8月 幼女
――side: 紺野カオル
思いもかけないことというものは、当然のように思いもかけないタイミングで、思いもかけない形で身に降りかかるものだということを、オレは嫌になるほど思い知らされるに至っていた。
そもそも人生は予定調和で満ちている。オレが紺野家という名流の家系に生まれたことは偶然だったかもしれないが、園生学園の幼稚園に入れられたことは既定路線だったし、その後もエスカレーターに乗って内部進学を繰り返してそのままとうとう大学まで卒業するところまでは、少しでも物が考えられるようになった歳には予想がついていた。自分の人生が半ば決められていると感じることに反発を覚えなかったわけではない。しかし、だからといって何かをしたわけではなかった。ただ園生学園に籍を置く人間らしく振舞っていたような記憶がある。そうだ、オレは、これが自分の人生というものだと――距離を置いて他人事のように冷笑していただけだった。
誤った選択をした覚えはない。教員免許を在学中に取得し、母校に勤め出したのも自然な成り行きだった。同僚たちが次々と結婚して子どもをなしているのを、自分には縁のないことだと考えているのも、自らの性格からすれば仕方がないと思う。合理的な選択の結果の予定調和。カーナビを無視して当てずっぽうで滅茶苦茶に車を走らせたことはなかったし、ガソリンスタンドに車を入れて給油してもらいがてら尋ねた道筋を無視して進んだこともなかった。だというのに、なぜ現在オレは途方に暮れているのか――迷子になりかけているのか。これはもう謎だった。
――昨日のことだった。
「カオル兄さん、しばらくこの子を預かってほしいの」
突然オレのマンションに押し掛けてきた妹はとんでもないことを言いだした。お互い社会人になったここ数年はあまり会うこともなくなっていたが、仲良くもなく、かといって悪くもない、ごく一般的な兄妹仲だったと思う。
「お前、何を言っているんだ?」
「だから、しばらくこの子を預かってほしいの」
妹は己の主張を繰り返した。
「おい」
「いい顔されないのはわかってた。でもお願い」
ワンピースを着せた娘の肩に手を置いて申し訳なさそうに言う。4歳の娘は不安そうに母とオレの顔を交互に見つめている。
「なんでオレなんだ」
「だって、こんなことタツヤ兄さんにはとても頼めないもの。カオル兄さんは昔からわたしのこと気にかけてくれてたし……。それに、今は夏休みで学校もお休みなんでしょ?」
オレはため息を我慢できなかった。どうも、世間に学校の教師という職は誤解されている。長期休暇で生徒たちが学校に来ないあいだは職員室のテレビで野球中継でも見ていると思われているようなのだ。実際は授業計画を作成したり部活動のコーチをしたり研修に行ったりでそれなりに忙しいのだが。
「オレは暇じゃない」
「そうよね」
妹の声の抑揚は慎重にコントロールされていた。下がった眉と力ない微笑みは、それだけを見ると落胆を示していた。しかし妹との付き合いももう32年になる。こめられた苛立ちをかぎとれないほど鈍感でも無関心でもなかった。
妹は投資運用会社を経営している。大学卒業後は国内最大手の証券会社に就職し、そこですぐに頭角を現した。大学時代から交際していた男とも結婚し、公私ともに順調そのものだったようだ。数年後、妊娠を機にそこの会社を退職した妹は、出産後、以前仕事で付き合いのあった投資運用会社の経営に加わるようになった。今では共同経営者になり、有価証券や投資信託を運用して会社の半分近くの利益を稼ぎ出しているらしい。当然彼女は忙しい。オレよりもよほど。夫に構う余裕もなく、3年もあの男の浮気に気づかなかったくらいには。妹はシングルマザーだ。
「仕事の都合か?」
「そう。海外に出張するのよ。週末までロンドン、金曜日までニューヨーク。土曜日には東京に帰って来られるわ。だから2週間後の日曜日までこの子を預かってほしいの」
「人を雇えばいいだろう」
「急に2週間も泊まり込みで世話をしてくれる人も託児所も見つからなかったのよ」
「急って、いつ日本を発つんだ?」
「明日」
頭痛を覚えた。
「馬鹿かお前は! 子どもはどうするんだ」
「だから兄さんに頼んでるんでしょ!」
「子どもより仕事をとるのか!?」
「子どものこともちゃんと考えてるわよ!」
「どこがだ!」
なおも言いつのろうとしたが、妹の娘が頭上で繰り広げられる大人たちの言い合いに目を見開いて硬直しているのに気づいた。
(冷静になれ)
舌打ちしてとりあえず文句を飲みくだす。
「……実家は頼れないのか」
口紅に染められたくちびるがへの字に曲がった。
「嫌よ。ここで実家を頼ったら今以上に戻って来いって言われるようになるに決まってる。わたしもう自分の人生にこれ以上口出しなんてされたくないのよ」
その言葉はオレに実家にいる面々と、自分たちが彼らにどんな風に育てられたかを思い出させた。罪悪感がチクリと胸を刺す。
(くそ)
昔から出来がよかった妹は、親が子どもに望むもの――優秀さ、従順さ、親孝行――をほとんど引き受けてくれた。それでも一番上の兄は長男だからとプレッシャーをかけられたようだが、次男のオレは親にとっては空気も同然で、自由があった。オレの学業成績や振る舞いの前に聡明な妹の学業成績や振る舞いが親の関心を引いたからだ。妹は一日の大半を学習机に縛りつけられ、絶えず親に見張られていた。オレはその不公平さや妹の苦しみを無視し続け、妹はそんなオレを許し続けた。だから、妹には負い目がある。お互い決して口には出さないが、感じていたことだった。
「――わかった。オレが預かる。再来週の日曜までだな? 延長には絶対に応じないからな」
「え、いいの?」
「仕方がないだろ」
妹は信頼のにじむ眼差しでオレに礼を言った。今まで特に何かしてやったことなどなかったはずだが。
妹はしゃがんで娘に視線の高さを合わせると、自分は仕事で海外に出張すること、そのあいだオレのところへ身を寄せていてほしいとこと、防犯に関するいくつかの決まり、オレの言うことをよく聞いて自分の帰りを待ってほしいこと等の確認を一つひとつ行い、娘のものが入っているというスーツケースをひとつ運び入れて去っていった。
オレは身を縮こまらせて所在なくソファに座る4歳の少女とふたりきりになった。この状況は予定調和だろうか? まさか、そんなはずはない。しかし現実に、会話のきっかけとなる言葉も見つからず、相手の出方をうかがって時間は過ぎて行くのだった。
マンションのソファでオレのかいつまんだ説明を三者三様の表情で聞いていた女子生徒たちだったが、話が終わった途端、春風ミユウは大仰に胸をなでおろした。
「そういうことだったんですね! 安心しました。もしかしたら先生の隠し子ではと……」
「安心って?」
深川シズカが変なところを気にする。
「やだシズカ、そういう意味じゃないよ」
吹き出して笑う春風ミユウに、深川シズカは顔を赤くした。
(そういう意味? どういう意味だ?)
オレの疑問はほどなく解けた。
「生徒の何人かがキャーキャー言ってるのは知ってるけど。でも紺野先生、オジサンじゃない。別にわたし、先生の女性関係に興味ないし、性生活だってどうでもいいし。安心したって言ったのは、白いスーツ着て白い外車に乗って、なんでこの人教職なんかについてるんだろっていう感じなのに、この落ち着きのなさで子どもつくったのかっていう心配があったからだよ。だから安心して。シズカが思うような気持ちは持ってないよ。わたし紺野先生のこと好きじゃないから」
「あ、そうなの……。よかった……」
春風ミユウは透明な力強い目で言い切った。深川シズカはちらちらこちらを気にし、目配せで謝りながら、蚊が鳴くような声で返事をしている。
「ちょっと、失礼よ」
福田ユウコはオレの手前たしなめるように口を開いたが、本気ではなくむしろ面白がっている様子が端々からわかった。
「お前ら……」
「わたしの名前は春風ミユウっていうの。あなたのお名前は?」
宣言通りオレのことを屁とも思っていない春風ミユウは、オレの渋面を無視して姪に話しかけた。無礼なガキ以外の何物でもないはずだが、彼女のこういうところが小生意気でカワイイと評判らしいのは納得がいかないところだ。
一対の輝くキャラメル色の目に見つめられて、姪はオレの陰に隠れようとした。
「お名前、言える?」
「……」
すぐに答えが返って来なくても、春風ミユウは我慢強く待ち続けた。
「……れ……」
「うん?」
「レイ……」
「レイちゃんだね! よろしくね」
「……うん」
「よろしくね、じゃない。お前らもう帰れ」
オレはにこりともせず言った。
「え?」
「説明はした。誤解されたくなかったからだ。ありもしないことを学校でペラペラしゃべられたらたまらないからな。もう十分わかっただろう。帰れ」
「先生ひどい。わたしたちがそんな人間に見えますか?」
「ほとんど話したことがないのにお前らの人となりまで知るわけがないだろう」
突き放すと、春風ミユウは笑みをひっこめた。福田ユウコに友だちを連れて帰れと目線で指示を送るが無視される。決定権は春風ミユウが持っているらしい。当の彼女は細い手首に通されたブレスレットをいじりながら何事かを考えていたが、やがて小首を傾げて言った。
「まだわたしが誤解しそうな事柄についての説明が残っていますよ。そうでしょう? まさか忘れていらっしゃるわけじゃありませんよね? ――ユウコと、どういう関係なんですか?」
「あとで福田から聞けばいいだろう」
「援助交際ですか?」
「違う!」
「ね? ほら。今できることを後回しにしてもいいことはありませんよ」
つい必死で否定してしまったオレに、さっさと話さないと誤解してやるぞとカジュアルに脅す春風ミユウ。
「……親戚だ」
福田ユウコが言葉をそえる。
「わたしの母方の祖父が先生のおばあ様の弟に当たるの。まあ親戚っていっても葬式とか年始のあいさつでたまに会う程度なんだけど。ですよね、先生?」
「ああ」
「へえ、そうだったんだ。でも、それにしてはお互いを意識しすぎていませんか? だって、普通、本当に親しくしてるわけじゃないなら道で遇ったときに適当に会釈をするくらいがせいぜいじゃないですか?」
細い指先がピンクの髪をいじり、組まれた足の先がぶらぶら揺れている。しかし瞳にはすべての欺瞞を見抜かんとするようなこの上ない真剣さが宿っていた。
福田ユウコは冷静にその瞳を見返した。
「……実は、先生はわたしの父の教え子でもあるのよ。父は園生大学で教授をしててね、そういうつながりもあって親近感があるのよね」
おとなしやかな声がそっと切りこんできた。
「先生が教員免許をとって新卒で高等部の教員採用試験を受けたとき、ユウコのお父様が推薦されたのね?」
全員がいっせいにそちらを向いた。温順な人柄のにじむ顔立ちの中の思慮深げな黒い目がゆっくりと瞬いた。
「あーわかった。そういうことなんだね。推薦されたのはもちろん紺野先生が優秀だったからなんだろうけど……」
春風ミユウが目を丸くしながら言った。
オレは舌打ちをすんでのところでこらえた。
(さすがに馬鹿じゃない)
無性にタバコが吸いたくなった。
「教授からしてみれば、親戚だから実際以上に優秀に見えたかもしれないし、妻の実家の連中とうまくやっていきたいという考えがまったく頭になかったとも言い切れない」
オレは彼女たちに指摘される前に自分で言った。
「たしかにな。でも、福田教授は今でもオレのことを気にかけてくださっていて、ときどき飲みにも誘われる。オレは教授の期待を裏切らないようオレなりに努力している」
「そういう意味で言ったわけでは……」
リビングルームに気まずい沈黙が落ちた。レイは耐えかねて、トイレ、と呟いて席を立った。当分戻っては来ないだろう。深川シズカは足元を凝視していて顔を上げない。福田ユウコはバッグをがさごそとかき回しはじめた。春風ミユウは平然と壁際に設置しているアクアリウムを眺めていたが、唐突に話題を変えた。
「先生、仕事もあるのにレイちゃんをどうするつもりですか?」
「今日明日と有給休暇をとってきた。託児所を探しているから、別にお前らに心配してもらう必要はない」
そう言ったのに、春風ミユウはむしろ勢いづいてぐっと身を乗り出した。
「わたしがいるじゃないですか!」
「は? お前がいるからなんだっていうんだ?」
「わたしがレイちゃんを見ててあげますよ」
オレは思わず春風ミユウを胡乱な目で見た。話にならない。
「阿呆か。もしお前がレイの子守をしているあいだにレイが怪我でもしたらどうするんだ? そうなったらオレはレイにも妹にもお前にもお前の家族にも顔向けできなくなる。オレは自分の判断を死ぬほど後悔するだろう。わかったら馬鹿なことを言ってないで家に帰れ。帰って勉強でもしてろ。それから風呂に入って寝ろ。とりあえずお前らにそれ以外のことは望んでない」
言葉を発しているあいだにも、春風ミユウの顔の上には雲のように感情が浮かんでは流れていった。怒り、不満、諦め、納得、退屈、それと意外なことに、かすかな敬意。結局彼女はふてくされたように頬を膨らませ、体を背もたれにどすんと引き戻して、オレを睨んだ。
「……まあ、常識的に考えればそうなんでしょうけど……」
ここでようやく福田ユウコが旗色を鮮明にした。
「ミユウ、諦めなさいよ。どう考えても先生のほうが正論よ」
「わかってるって」
「じゃあなんでそんな恨みがましい顔してんのよ? あんたそんなに子ども好きだったっけ?」
「わかんないよ、そんなの。妹や弟もいないし。だからどんな感じかなって思って……プレ子育てっていうか……」
「プレ子育てぇ? そんな考えなら尚更やめときなさいよ。子どもを預かるってそんな簡単なことじゃないんだから」
ピンク色の髪が乱された。ブレスレット同士がこすれる音がしゃらしゃら鳴る。
「わかってるってば。ただ、なんか、現実だなーって、いきなり思い知らされた気がして……あーあ。なんだろうね。これ、イベントじゃないの? こんなものなの? なんで? おかしくない? 意味わかんない」
「意味わかんないのはあんたの態度よ」
「ごめん、ごめん。気にしないで。……先生にも、ごめんなさい。わたし無責任なことを言いましたね」
「いや」
「でもわたしも手伝いますって申し出たのは真剣な気持ちからですよ。本当に、何かあったら言ってくださいね、手伝いに来ますから。急な用事が出来たとか、育児ストレスが最高潮だとか。数時間くらいなら片時もレイちゃんから目を離さずいられますから」
「ああ。気持ちだけもらっておく」
「いえ。はっきり言って先生もあまり保育に関しては得意そうには見えませんからね。小さい子どもと接したことなんてほとんどないでしょう。お願いですから意固地になったり変に自信を持ったりしないで、困ったらわたしに連絡ください」
そんなことはない、というオレの反論にも耳を貸さず、春風ミユウはバッグからスケジュール帳を取り出し、巻末の余白を破って電話番号とメールアドレスをさらさら書き綴った。そして、お邪魔しました、と呟くと気だるげに立ち上がり、玄関先で軽く頭を下げて出て行った。そのあとをふたりの友人たちも続く。
「あの、先生。わたしにもできることがあったら……えっと、何でもおっしゃってください。それと……ミユウのこと、誤解しないであげてください」
それだけを言うと深川シズカは先を行く背中を足早に追いかけていった。最後は福田ユウコだった。
「じゃあまた。おじさん、レイ」
「おじさんはやめろ」
リビングルームのドアからレイがひょっこり顔を出した。
「……もう行くの?」
「おじさんと仲良くね」
「だからおじさんというのは――」
福田ユウコは笑った。その笑いの余韻だけを残して玄関ドアは閉まった。