、となりで同じように庭を見下ろしていたアカリが、あれ、と首をかしげた。
「もうひとりいるじゃん。誰?」
「あ、ほんとだ。顔はよく見えないな。でも多分知らない人だ」
「女の子だからチトセ先輩の彼女かファンかな」
黒髪のボブカットの女の子だった。手には何かノートのようなものを持っている。
(何してるんだろ?)
「どうする? 知らせる?」
「放っといてもいいんじゃないの? 別にカメラ持ってるわけでも包丁持ってるわけでもないんだしさ」
「そうだよね、別にいいよね」
つい吹き出して笑うと、いつものようにアカリも同じタイミングで笑っていた。
「あはは、だめ、なんで笑っちゃうんだろ」
「はは、ほんと、なんでだろ?」
「もー、チトセ先輩ってほんとに……だめな人だなー。後輩にこんなに気を遣わせるなんてさー」
「ほんとだよ。なんでオレらがチトセ先輩の女関係まで気にしてんのさ」
「チトセ先輩ってどっか抜けてるからなー」
「そのうち女の子に刺されて死ぬかもとかまじで心配しちゃうよね」
「男にだってそうだよ」
「チトセ先輩、バイだもんね」
ぶふ、ごほっ、と笑いすぎてアカリがアップルジュースでむせはじめた。オレはその様子にまた笑いのツボを刺激されながらアカリの背を叩いてやった。
騒ぎすぎたオレたちの声に苛々したらしい黄葉コウタロウが、苛々を隠さないまま自分の席から怒鳴った。
「おい! うっせーぞ双子! 仕事しろよ!」
「えー? なんで仕事なんかがあるのかな? まだ開票はすんでないはずだよ?」
「そうだよね。コータローはなんでそんなにやる気にあふれてるのかな?」
「まだ選挙の結果も出てないのに仕事してんの? 気が早くない?」
「すごい自信だよね。遠慮と謙遜っていう日本人の美徳はどこに行ったんだろうね?」
オレたちが一言発するたびに苛々を募らせていったように見えたコータローは、かけていた眼鏡をとってレンズを拭き、眼鏡をかけ直してから手元のラップトップを見た。
「あれ~、おっかし~な~。お前らにやってくれと頼んだのは役員の権限がなくても処理できる、執行部への目安箱に寄せられた生徒諸氏の意見なんだけどな~。違ったかな~?」
窓の外の黒髪の女の子はチトセ先輩に近づく前に足を止めて、チトセ先輩をじっとみつめだした。
「あの距離感は、彼女じゃないね」
「片思いって感じ」
「顔見せてくれないかな? アドバイスできるのに」
「可愛かったらあんな遠くから見てる必要ないんだけどね」
青春だね、そう言ってアップルジュースにとりつかれているアカリはちゅーとストローを吸った。
「おい! 無視すんなよお前ら!」
「え、何?」
「どうしたの?」
コータローは苛々が極まったような顔になったあと、部屋の奥の机について事務作業をしていたキョウスケ先輩に助けを求めた。
「あいつらに何とか言ってやってくださいよ、赤葉先輩!」
「すぐに強者に頼るなんて」
「ス○オくんだね」
キョウスケ先輩はオレたちを見て面倒くさそうな顔をした。
「あいつらじゃなくても処理できるっていうなら執行部の誰かにやらせればいいだろ」
「その執行部の誰かがいないんですよ! 3年はほとんど来てないし、1年はまだひとりも入れてないじゃないですか!」
「適当に誰かそのあたりで捕まえてこいよ」
「執行部に入るってことは将来の役員候補なんですよ! あんたわかってるんですか!?」
「候補のリストは見た。青葉とか紫葉とかいただろ。そいつら連れてくればいいだろ」
「青葉はもう監査にとられましたし、紫葉にはもう断られましたよ」
「どのマヌケに行かせたんだ?」
「……オレです。頼みこみも泣き落としもしましたがだめでした」
「マヌケはお前か。まあいい。なんで3年は来ないんだ?」
「あの人たちみんな橙花先輩のご友人だからじゃないですか! 選挙で気を遣ってるんですよ! あんたに友だちがいれば3年の執行部もすっからかんにはならないんですけどね!」
コータローは言ってしまってからどぎまぎした様子でうつむいた。
「あーあ、言っちゃった」
「人の心を傷つける事実ってあるよね」
(果敢だよね、コータローって)
オレたちは気づまりそうなふたりの沈黙を、ジュースをすすりながら楽しんだ。アカリはすぐに気を散らせて窓の外をのぞきこみだした。
「あれ、女の子どこ行ったんだろー?」
キョウスケ先輩は無理している感に満ちた、張りついたような笑顔で言った。
「――そうか。黄葉、もっともな指摘をありがとう」
「いえ……」
「黄葉に頼みたい仕事があるんだがな、引き受けてくれるだろう?」
「あ、あー、あの、オレ今手一杯で……」
「今日中にやれとは言わない。来週まで待とう。なに、友人の多い黄葉には難しい仕事じゃないさ」
「……どんな仕事ですか?」
「ああ、あの薔薇園を更地にする具体的な計画を立ててほしいんだよ。予算は無事今日通ったし、こういうことは早いほうがいいだろう」
「ちょっと待ってくださいよ! それって結構大変な仕事じゃ……」
「頼んだからな」
四の五の言わせないという強い思いにあふれた、頼んだからな、だった。
(ざまー)
コータローが天を仰いで席につくのと同じくらいに、珍しくキョウスケ先輩の携帯電話が動いた。最初はほかの誰かの携帯の振動音かと思ってオレやアカリやコータローは自分の携帯をそれぞれ確かめたけど、誰のものでもなかった。
「あの~、赤葉先輩。鳴ってるの先輩の携帯じゃないですか?」
言いにくそうに尋ねるコータローにオレもアカリも笑いをもらした。
「え、あ、オレか」
思ってもなかった風にバッグから携帯を取り出すキョウスケ先輩にまた笑いが抑えられなくなってきた。
(そんなに着信が意外とか)
ふはっと笑い声を出すと、アカリが小突いてきた。そのアカリもあっはは、と笑いだすので、小突き返したらもう止まらなくなった。
「あはははは、もー、キョウスケ先輩勘弁してよー」
「あはははは、あー、アップルジュースが逆流してくるー」
キョウスケ先輩はオレたちを理解しがたいものを見るような目で一瞥だけして、電話をとった。
「オレだ。――ああ、――どうだった? …………順当だな。何か問題は起きなかったか? ――ならいい。そうだな、無事に終わってほっとしてるよ。ご苦労だった。――切るぞ」
携帯をバッグにしまったキョウスケ先輩にコータローが尋ねた。
「緑葉先輩ですか?」
「ふっくくくく」
どうせ選挙管理委員会の会長から選挙結果について知らせがあったのだろう、それくらいしかキョウスケ先輩に電話がかかってくる理由がない、というコータローの読みに吹き出すと、アカリも笑いすぎて力加減を間違って紙パックのアップルジュースを飛びださせた。
「あ、やっちゃった」
「こぼすなよー」
「オレのアップルジュース……もったいねー」
「全部飲んで手、洗ってこいよ」
コータローは冷めた目でこっちを見たけど、キョウスケ先輩はちょっと見ただけで無視した。
「ああ、緑葉からだった。全員当確だ」
「そうですか。おめでとうございます」
「ああ」
キョウスケ先輩は感慨なさそうにうなずいて、役員室を出て行こうとしていたアカリに言付けた。
「橙花にも伝えておけ」
――side: 黒羽アツシ
自信があったかと訊かれたら、オレはちょっとだけ、と答えただろう。でももし訊いてきたのが神様か何かで、本当のことを言っても誰も気を悪くしないという保証があったなら、これ以外の結果になるなんて考えもしなかった、と答えたと思う。
オレは役員選挙の結果を黄葉から聞いたところだった。
「よかったね~。コウタ、おめでと~」
「心をこめろ、心を」
「素直にありがとうって言えないのはどうかと思うな~。黄葉って、頑張ってって言われたらもう頑張ってるって言っちゃうタイプ? 遅い時間におはようって挨拶されたらもう早くねーよって返す人? そういう付き合いづらい感じのやつだったっけ?」
「お前あからさまに社交辞令だったって言ってんじゃねーか!」
「あ、ばれた」
「ばれた、じゃねーよ!」
黄葉はからかうと楽しい。黄葉もわかっていて乗ってきてくれるところが、ほかのいけ好かない生徒会役員たちとは違うところだった。
「にしても、去年の後期と同じ顔ぶれか~」
「わからんぞ。双子は実はこっそり入れ替わってるかもしれないからな」
「それはないでしょ~。だって、100パーセント同じなのって遺伝子だけじゃん。オレはあんま知らないけど、性格はけっこう違うって聞くよ? ほかにもヒカリのほうが成績いいし、アカリはアップルジュース中毒じゃん」
「違うと思ってるところに落とし穴があるんだよ。例えばヒカリがアカリの真似しだしたら、オレはちょっと区別つける自信ない」
「なにそれ、ホラー? 黄葉って想像力豊かだね~」
「お前もあの不思議双子と毎日のように顔を合わせてみろよ。精神が不安定になるぞ」
「大変だね~」
黄葉には悪いけど、オレには他人事だった。
「そういえば黒羽、お前環境委員だったよな」
「ん? まあ」
「委員長だよな」
「そうだけど」
「環境委員会で手伝ってほしいことがあるんだが」
「はあ?」
面倒くさそうなことを頼まれそうな雰囲気だった。
「得点のチャンスだぞ、黒羽。ここで環境委員会も頭を悩ませていた薔薇園の問題を完全に解決できたら、環境委員会委員長のお前の実績にもなるんだ」
(あー、あれか。薔薇園ね)
「……事務管理課とやりなよ」
「もちろん事務管理課ともやるさ。さすがに役員会だけでは進められないからな。でも正直オレは忙しいし、責任も分担したい。一方お前は実績をつくれるし、この件では環境委員会は風紀委員会に負い目があるはずだ。ここらへんで尻を拭っておけよ」
そう言われたら断りづらい。
(これは引き受ける流れなのかな~?)
そう思いつつも返事を渋って、あーとかうーとか意味のない音を発しながらとうとう南門まで来てしまった。
「じゃーな、黄葉」
「待てよ。なにナチュラルに別れようとしてるんだ」
腕をつかまれて仕方なく立ち止まった。
もう日が落ちているとはいえ校内には十分に明かりがあった。オレはともかく黄色いヒヨコ頭の黄葉は目立つ。門の近くには迎えの車を待つ生徒たちの姿もいくつかあって、向けられる視線に優越感と居心地悪さを感じた。
(まあいいか。こいつに恩も売れるし)
世の中は貸し借りで成り立っている。役員会からリークがほしかったり便宜を図ってほしかったりするときはよく黄葉に頼っている。オレも黄葉のために少し働いてやる必要があるだろう。
「……具体的に何すればいいわけ?」
話を聞いてしまえばもう引き受けるしかなくなる。黄葉は、助かる、と安堵の表情を浮かべた。
「環境委員会だけで片づけられないかどうか調査してくれ。業者を入れるにしても整地だけにしたい」
「げえ。こき使う気満々じゃん。お前まじでしまり屋だな」
「うるさい」
話もすんだので、仕事熱心な生徒会会計様に今度こそ別れを告げて車に乗り込んだ。