8月 深川家
――side: 春風ミユウ
深川家の立派な瓦葺の門をくぐると、見事に手入れされた日本庭園がわたしたちを迎えた。後楽園にあってもおかしくなさそうな、苔むして堂々とした庭石や趣ある樹木の数々。清しい水の音がするほうに顔を向けると、錦鯉が泳ぐ池に小川が注ぎこんでいた。
「きれいなお庭。特にあの松が立派で」
わたしの人生経験からして、褒め言葉はいくら弄しても損はない。たとえわたしがその分野に関して門外漢であったとしても。ところが今のわたしの言葉は、シズカにはまったく感銘を与えていなかった。シズカは返事の代わりに視線をちらりと寄こしただけだった。でも何を考えているかは言われなくてもわかる――わたし、この庭はあまり好きというわけではないの、特にあの松なんてわたしの薔薇と比べたらただの箒も同然なの。
シズカの兄はほとんど聞き取れない速さで礼を言い、話題をわたしに向けた。
「父も母も春風さんがいらっしゃるのを楽しみにしていましたよ」
わたしはシズカの兄の顔を、こういうとき適切な時間よりも5秒ほど長く見つめた。
(ちょっと、イケメンじゃないの?)
条件反射のようにわたしの顔に世界一魅力的な微笑みが浮かんだ。
「わたしもお会いするのを楽しみにしていました。緊張もしていますけど、お兄様がこんなに優しくて素敵な方なんですから、きっとご両親も素晴らしい方なんでしょうね」
「いえ、そんな……」
シズカの兄は気恥かしそうにうつむいた。
(シズカに少し似てる……)
妹のほうは兄を冷たく見ていた。
「お兄ちゃん、照れてる。ただの社交辞令なの」
「うるさい」
「本心ですよ」
「……どうも」
「ねえ、それより、お兄ちゃん、出かけるところだったんじゃないの? わたしが案内するから大丈夫よ。気をつけて行ってきてね」
シズカは兄に世話を焼いたけど、兄は妹を無視した。
「妹が迷惑をかけていませんか? シズカには強情なところがありますからね」
「あら、むしろわたしが助けられてばかりです」
シズカは無言で兄にクモを放った。シズカの兄は声にならない叫び声を上げて腕を振り回し、転ばぬばかりの勢いで飛びすさった。
「嫌ね、デレデレして」
シズカは頬を膨らまし、ぷりぷり腹を立てていた。その右手の親指と人差し指のあいだでは第二投目がなんとか逃れようと肢をわしわしと不気味に動かしていた。
シズカが兄を追い払ったため、わたしはシズカとふたりで母屋に足を踏み入れた。そじて玄関の次の和室でシズカの両親に迎えられた。父親のほうは灰色がかった緑色の着物を、母親のほうは浅葱色の着物を着ていて、なんとも古風で上品だった。夫婦は似るというけど、彼らには穏やかでどことなく浮世離れした雰囲気があって、わたしは思わず感嘆の吐息を漏らした。
(完璧じゃないの。素晴らしい。やっぱりこんなお屋敷に住んでる人はこうじゃなくっちゃね)
彼らは己に与えられた役割を一から十までわかっており、キャラ設定に大変忠実でいるようだった。
「はじめまして。シズカの父のエツオと、母のナホコです。いつもシズカと仲良くしてくれてありがとう。何かと不便な田舎の暮らしですが、必要なものがあればそろえますから、我が家と思ってくつろいでください」
わたしもすぐに姿勢を正して用意してきた挨拶を繰りだした。詳細は省くけど、春風ミユウの華麗なる自己紹介~攻略対象キャラのご両親にお会いしたときアレンジver.~で。
「ミユウはとても優秀なのよ。いつも学年トップの成績なの」
このような立派だからこそ自分で言うのはふさわしくない事実はシズカがすかさずフォローしてくれる。
「まあ。そうなの。すごいわね」
当然、と言わねばならないだろう。毎日4時間は勉強しているのだから。おかげで今日も勉強道具で荷物が重い。
シズカの両親との初顔合わせを首尾よく終えたわたしは、お盆だしご先祖様に挨拶したいと言って彼らを感心させるという点数稼ぎをし、仏壇の前で手を合わせ、しかるのちにわたしの私室として用意された部屋へ案内された。
ふかふかの座布団に座るとすぐに深川家のお手伝いさんが来て、部屋のポットからお茶を淹れてくれた。そのへんの蚤の市では絶対に手に入りそうにない骨董ものの湯呑からは緑茶の繊細な香りとあたたかな湯気が立ち上っている。
シズカは湯呑を手にとってゆっくり一口飲み、ほっと息を吐いた。
「おいしい。畳とお茶、やっぱりこれなの。落ち着く」
「同じ感想を向けてもらえない深川家の庭の悲しさだよね」
なぜこのような環境で育って、薔薇愛好家になるのか? 疑問でしかない。
「まあそれはさておき。シズカ、ちょっと言っておきたいことがあるんだけど」
「何?」
肩口で切りそろえられた黒髪がさらりと揺れる。
「うん。あのね、ここって本当、すてきなお屋敷だよねってことを伝えたいの。まずはね」
「あ、ありがとう」
「昔ながらの良さをよく保っててさ。まるでこの家だけ住人ごとタイムスリップしてきたみたい――そうだね、150年くらい前からかな」
「すごい。さすがミユウなの。その通り、築年数でいったらそれくらいになるのかな」
「まあ、うん、まあね」
「よくわかったね。すごい」
「うん……うん、ありがとう。150年前の建物を現役で使うって、すごくコストがかかることだと思う。現代の住宅のほうが圧倒的に安くて手入れが要らないもん。わたしなんかはそう考えちゃうんだけど、でも日本の固有の文化っていうのは、こういう家を手入しながら住み続けるような人たちが守り育ててくれてるんだなって、そういう感謝もあって……」
「やだ、何? ミユウ、いきなりどうしたの?」
シズカはころころと笑いだした。その笑顔を見て、やっぱり黙っておこうかなと思いかけた。
(いやいや。女たるもの、言いたいことは言わなきゃ)
わたしは決心して口を開いた。
「なんでクーラーがないって先に言っといてくれなかったの……シズカ……冷たいお茶が飲みたい……」
天気予報では最高気温38度。やたらに低気密な古式ゆかしい日本家屋。わたしの顔をスチームであぶる座卓の上の湯呑。冷暖房完備の快適空間で育った現代っ子には過酷過ぎる環境で、わたしは塩をかけられたナメクジの心地を疑似体験していた。
「ごめんね。すぐ用意するから」
シズカは、あらまあ、というように口に手を当て、のんびり立ち上がった。シズカでなければとっとと行けと蹴り出しているところだ。なぜ彼女はああも涼しい顔をしていられるのだろうと腹立ち紛れに思ったけど、部屋を出て行く後ろ姿に答えを見つけた。白かったうなじが、今やだいぶ日焼けしていた。もちろん園芸焼けだろう。シズカは一見深窓の令嬢に見えて、炎天下でも帽子ひとつかぶって長時間作業できるタフさを持っている。
しばらくしてお盆片手に戻ってきたシズカは、もう片手に持っていた扇風機の設置を愚かにもわたしに頼んだ。扇風機の首を固定し、わたしのすぐ後ろに置いて送風スイッチを押すと、ブラウスが帆のようにふくらんだ。シズカは氷がたくさん浮かんだ麦茶のグラスを茶托に載せ、竹の器に入った水ようかんを見栄えよく並べながら言った。
「ごめんね、クーラーはないの。この家、県の重要有形文化財だから、いろいろと制約があって……」
「ああ、うん……」
「大丈夫! 心配してるのはお風呂とかトイレとかのことでしょう? 水回りは裏に別棟を建ててそこに現代設備を集約してるから。さすがに毎日かまどでご飯炊くのは大変だものね。雨の日なんかはちょっと行くの面倒くさいけど」
「……なるほど」
とりあえずわたしの尿意を受けとめてくれる場所があると聞けてほっとした。
「お父様とお母様、すてきな方たちだったね」
「ありがとう」
もうすでに名前を忘れたことまで言う必要はない。
「お仕事は何をやってらっしゃるの?」
「母は翻訳家なの」
「お父様は?」
「書家よ」
「ああ、習字の先生なんだね」
シズカは首を左右に振った。
「ううん。教師じゃないの。単なる書家」
わたしは、ふうん、とだけ相槌を打った。あんな渋くてかっこいいおじ様がニートだなんて話はこれ以上聞きたくない。
「お兄様は?」
「大学生なの。医学部生よ」
「お医者さんになるんだね」
シズカの髪がまた揺れた。
「わたしは臨床医になるのは勧めてないの。ここの集落の素朴な人たちを変に期待させちゃうでしょ」
「……そういえば、おじい様やおばあ様は?」
「こんな田舎じゃ病院通いも難しいって、園生市の郊外に一軒家を買って住んでるのよ。この家もバリアフリーとはほど遠いし」
わたしは愛想笑いでうなずいておいた。
(都会に帰りたい!)
その日は何をするともなしにすごし、晩ごはんをいただいてからは、わたしの部屋で各々学園から出された夏季休暇の課題を消化していた。
(えーと、何? 各文の誤りを訂正しなさい……They succeeded to get that job. はThey succeeded in getting that job. に決まってるよね。succeed toのあとに来るのは名詞だもん。次、He apologized the teacher for coming to school late. ちょろい。apologize to+人 for ~ingの形にすればいいだけ。……簡単すぎる。何これ。時間の無駄)
「飽きた。ジョギングでもしてこようかな」
わたしはシャーペンを放り出して畳に寝転がった。
座卓の向かいに座っていたシズカは漢文のプリントから顔を上げた。
「ジョギング? 何キロ走るの?」
「10キロくらい」
そのほうがよっぽど有意義な時間の使い方に思えた。
園生学園は進学校らしく、夏休みの課題は最小限しか出ない。みんな誰に言われなくても勉強くらいやるし、それぞれの学習進度に合わせて自学自習したほうが効率的だから。でも残念なことに空気の読めない教師もいる。わたしは細々した問題が多量に印刷された演習ノートにもう飽き飽きしていた。
「やめておいたほうがいいと思う。ミユウ、土地勘ないでしょう? 暗くなって帰れなくなっちゃうかもしれないもの」
「方向音痴じゃないつもりだけど」
「都会にいる感覚でいたらだめなの。都会なら道も舗装されてるし、街灯や建物があって明るいし、いざとなったらタクシーをつかまえればすむけど、ここはそうはいかないの。家もまばらにしかないし、ガードレールがないところもあるし、田んぼに落ちるならまだいいけど、ここは山だからね、もし谷に落ちちゃったら……。流しのタクシーだってないのよ。このあたりじゃタクシーは道でつかまえるものじゃなくて配車センターに電話して来てもらうものなんだからね」
どうやらわたしは田舎というものを勘違いしていたようだった。わたしのような世界一の美少女でも夜中に出歩ける安全な場所だと、てっきりそう思っていたのに。
「……ジョギングはやめとく」
シズカはうなずいた。
「するなら朝がいいと思うの」
それきりシズカは漢文のプリントに意識を戻してしまった。
(つまんなーい)
体を起こしてもう一度英語の演習ノートに取りかかろうとしたけど、一度切れた集中はすぐには取り戻せなかった。ため息をついたり髪を弄んだりしているうちにお手伝いさんが、お風呂が沸いたと呼びに来た。客人であるわたしに一番風呂が回されたことは明白なので、さっさと入らなければ後がつかえるだろうと立ち上がった。
深川家のお風呂は現代設備を用いながらも、家主の古風な趣味がこらされた豪華なものだった。内風呂は総ヒノキの大きな湯船で、巨大な植木鉢のような焼き物の湯船に竹筒からお湯が注ぎ込む露天風呂まであった。お風呂から見える庭の美しさまで申し分ない。
「広いじゃん。明日はシズカと入ろうっと」
わたしは大変満足してお風呂から上がり、部屋へ戻る途中ではたと気づいた。
(このまま帰っていいの?)
手入れを欠かしたことがない湯上り卵肌からはほかほかと湯気が立ち上り、桜色の髪はしっとり濡れそぼって――とはいかないけど――傷まないようにすぐに乾かしちゃったから――いつものように美しく、可愛いルームウェアに身を包まれている。
(今のわたしの姿、どこかのイケメンに超アピールしたい)
幸いこの家には未婚のイケメンがいた。
(深川ミユウか……悪くないんじゃない?)
わたしは豊かな想像の翼を大きく広げながら、母屋をしばらくうろうろすることにした。無理もないことだと思うけど、慣れない家の間取りに戸惑い、自分の部屋がどこだったかうっかりわからなくなってしまったのだ。
(いやあ、まいったまいった)
そういうことで、困っていて心細くなっている可憐でたおやかで水の滴るような美少女のわたしを偶然見かけたイケメンが助けてくれるのを待った。けっこう待った。
(まだかなー? まだかなー? そろそろ扇風機の風に当たりたいんだけどなー……)
額の汗をぬぐって、服の胸元をつかんでパタパタと動かした。
(全生命体の中で一番綺麗なわたしの湯上り姿を見逃してもいいの? さあ現れるなら今だよ! イケメン! ほら! ……あ、やっぱちょっとやめて今は胸のところにニキビできちゃってるじゃんもうだめだ帰ろう)
「――あれ、春風さん?」
(今はだめだってばあああ!)
「春風さん?」
「トモヒロさん……」
ためらいがちな声が何度もわたしを呼ぶので、仕方なく半泣きで振り返った。
(ニキビ……ニキビだなんて……)
「どうかしました?」
(ニキビ……)
言うまでもなくわたしのテンションは落ちていた。こんなにスキンケアには気を遣っているのに肌が荒れてしまうなんて。それなのに、どうかしました?とはのんきすぎないだろうか? 世界の宝石である春風ミユウの肌にニキビができたというのに。とはいっても自分から吹聴したい話ではない。
「あの……自分の部屋の場所がわからなくなってしまって……」
当初の予定通りの台詞をなんとか口にしたけど、涙目は隠せない。
シズカの兄は何度か瞬き、小さく笑った。
「こう言ったら失礼ですけど、意外と抜けたところもあるんですね」
普段なら何か気の利いた言葉を返せるのに、このときはわたしのプライドの枠をすり抜けてこの程度の些細な言葉が胸に突き刺さった。
「…………」
「本気で落ち込んでるじゃないですか。うわ、すみません。さっきの言葉は取り消します」
「いえ、いいんです……」
バービー人形やリカちゃん人形にニキビはあるか? 否だ。対して自分は? 今の春風ミユウは完璧な女の子ではない。
シズカの兄に付き添われて床に飛びだした金魚のように喘ぎながら部屋に戻ったわたしに、シズカは驚いて駆け寄ってきた。兄が事の次第を話すのを聞いて、あろうことかシズカまで小さく笑っていた。




