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5月 教員室

――side: 深川シズカ


 ベンチに腰掛けたまま、ぐぅっと伸びをして体を横に倒すと、強まる日差しで眠たげな緑を増した欅の樹冠が見えた。疲労と充実感が押し寄せ、指先まで浸すと、わたしはゆっくりと目を閉じた。

 5月初めの連休の最終日。休日はすべて薔薇園で費やした。枯れたりひどく傷んだりしていた薔薇をすっかり処分してしまい、はびこっていたハーブの類を引き抜き、土を浄化したり道具を殺菌したりして可能な限り整理してしまうと、かつての見捨てられた薔薇園は空虚な寂しさの漂う庭になった。

(空っぽ)

 でもあとはここに実家から薔薇の鉢植えを持ってきたり、馴染みの園芸店から苗を買ってきたり、水仙やムスカリやクレマチスなどほかの花々やグリーンのハーブを植えると、きっと素敵な庭になるだろうと思えた。

 廃墟から見上げる空のような、開放的で奇妙に明るい気分だった。


 授業開始日、わたしは部長のところまでいくらか予算を分けてもらえないかと頼みに出向いた。かなりの程度を手弁当でやるつもりだったけれど、庭は広いからそれだけでは苦しくなりそうだった。

「いいわよ。どうせあなたしか使わない予算なんだもの。全部使ってもらって構わないけど、でも部員5人だしね、去年と同じく4万くらいしか今年もつかないと思うわ」

「十分です。ありがとうございます」

「いいの、いいの。予算は活動に対してつけられてるんだもの。あなたしか活動しないならあなたが使うべきだわ」

 部長はさっぱりとそう言ったあとで、急に眉を寄せた。

「そう言えば、あなた、薔薇園に手を入れてるのよね」

「はい、そうですが」

「わたし、薔薇園はつぶされるって聞いたような気が……するんだけど」

「えっ」

 びっくりして目を見開くと、部長は困り顔で手を振った。

「そう聞いたような気がするってだけよ。確かじゃないわ。悪いんだけど、顧問に訊いてみてくれる?」


 わたしは早足で教員室に飛び込んだ。近くにいた色入りの眼鏡をかけた先生に園芸部顧問の茶堂先生がいらっしゃるかと尋ねると、その先生は自分のとなりの席だと言って案内してくれた。

「茶堂先生」

 呼びかけたら、中年の優しげな先生が振り向いて首をかしげた。

「1年1組の深川シズカです。部長に先生が顧問だとうかがったんですが……園芸部の顧問でいらっしゃいますよね?」

「ええ、そうですが、深川さんは園芸部員ですか?」

「はい。あの、うかがいたいことがあって」

「何でしょう?」

「旧校舎裏の薔薇園なんですが、つぶされるというようなことを聞いたんです。本当でしょうか?」

 茶堂先生はデスクの下のキャビネットから一冊のファイルを取り出してぱらぱらと繰りはじめ、ある書類の上で指を止めた。それをわたしに示しながらうなずいた。

「たしかに、そのようですね。昨年、風紀委員会から薔薇園で授業をさぼったりタバコを吸ったりしている生徒がいるという指摘があり、薔薇園としての体をなしていないならつぶしてはどうかと提訴がなされ、生徒会役員会において提訴を受け入れる決定が出ています。これは園芸部への通知書です」

 上から下まで何度見ても、茶堂先生が言った内容の書類だった。わたしは泣き出しそうになりながら決定を覆せないか尋ねた。

 茶堂先生はなぜかとなりの眼鏡の先生を気まずそうに見て言った。

「難しいでしょう。もう今年最初の中央委員会は終わってしまいましたからね。3日後の生徒総会で決定の知らせがあると思いますよ」

「そんな」

 あの庭への愛や努力が全部無駄になってしまうなんて。

「先生!」

「すみません。去年、園芸部がとくに異論を出さなかったもので……」

 わたしのいないときに決まってしまっていた。わたしは悔しさと無力感をどうにもできず、申し訳なさそうな茶堂先生の顔を見ているのもつらくて、気がついたら泣き出してしまっていた。

「すみません……」

 顔を伏せて去ろうとしたけれど、ふと横に慣れた気配を感じて、伏せていた顔を上げた。

「ミユウ……?」

「先生、ちょっといいですか?」

「ああ、春風か。今は悪いが……」

「先生、どうかわたしの話を聞いてください」

 ミユウは堂々と割って入った。

「先生方はわたしたち生徒をあまり信用してくださっていないのではありませんか? たしかにわたしたち生徒は未熟で至らぬ点も多々あります。先生方のご指導にはいつも感謝しております。ですが、生徒たちのモラルに期待し、自主性を尊重するということも園生学園の重要な理念だったはずです」

 いつもの甘やかさのない、辺りを払うような張りのある声。

(これって、まさか……)

 わたしは驚きで涙も止まって、彼女に見入った。

 ミユウはわたしを庇いに来てくれたのだった。

 ミユウに限らず、誰もわたしのしていることに関心など持っていないものとばかり思っていた。事実、園芸部や薔薇園のことで誰かに尋ねられたり話題にされたりしたことは今まで一度もなかった。

(そうじゃなかった)

 ミユウは、思いがけなくもわたしのことを気にかけていてくれていたのだった。そうでなければ、どうしてこのタイミングでわたしを助けようとすることができるだろう。

「しかし、春風さん、これは生徒会で決まったことで……」

「生徒会の役員会での決定でしょう。生徒総会で決まったことですか?」

「……そういうことではないですが」

「これは風紀だけの問題ではなく、生徒の自由、自主性にも関わる問題ですよ! 特定の人間だけで決めてよい事柄なのか、甚だ疑問です」

「しかしそれなら生徒のほうからそういう提訴がないと……」

「入学したばかりのわたしたちには難しいことです。末端の声のくみ上げが制度的に担保されているとは現状では言えませんから。それに入学以前では知りようもありませんでした。学則などの内規も外部には公開されていませんし、得られる情報は限られていましたから」

 ミユウが厳しく指摘する言葉にわたしもうなずいて同意を示した。たしかに薔薇園がなくなると知っていたら、わざわざひとり暮らしをしてまでこの学校に入学しようとは思わなかったかもしれない。地元の高校に進んでいた可能性もないとはいえないだろう。それに、去年決まったことをどうして今年入学したばかりのわたしが知ることができただろう?

「……そうは言われても……」

「生徒総会で異議申し立てをしてはどうだ?」

 となりのデスクから話を聞いていた眼鏡の教師が口をはさんだ。

ミユウは微笑んできっぱり首を振った。

「いいえ、先生。過去にそういった異議申し立てが通った例がいくつありましたか? そんなことより、もっと簡単で早い方法があります」

「……何だ?」

「ちょっと忙しくしていてくださるだけでいいんです」

 わたしはどういうことかわからずミユウの顔をうかがった。

 茶堂先生だけが眉をしかめた。

「それは……」

「忙しくて、手一杯で、実施できなかった。それなら仕方ないですよね」

 やっとミユウの言わんとするところがわかって、わたしは手で口を押さえた。ミユウは、決定を形骸化させろと言っているのだった。

 眼鏡の先生は目を冷たくさせてにべもなく突き放した。

「言っただろう。役員会でも決定されたことで、もう書類もできているんだ」

「取り下げるのはもう不可能かもしれませんが、それを役員会で決定できるなら覆す決定もできるはずです。いいですか? そのあいだ、実施なさらないでくださったら、それでいいんです」

 すっかり困り顔の茶堂先生は無言で首を振り、苛立たしげな眼鏡の先生は、もう行け、とわたしたちを追い払おうとした。

(もうここまでか……。ミユウにお礼を言わないと)

 わたしは肩を落としたけれど、気分はずっと楽になっていた。薔薇園は諦めなくてはならなくてひどくつらかったけれど、ミユウという素晴らしい友だちに出会えたことには嬉しさを感じていた。

 しかし、ミユウはわたしほど諦めがよくなかった。

「――わたし、次の全国模試で調子が出なくなるかもしれません」

「は?」

「不思議な予感なんですが、なぜか全力が出そうにないんです」

「ミユウ!」

 わたしはあわてて叫んだ。

 ミユウはわたしの驚きや焦りも知らぬげに、頬に手をあてて、白々しく弱ったような顔で続けた。

「そうなったらどういう評判が立つでしょう? 入試難度だけ全国トップレベルの高校? 内部生と外部生との待遇格差? どんな根も葉もない噂が立つかを考えたら申し訳なく思いはするんですが……」

 これには先生方もたまらなかったようで、眼鏡の先生は目を見開いて立ち上がった。

「ちょっと待て。春風、お前――」

「深川さんはどうかしら?」

「えっわたし?」

 いきなり話を振られてびっくりした。

「そう。今年上位の成績で入学した女子生徒ふたりともが、という話になると大変だから」

「あ、わたし……その、わたしも、春風さんと同じような気分になってきました」

「深川!」

「すみません」

 怒られて首をすくめると、ミユウが一歩前に出てきてわたしを背中にかばってくれた。ミユウはそのまま相手を射すくめるような強い目で先生方をみつめた。

「いいですか? ちょっと別のことに手をとられてしまうだけでいいんですよ。そのあいだに結果を出します。そうしたら今は問題と思っていらっしゃるかもしれませんが、考えがきっと変わるはずです。ね、深川さん?」

 あなたの腕にかかってるのよ、という視線を投げられて、わたしは大きくうなずいた。ここまで頑張ってくれたミユウに、自信がないとは言えなかった。期待に応えたい、その思いが胸を満たした。

「あ、はい、努力します」

 茶堂先生と眼鏡の先生はお互いの表情をしばらく見交わしていた。やがて眼鏡の先生が、茶堂先生に任せますよ、と言って椅子に座ってしまうと、茶堂先生は心を決めたように何度かうなずいた。

「……いいでしょう。春風さん、深川さん、今の言葉を忘れてはいけませんよ」

 わたしは信じられない気持でその言葉を聞いた。ミユウに感謝の気持ちを伝えたかったけれどうまく声にならず、感情のまま腕に抱きつくと、ミユウはわたしに小粋なウインクをしてみせた。

「はい」

 やっとの思いで答えたわたしに茶堂先生は小さく苦笑した。




――side: 春風ミユウ


(最悪)

 わたしはすごく苛々しながら廊下を歩いていた。でもわたしは学園のアイドルだから可愛くも美しくもないしかめっ面なんかしない。表情筋に気合を入れつつ不機嫌な顔を完璧に隠していた。

 こんな努力をしなくてはならないのも、すべて風紀委員のせいだった。背中の中ほどまである自慢のピンクの美髪を、風紀委員に切るかまとめるかしろと言われたのだった。そのまま流していたほうが絶対に可愛いのに、なぜそんな美的感性の欠片もないことをわたしに言うのかまったく疑問だった。

(ほんと朴念仁)

 大体において頭髪規則がある意味がわからなかった。髪をまとめたら勉強ができるようになるとでもいうのだろうか? どんな合理的な理由があって生徒の自由を制限しているのか聞かせてほしいものだ。

(あいつら風紀じゃお話しになんない)

 そういうわけで、わたしは教員室に突撃をかけたのだった。


(ちょうどいいじゃない)

 見れば、生徒会顧問の茶堂と風紀委員会顧問の紺野が一所にそろっていた。茶堂は春風駘蕩といった雰囲気の中年で、紺野は色入り眼鏡に白スーツというどこかインテリヤクザな趣のある教師だった。わたしがこんなことを知っているのも、ひとえに茶堂が生徒会の顧問だからだし、紺野が名前に色を持っているからなのだった。どの層に需要があるのか生徒から人気が高いというふたりは、女子生徒と向き合って何やら話しているところみたいだった。

(あの子……シズカ?)

 泣いているように見えた。どうせ何か怒られるか、思春期にありがちな悩みでも相談しているかなのだろうと思った。そんなことより彼らはわたしの話を聞くべきだ。

 もし怒られているのなら助けてやろう、くらいの気持ちで、わたしは構わずに割って入った。

「先生、いいですか?」

「ああ、春風か。今は悪いが……」

「先生、どうかわたしの話を聞いてください」

 持ち前の強引さで制止は無視した。

「先生方はわたしたち生徒をあまり信用してくださっていないのではありませんか? たしかにわたしたち生徒は未熟で至らぬ点も多々あります。先生方のご指導にはいつも感謝しております。ですが、生徒たちのモラルに期待し、自主性を尊重するということも園生学園の重要な理念だったはずです」

 未熟さを認めつつ先生方に感謝し、問題提起をする。完璧な序盤だった。

「しかし、春風さん、これは生徒会で決まったことで……」

 何の話とも言っていないのにわたしの言いたいことがわかるなんて、わたしも入学1カ月にしてずいぶんと有名になったものだと思った。

(ま、当然だよね。わたしって可愛いし、頭いいし、運動もできるし、何て言うかオーラが出てるもの)

「生徒会の役員会での決定でしょう。生徒総会で決まったことですか?」

「……そういうことではないですが」

 ほら見ろ、と鼻で笑いそうになるのを思いやりの心で抑えた。

(なーによ、やっぱりそうなんじゃない。頭髪規則なんて不条理な規則は大人が勝手に考えたに決まってる)

 できるだけもっともらしく聞こえるように速さや調子を調節しながら言った。

「これは風紀だけの問題ではなく、生徒の自由、自主性にも関わる問題ですよ! 特定の人間だけで決めてよい事柄なのか、甚だ疑問です」

「しかしそれなら生徒のほうからそういう提訴がないと……」

「入学したばかりのわたしたちには難しいことです。末端の声のくみ上げが制度的に担保されているとは現状では言えませんから。それに入学以前では知りようもありませんでした。学則などの内規も外部には公開されていませんし、得られる情報は限られていましたから」

「……そうは言われても……」

「生徒総会で異議申し立てをしてはどうだ?」

 インテリヤクザが口を出してきた。

 わたしはすんでのところで舌打ちをこらえた。形式だけなぞらせて、審議の結果否決されました、とやりたいのだ。悪い大人が使うやり方だ。インテリヤクザは見た目通り悪い大人だったのかもしれないが、わたしも見た目通り天才美少女なのでそんな口車には乗らない。

「いいえ、先生。過去にそういった異議申し立てが通った例がいくつありましたか? そんなことより、もっと簡単で早い方法があります」

「……何だ?」

「ちょっと忙しくしていてくださるだけでいいんです」

 春風駘蕩が眉をしかめた。

「それは……」

「忙しくて、手一杯で、実施できなかった。それなら仕方ないですよね」

 インテリヤクザは自分のしょうもない策が見破られて悔しいのか、不機嫌に切って捨てるように言った。

「言っただろう。役員会でも決定されたことで、もう書類もできているんだ」

「取り下げるのはもう不可能かもしれませんが、それを役員会で決定できるなら覆す決定もできるはずです。いいですか? そのあいだ、実施なさらないでくださったら、それでいいんです」

 ふたりはろくに反応もしなかった。わたしという天才美少女がこうだと言っているのだから、そうだと言えばいいだけの話なのに。御託は聞きあきた、みたいな顔はわたしをひどく苛つかせた。

(こうなったら仕方ない――)

 わたしは奥の手を使うことにした。国宝指定されてもおかしくない髪を守るためなら、わたしは何だってやるつもりだった。

「――わたし、次の全国模試で調子が出なくなるかもしれません」

「は?」

「不思議な予感なんですが、なぜか全力が出そうにないんです」

「ミユウ!」

 横でシズカが目を丸くしているけど無視。

「そうなったらどういう評判が立つでしょう? 入試難度だけ全国トップレベルの高校? 内部生と外部生との待遇格差? どんな根も葉もない噂が立つかを考えたら申し訳なく思いはするんですが……」

「ちょっと待て。春風、お前――」

 インテリヤクザを遮ってぼやぼやしていたシズカに問いかけた。

「深川さんはどうかしら?」

「えっわたし?」

「そう。今年上位の成績で入学した女子生徒ふたりともが、という話になると大変だから」

「あ、わたし……その、わたしも、春風さんと同じような気分になってきました」

「深川!」

「すみません」

 目つきを鋭くさせたインテリヤクザはなかなか迫力があるので、協力してくれたシズカを背中に隠してあげた。

「いいですか? ちょっと別のことに手をとられてしまうだけでいいんですよ。そのあいだに結果を出します。そうしたら今は問題と思っていらっしゃるかもしれませんが、考えがきっと変わるはずです。ね、深川さん?」

「あ、はい、努力します」

 春風駘蕩とインテリヤクザはお互い目線だけで会話していたようだったけど、インテリヤクザが春風駘蕩に丸投げして責任をとらない方針を明確にすると、春風駘蕩はわたしのほうに分があると思ったのか渋々といった様子で首肯した。

「……いいでしょう。春風さん、深川さん、今の言葉を忘れてはいけませんよ」

(勝った。さっさと負けを認めればよかったのに)

 鬼の首をとったような気持ちで観客席のシズカに鮮やかな勝利のウインクを投げた。シズカの感嘆のまなざしが気持ちいい。

「はい」

 春風駘蕩の負け惜しみにわたしは返事をしなかったけどシズカは律義に返事をした。


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