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8月 あなたにはわからない

――side: 深川シズカ


「ねえ、ちょっと、ミユウ! どうしたの? 大丈夫?」

 わたしは人ごみの中を縫うようにすり抜けながら、先を行く背中に追いすがった。何度も誰かとぶつかりそうになって四苦八苦するわたしと違って、ミユウの足運びはよどみなくすいすいと進んでいく。

「ミユウ!」

 腕に飛びつくと、やっとミユウは振り向いた。

「ちょっと! あんたたち待ちなさいよ」

 後ろからユウコも追いついてきた。頬が赤らみ、秀でた額から汗が流れおちているのを手の甲で拭っている。

「置いていかないでよ。暑いのに走らせるんじゃないわよ」

 ユウコがぶつぶつ文句を言う。ミユウは無感動に肩をすくめただけだった。

(あれ?)

 わたしとユウコは顔を見合わせた。

(やっぱりおかしい)

 ユウコまで心配そうにミユウの顔をのぞきこんだ。

 いつもならミユウは茶目っ気のある笑顔で、ごめん、と言う場面だった。なのに今はおどけるのはおろか、口を開くのも億劫そうに見える。

「どうかした?」

 ユウコが尋ねるけれど、ミユウは首を振るばかり。

「体調悪い?」

「そうじゃないよ」

 ミユウはまた足を進めだした。

「ねえ! さっきのこと気にしてるの?」

「別に」

 しかしミユウのようすが変わったのは紺野先生のマンションを出てからのことなので、リビングルームでのあのやりとりの中に原因があることは誰にでもわかる。

 ユウコはミユウに並んでつかつかと歩きながらなおも問うた。

「わたしがミユウの味方をしなかったのが引っかかってるの?」

「まさか」

「紺野先生と親戚だって黙ってたから気を悪くしたの?」

「違うよ」

「レイの面倒を見させてもらえなかったことが気に入らないの?」

「違うったら」

「じゃああんたのその態度は一体何?」

 ユウコがとげとげしい言葉を放ったことでミユウの顔色が変わった。

「気に障るなら放っておいて」

 ふたりのあいだににわかに怒気が立ちこめてきた。

「何に苛々してるのかは知らないけど、それでわたしやシズカを振り回すのはやめてよ」

「前々から思ってたけど、そういう言い方ってなんとかならないの? 詰問調で訊かれて誰が心を開いて素直に話すの?」

「今空気を悪くしてるのは、ミユウ、あなたの態度でしょ! それを非難されたからってわたしの欠点を攻撃しないでくれる?」

「……どうせユウコにはわかんないよ」

「何も言ってくれないのに察しろっていうの? わかるはずないでしょ。他人には理解されないわたしっていつまでも憐れんでれば! シズカ、行こう」

 わたしは躊躇った。

「……ふたりとも、喧嘩はやめて。道の真ん中なのよ」

「ええやめるわよ。今日はもう解散ね。付き合ってられない。シズカ、ミユウのことは今日は放っておきましょ。本人もそれがお望みのようだし」

 ミユウはユウコを睨みながら言った。

「――シズカならわかってくれる」

「シズカの察しはいいけどエスパーじゃないわよ」

 そしてユウコは再度わたしを誘った。

 わたしは足を一歩動かした。ミユウのほうへ。

「……ごめん、ユウコ。わたし、もう少しミユウについてる」

 ユウコの柳眉が跳ね上がった。

「ごめん。でも――」

「そういうこと」

 ミユウがわたしの腕をさっと取った。

「じゃあね」

 そのままミユウは雑踏の中をずんずん進みだした。わたしも引っぱられるように歩き出す。ミユウは一度も振りかえらなかったけれど、わたしは何度も振り返った。ユウコはその場から動かず、わたしたちが去っていくのをずっと見ていた。腹立たしさと悔しさのにじむ目で。


 ずんずん進んでいたミユウは、区民館前の公園まで来るとようやく速度を緩め、わたしの手を離した。

 夜の公園は近くの商業施設群から届く灯りのおかげで十分明るく、たくさんの人がいた。駄弁っている大学生のグループ、ぼんやりしているサラリーマン、隅の方にはホームレス。わたしたちは彼らに占拠されていないベンチを見つけ、そこに座った。

 ミユウは長い間黙っていた。苛々して、ミニスカートを引っぱってみたりブレスレットをいじってみたりしていた。話しかけられることを拒む雰囲気があって、気が滅入ったもののわたしも何も言えなかった。

 時間をおいたことで、ミユウも徐々に落ち着きを取り戻したようだった。

「……ようやく頭冷えてきた。もう大丈夫だよ。こんな時間まで連れまわしてごめんね」

「わたしはいいけど……」

「わかってる。今日はもう遅いから、明日ユウコにも電話で謝るよ」

「ゲームのことよね、考えてたのは?」

「うん」

「ユウコにはわからないなんて、たしかにその通りだけど、あんなこと言うのはフェアじゃないと思う。ユウコ、傷ついてた」

「もう二度と言わない」

 ミユウは宣誓するように挙手した。

(よかった)

 表情にはいつものからかうような茶目っ気が戻ってきつつあった。

 わたしはベンチを立ち、公園の入口にある自動販売機で冷たいお茶のペットボトルを2本買ってきた。1本をミユウに渡し、座りなおしてわたしも飲み始めた。

 ミユウの態度の変化は一体何が理由なのだろう? ベンチに座っているあいだ中ずっと考えていた。

「ねえ、くどいと思うけど、もう一回訊かせて。ミユウは本当に紺野先生のこと好きじゃないのね?」

「当たり前だよ」

 ミユウは事もなげに言い切った。

「そりゃ、先生の人柄なんて知らないよ。好きになる可能性が皆無とは言わない。ひょっとしたらすごく好感のもてる人物で、この人となら残りの人生を共にしたいって思えるようになるのかもしれない。でも、うーん、今は考えられないな。だって考えてもみてよ。もし攻略できたとして、わたしたちは生徒であっちは先生だよ? 生徒に恋愛感情を抱くわけ? それで手を出すの? 生徒の親に何て言うつもりなんだろ? 好きになったら許されるの? どういう職業倫理を持っているのか聞かせてほしいよね。

 これがさ、創作の中の世界だったら構わなかったよ。生徒と先生の秘めた関係なんて素敵って思えたかも。障害は気持ちを盛り上げてくれるよね。学校や同級生たちにばれないか冷や冷やしながら逢い引きして愛を深めて、関係をどこまで進めるか悩んだり、たぶんヒロインの両親にふたりの仲を認めてもらうストーリーとかあって、それも楽しめたと思うよ。でもリアルになると話は別だよね。急にそういう魅力が遠のくっていうか……」

「わかる」

「生徒をそういう目で見てるって思うだけで引くよね。尊敬できないし、それだけで人間性を疑っちゃう。勝手な言い草だとはわかってるけど」

「うん」

「人懐っこいゴキブリを見てる気分」

 あまりの言いように、先生に悪いと思いながらも笑ってしまった。

「言いすぎ。でもじゃあなんでわざわざ関わろうとするの?」

 雲間に青白くきらめく月光と街の明かりとに照らされたミユウの顔はあどけなく、憂鬱と愉快の念の混ざった表情に揺れていた。

「わたしさあ、乙女ゲームやるの、これが初めてじゃないんだ」

 細い手が汗でうなじに張りついた髪の毛を鬱陶しそうに払いのける。

「初めてのやつは――タイトルは何だったかな――とにかく西洋ファンタジーものでね、王宮の侍女がヒロインなんだけど、王子様や騎士や侍医や庭師なんかと恋愛できるっていうやつだったんだ」

「身分にすごい幅があるけど」

「うん。こいつらみんな吸血鬼なんだよ。そうなってくると身分なんて些細なことだよね」

「そうかも」

「でね、ヒロインが、何食べてたのか知らないけど、おいしそうな血の匂いがするってつけ狙われるわけ」

「ホラーなの?」

「乙女ゲームだってば。日々の仕事をこなしながら吸血鬼たちを攻略していくんだよ。でもさ、攻略っていったって……。そう思わない? 自分が食糧的な意味で当てにされてるのがまず嫌だし、殿下を落とすなんて不敬極まりないし……いやいやこれはゲームなんだからって言い聞かせて、混乱しつつもプレイを始めてみたんだよね。

 いざ始めてみると結構楽しいの。侍女って第一王子の秘書みたいな役職なんだけど、うまく仕事を采配したり、王子様のために紅茶を淹れたりね。厳しいけど目をかけてくれてる侍女長さんもいるし。自分だったらこうするなっていう受け答えや選択肢を選んでて、しばらくはそれでよくやってるつもりだった」

「違ったの?」

「気がついたらわたし、侍女として大成してエンディングを迎えてた」

 ミユウは未だにびっくりしているかのように目を見開いた。

「あれ?っと思った。こんなゲームだった?って」

「何というか……」

「違うよね。わたし、誰か攻略対象を落として、最後でふたりのラブラブなムービーを見るつもりだったんだよ。侍医とのうれし恥ずかし妊娠発覚エンドでもよかったし、第二王子との愛の逃避行エンドでもよかった。最低でもメインヒーローの第一王子との、婚約の儀からの国民に祝福されるエンドは余裕だと思ってた。ところが……いやはや、現実は二次元の中ですら厳しいんだね。もうね、呆然としたよ。なんでこうなったのか皆目わからなかった。だってわたしは、社会人なんだしいい加減な仕事はできないと思って、遅刻もせず、ちゃんと真面目に務めてたんだよ。仕事中の呼び出しには応じなかったし、誰かに馴れ馴れしい口を利いたこともなかった。仕事が終われば折り目正しく自室に戻って、夜中に物音がしても絶対に起きて見に行ったりはしなかった。

 侍女長に役目を譲渡されるエンディングのムービーを呆然と見ながら、何が悪かったのか真剣に考えた。非常識な対応はしてないし、働きぶりもよかったはず。わたしのそういうところをヒーローたちはちゃんと見てくれてると思ってた。完璧な侍女だった。そう、完璧な侍女だった、それだけだった」

「それは、ミユウの性格の問題じゃないの。娯楽に真面目な考えを持ちこみすぎただけ。ただのゲームなの」

「そうかもね。でもわたしは敗北感でいっぱいだった。だからリベンジを誓ったの。同じゲームをする気にはなれなかったから、違う乙女ゲームを選んだ。もっと簡単そうなゲーム――身分差のない世界で、仕事にもついていなくて、吸血鬼とかわけわかんない設定もなくて、ヒーローと自然に接することのできる舞台設定――学園物の、この『エデン』をね」

「そうだったんだ」

「前回のわたしに足りなかったものは何だと思う?」

 ミユウはもう明白な答えを見つけているようだった。わたしは乙女ゲームの遊び方をよくわかっていなかっただけだろうと思ったけれど、話の腰を折りたくなくて期待された答えを返した。

「……冒険心?」

「うん、わたしもそう思った。それから積極性、媚、望みをかなえる意志の力。わたしはこの世界がエデンの世界だって気づいたときに、今度こそ、と思ったんだ。それで努力した。平凡で無難なところを跡形もなく外科的に取り除くような離れ業をやってのけなきゃいけなかったから。もう二度と完璧な侍女なんかになるつもりはなかった。完璧な女の子になりたかった。変わりたかったの」

 圧倒されるくらいの決意と力強さにあふれた声。

(ミユウってなんだか、こんな頓珍漢なところもあったのね)

 わたしは呆れとともに思った。

(完璧な女の子になる努力を、どうして意志薄弱な人ができるの? ミユウって意外と自分のことがわかってない?)

 ミユウには理想があり、目標があり、それに邁進していける気概がある。これらは彼女本来のものだと思う。努力をしているから報われなければ苦しくて、目標をしっかり持っているから達せられなければ自分を責め、理想を掲げているからギャップに打ちのめされる。ゲームだからというわけでなく、普段の勉強や部活動に対する姿勢を見ていても、彼女は常にそうだった。『ぱっとしない』や『没個性』で表現されることの決してない人間だっただろうと思うのに。

「積極性、冒険心か……そっか。それでいろんな人やいろんなことに関わろうとするのね」

 ミユウはうなずき、不安そうに言った。

「わたし、本当に変われたのかなあ? もうわかんないよ」


 地下鉄の中でミユウとは別れ、わたしはひとり駅のホームに降り立った。階段を上って改札を通り、地上に続く階段をさらに上っていく。園生の暑い夜気の中に戻ってくることには背中が軽く汗ばんでいた。

 胸の中にはもどかしさや気後れが渦巻いていた。ミユウに何と言葉をかければよかったのかわからなかった。今の生活に満足してあれほどの熱意も決意も持っていないわたしの言葉が、ミユウの心に響くとも思えなかった。

(何やってるんだろ)

 サンダルに包まれた足先に目を落とす。デパートで適当に選んだサンダル。

(だっさいな、わたし)

 ミユウのサンダルはもっとおしゃれでヒールが高く、爪先にはぬかりなくペディキュアまで施されていた。彼女は自分とはまったく異なるノリでこの世界に来ている。心構えがまるで違う。そのことを今さら感じ取ったのだ。

 ミユウの思いを理解はしたいし、少しでも助けになりたいと願っている。でも共感できない。わたしは何の動機もなくこの世界に来てしまった。いつも一緒にいるのに、わたしたちは全然異なるところに立っている。

 寂しさが、津波のように押し寄せてきた。


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