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8月 盂蘭盆会

――side: 深川シズカ


 夏といえば、日本人にとって大切な行事がある。言うまでもなくお盆だ。正式には盂蘭盆会といって、ご先祖様の霊があの世から戻ってきて、また帰っていくという日本古来の信仰と仏教の行事が結びついたものとして理解されている。とはいっても、信仰心も人それぞれなら地域によって民間信仰や宗派の影響もそれぞれなので、お盆の迎え方や過ごし方もいろいろ違ってくると思う。ミユウは、東京は7月15日を中心にやるんだよと教えてくれた。でもわたしの地元ではたぶん農業の関係で、地方の農村にありがちなように8月にやっていた。


「シズカちゃんも実家に帰るんだ?」

 橙花先輩は片手で目の上に庇をつくってまぶしそうにしながら尋ねた。わたしは先輩が持ってきてくださった差し入れのアイスを時間稼ぎに一口かじり、目元を険しくした。

(実家に帰る?)

 果たしてそんなことが可能だろうか?

(わたし、からかわれてるの? それともまさか、……本気でおっしゃってる? 本気で、この庭を放って、よそにいくのかと訊かれてるの?)

 わたしは困惑して橙花先輩を見つめた。

「……シズカちゃん?」

 わたしの魔法の花園が真夏のきつすぎる日差しを浴びて火事場のように熱されている。日が落ちてきたら水をたっぷりあげなければ、薔薇たちはみんな乾ききって死んでしまうに違いない。それにわたしがいなければ、誰が花がら摘みをやってくれるというのだろう? 害虫や病気が、わたしが留守の間は遠慮していてくれるとでもいうのだろうか?

「あれ、何、気が進まない感じ?」

「だって薔薇が……」

 その瞬間、橙花先輩の顔をかすめたかすかな呆れを、わたしは見逃さなかった。

「そう、薔薇ね。なるほど、そうだよな」

「…………」

「いや、大切なことだよ、もちろん。責任を持って生き物を育てるって当然だけどなかなかできることじゃないし」

「…………」

「ほんと、シズカちゃんは立派にやってるよな。すごいことだと思う」

「…………」

 わたしはアイスをもう一口頬張った。おいしい。

「それ気に入った? また差し入れ持ってくるよ。ほんと最近暑いからさ、シズカちゃんも夏バテしないように気をつけて……」

「ありがとうございます」

「ああ、うん……」

「…………」

「……あー、あのさ、オレにもできることがあったら手伝うから」

「……本当ですか?」

 橙花先輩は、悪かったよ、というように微笑んだ。

 わたしは自分のライフワークについて人から馬鹿にされるのが大嫌いだった。でも、以前ならこんな無礼な態度をとることができただろうか、とふと気づいた。家族でもない、しかも年上の男の人に。

(まさか!)

 気づいてしまえば、女の子を甘えさせてくれる、こういうところがモテる所以なんだろうなと、感じ入るしかなかった。

「ではお言葉に甘えてもいいですか?」

「どうぞ」

「12日から16日まで実家に帰ろうと思います。やっぱりご先祖様に不義理をするのは申し訳ないので。そのあいだだけ、この庭を見ていてもらえませんか? 何か変わったことが起きていたらわたしに連絡ください。さっと見て回るだけでいいんです。……橙花先輩さえよろしければですけど。何かご予定はありました?」

 橙花先輩は受験生なので、何もなくともこういう頼みごとはすべきではないのかもしれない。でも先輩はわたしと違って無理なら無理と、嫌なら嫌と言える方なので、思いきって頼んでみた。

「いいよ。予定なんて勉強だけだし」

 あっさりうなずいた先輩は、スマートフォンを取り出した。

「連絡先教えてくれる? 何かあったら報告すればいいんだろ?」

「えっ」

「ん? 何?」

 わたしは今さらりと言われた言葉に虚をつかれた。

「れんらくさき?」

「そうだけど……。嫌?」

「いえ、そういうわけでは! でも、いいんですか?」

「なんで?」

 橙花先輩はどことなく面白がっていた。

「だって……」

 橙花先輩の個人的なメールアドレスや電話番号がこんな風に手に入るなんて、思ってもいなかった。園生学園の女子生徒なら誰もが欲しがると言っても過言ではないかもしれない、橙花チトセの、直通の、連絡先だ。ユウコですら感心して眉を上げるだろう。でも正直にこんなことを言うのはあまりにもたしなみがなさすぎる。

「えーと、あの、といいますのは、前に赤葉先輩に連絡先をうかがったら、執行部のグループウェアでやり取りをしたほうが効率的だとおっしゃって……」

 断られちゃったんですよね、と喋りきる前に橙花先輩が笑いの発作に襲われていた。いわゆる遠慮のない爆笑というやつだった。わたしが落ち込んでいるあいだも橙花先輩は今世紀最高のジョークを聞いたかのような勢いで笑っていて、夕焼け色の目に浮かんだ涙を指で払って、馬鹿だなあ、と呟いた。

「そ、そんなに笑うことないじゃないですか」

「ごめんごめん、違うんだよ。ははは。いや、いかにもキョウスケらしいなと思ってさ」

「どういうことですか?」

「だって、せっかくシズカちゃんと連絡先を交換するチャンスだったのに」

「はあ」

 チャンスも何も、赤葉先輩はわたしに関心がなかったというだけのことだろう。

 橙花先輩は、オレは違う、と言った。

「オレはあいつほど馬鹿じゃない。連絡先、交換してくれるよな」


「――それで、庭の世話は橙花先輩が引き受けてくれたんだ?」

「うん。そうなの」

「よかったね。それで、連絡先までゲットしたんだよね?」

「うん、まあ」

「すごーい。うわー、どうしよう! わたし引き離されてる! あのふたりのライバル心を利用するなんてシズカったら意外と悪女! そっか、その手があったんだ!」

「違うって! もーミユウったら!」

 ミユウを軽く叩く真似をすると、ミユウは狭い車内で身をよじって可愛らしくくすくす笑った。

「もう! 丸山さんもいるのに、変なこと言わないで!」

 運転席のお手伝いさんをルームミラーで盗み見しながら言うと、彼女は、何も聞いていませんよ、と言って微笑んだ。もちろんそれを信じるほどわたしは世間知らずではない。わたしは昔から丸山さんが一方通行の放送局なのではないかと疑っている。橙花先輩の話はじきに両親の耳に入るだろう。

(別にいいけど! 何も後ろめたいことなんかないもの)

 口をとがらせてシートにもたれると、ミユウのしなやかな手が横から伸びてきて悪ふざけを詫びるようにそっと肩を撫でた。それだけで嬉しくなって、まあいいかと思えるのだから、美人ってずるい。

「……そういえば、橙花先輩自身は、お盆はどうされるのかな?」

「橙花先輩のご実家も東京で、もう行事としては先月やったっておっしゃってた」

 わたしは橙花先輩の美しく幾分シニカルな横顔を思い出した。先輩は、盂蘭盆会は逆さまにつるされた苦しみという意味なのだと話していた。地獄に落ちて苦しんでいる霊を救うために供養を営むことなのだと。

「だからもしかしたら深川家では必要ないかもな。でも橙花家はそうはいかない。ご先祖様は間違いなくオレたち子孫の手助けを必要としてるよ。まあご先祖様のおかげで何不自由ない暮らしをさせてもらえてるわけだし、明日は我が身だと思えば、できるだけのことはしてやらなきゃなって気にもなるだろ?」

 わたしはこれを聞いて、なるほど、と思った。いつか使える言い訳として頭の中のメモ帳に赤ペンで書きとめておいた。つまり、わたしがもしお盆に帰省したくないと思ったら、こう言えばいいのだ。深川家のご先祖様はみんなとても立派だったと聞いている、そんな彼らがまさか地獄へ落ちたはずはない、だとしたらなぜ亡霊を苦界から救うなどということが必要なのか、あなたはご先祖様をろくでなしだと言いたいのか、と。園芸家という人種が庭やそこに生えている植物のためならいとも簡単に良識というものを無視できるという事実があまり世間に知られていないのは不思議でならない。


 真夏の殺気だった交通渋滞に車を乗り入れるのは考えものだったけれど、園生市の西を流れる一級河川にかかる橋を渡りきってしまえば、あとはそれほどストレスなく進んだ。対向車線では相変わらず混雑がひどく、バンパーを接するばかりに連なる車は蜿蜒長蛇の列をなしていた。

「今日が土曜日ってことを差し引いてもさ」

 ミユウがうんざり顔でぼやく。

「園生の一体何が年々歳々これだけの人出を誘うのかな?」

「さあ……でも夏休みだからね。何かな? 港町の雰囲気と、古き良き街並みと、有名な神社仏閣? でもミユウは東京に住んでたんでしょう? 毎日これ以上の狂騒なんじゃない?」

「別にわたし、それが気に入ってたなんて言ったことないけど」

 ミユウはミントグリーンのシフォンスカートを神経質に引っぱりながら言った。

「もう車は見飽きた」

「それなら心配ないみたい。わたしの地元、すごい田舎だもの。帰るころには人ごみも車の大群も恋しくなってると思うの」

 わたしは自信たっぷりに請け合った。


 そこから1時間も走れば周囲は田んぼとまばらに家があるのみの土地が広がるようになり、海岸を離れて山間に入ればまとまった平たい土地にもお目にかかることはなくなった。ただあるのはひたすらうっそうと茂る木々と地形に沿ってくねくねと曲がる細い道路、砕石を満載にしたダンプカー、小さな路線バス、点在する集落――。

「ここも現代の日本なんだね」

「なに馬鹿なこと言ってるの。もう着きそうだけど、大丈夫? 車酔いしてない?」

「うん、平気。ありがとう」

 ミユウは興味深そうに窓の外の景色を飽きもせず眺めていた。

 やがて車はひとつの大きめの集落に入り、わたしの実家の梅林の前で停止した。ミユウはまだわたしが何も言わないうちから車外に出、体いっぱいに深呼吸をしていた。わたしもミユウにならって外で深呼吸をしてみたけれど、湿気を多く含んだ暑気が肺に入ってきて胸を悪くしただけだった。

「あつーい! けど綺麗なところだね!」

 ミユウはピンク色の髪をかき上げてにっこり笑った。ミユウの美しさにつられて、背景のただの限界集落が桃源郷のように見えた。

「そう? まあとにかく芳田へようこそ」

「連れてきてくれてありがとう。シズカってここで育ったんだね。横溝正史の世界みたい。すてき」

 微妙に失礼なことを言われた気がした。

「八つ墓村はないけど……」

「そうだね。田治見家もないんでしょ? 那須湖もなければ犬神家もないしね」

 その通り、とわたしはうなずいた。

「でも深川家はある」

 ミユウはさっと身をひるがえし、梅林の奥に建つ瓦葺の門を見つめた。

「わお! さすが大庄屋だった面影があるね」

「……うーん……」

 どう返事すればいいのかよくわからなかった。わたしは深川家の伝統の末尾に座っているだけだし、深川家の蓄財はわたしの才覚や努力によるものではないし、衰退に向かって一直線に進んでいる地域だし、ミユウだって似たり寄ったりの家柄だろうし、そもそもゲームの中だし……。

 ミユウはわたしを戸惑わせたことにもかまわず車のトランクを開けて荷物を引っぱりだし、丸山さんとどちらが持つ持たないの争いをしていつものように勝利をおさめていた。わたしも自分の荷物を持ち、丸山さんには車を車庫に入れてくるように言った。ミユウを促して梅林の中の石畳を歩きはじめたとき、ミユウは急に足を止めた。

「ねえ……ねえ、シズカ、ちょっと待って。わたしなんだか緊張してきた」

「え?」

「わたしの格好、変なところない? ちゃんとしてる?」

 わたしは上から下までミユウの姿を眺めた。これからシャンプーのCMだってやれそうな髪に文句のつけどころのない顔、ベージュのブラウスとミントグリーンのシフォンスカート、パンプスに包まれた足まで上品にまとまっている。

「してると思うけど……」

「思うって何?」

 しいていえば、ちょっとおしゃれすぎるかもしれない。銀座ならしっくりきそうだけれど、都会っぽすぎてここでは少し浮いて見えることは否定できない。顔立ちも雰囲気も垢ぬけすぎている。だからってここのレベルに合わせろというのも無理な話だ。

「ううん、すごくいいと思う」

「そう? あ、じゃあ手土産は? 和菓子って無難すぎた?」

「俵屋和久富さんの和菓子なら間違いないの。数も十分だし。それに、手土産に関してはもう今さらじゃない?」

「だよね。気に入ってくださるかなあ?」

 柳眉が不安そうに寄せられた。

「いつもの自信はどうしたの、ミユウ?」

 ミユウは落ちつかなげにそわそわと足を踏み変えた。

「わたし、友だちの家にお呼ばれするの、初めてなの。初めてなのにいきなり4泊5日とかハードル高すぎない? 親しくしてる親戚だってそんなに泊まらないよね? それが初対面で4泊5日とか頭おかしいよね? どう考えても迷惑だよね? なんでわたし来ちゃったんだろ? 帰る」

「はい? 待って! どうやって帰るの?」

「歩いて帰る」

「どうしちゃったの!」

 わたしは本気でびっくりして叫んだ。

 こういっては何だけれど、どうしてミユウがわたしの家族なんかに気後れしているのかさっぱりわからなかった。賭けてもいいけれど、ミユウと家族が対面したとき、どう振舞っていいかわからず死ぬほど困惑するのはうちの家族のほうだと思う。彼らはわたしのことだから連れてくる友だちは同じような地味なタイプだと思っているはず。両親や兄の驚く顔を楽しみにしていたというのに。

「迷惑なんかじゃ全然ないの。だめなら誘ったりしないの。わたしの両親、すごくミユウに会いたがってた。ここで帰らせたりしたらわたしが怒られちゃう」

 両親はお友達を誘ってたまには帰ってきなさいと言っていた。ユウコも誘ったけれど、そちらは誘う前から答えはわかっていた。仮にカフェとか外で会って紹介するならOKだっただろうけれど、さすがに実家にお泊まりは、彼女には無理だったのだろう。

「ね、お願いだから来て。ミユウが来るんじゃなきゃわたしだって帰省なんかする気なかったんだから」

「そんなこと言ってると父さんと母さんが悲しむぞ。……玄関先で何やってんだ?」

 突然、ため息まじりの聞き覚えのある声が後ろから降ってきた。

「お兄ちゃん?」

 振り仰ぐと、怪訝そうにわたしたちを見下ろす兄の視線とぶつかった。緊張したミユウの顔がぱっと上がった途端、兄の涼やかな目が見開かれた。

「あ、そうだ、ミユウ、この人はわたしの兄のトモヒサ。それで、お兄ちゃん、この子が――」

 そこから先をわたしが言う必要はなかった。わたしの浮ついた早口にとってかわって、完璧に落ち着いたしとやかな声が役目を奪っていった。

「はじめまして。園生学園でシズカさんと親しくさせていただいています、春風ミユウと申します。このたびはお招きいただきありがとうございます。優しいお言葉に甘えまして、長い間お世話になります。不束者ですがよろしくお願いいたします」

 頭を下げる仕草は優美そのもの。完全にいつもの彼女だった。わたしは面食らって瞬いた。

「ああ……こちらこそ」

 兄はなんとかそう言って恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「ようこそ深川家へ。こちらへどうぞ」

 兄はそのまま一歩下がり、玄関の方へミユウを案内した。ミユウは感謝をこめて微笑み、兄のエスコートに身を任せた。わたしはいまだ面食らったまま、ほったらかされた猟犬のようにふたりの後を追った。


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