8月 プール
――side: 春風ミユウ
物の影は真下に落ち、激しくまぶしい太陽の光が肌の上で白く弾ける。風もなく、じりじりして蒸し暑い。じっとしていても噴き出る汗をハンカチでぬぐいながら、わたしはこっそり腕時計を見た。今すぐここを立ち去りたい。
「わたしの勝手なお願いなんですけど……有沢くんのこと好きじゃないなら、近づかないでほしいんです……」
ふわふわした藤色の髪を背中に垂らした見知らぬ女子生徒は、先ほどからなんども言い淀んだ末、やっとそれだけを口にした。小柄で華奢な、いかにも女の子らしい女の子。髪と同色の可愛らしい垂れ目が不安と決意とで揺れている。
「有沢くん?」
(……誰なの? ついでにこの子も誰?)
「……わたしの彼です」
女子生徒のくちびるが真一文字に引き結ばれる。
「ごめんなさい、わたしの知り合いじゃないみたいだけど……」
「わかってます」
わたしの目は点になった。事ここに至っては完全に理解を越えていた。
夏季休暇中、開放されている学園の自習室で勉強しているところを面識のないこの女子生徒に話があると連れ出され、炎天下で話しだすのを待つこと数分、いきなり泣き出された。わけがわからず突っ立っているわたしの前で彼女は、わたしって本当にだめね、などと自己否定を繰り返し、ごめんなさいと重ねて詫びた。わたしは気にしていないと首を振るほかなく、彼女は弱々しく微笑んだ。早く話とやらをすませてもらいたくて優しく促すと、彼女はまた目を潤ませた。いい加減うんざりしながらどうしたのかと訊けば、思っていたよりずっと春風さんが素敵な人だったから、という答えが返ってきて、意味不明だった。その挙句、こんなことあなたに言うべきじゃないかもしれないけど、とか、わたしのわがままだってわかってるけど、とか、くどくどしいひとしきりの前置きがあり、ようやく切り出されたのがあの言葉だ。
(はあ?)
とにかくまとめると、こういうことなのだろう――わたしとまったくの無関係である有沢という男がいて、そいつは彼女と付き合っているらしい。彼女はその有沢とは存在すら知らない仲であるわたしに、彼にそれ以上近づくなと言いに来た。……そしてその有沢という男は、わたしにとって存在すら知らない誰かから名前だけは知っている誰かへと格上げされた。
(……何がしたいの?)
「彼、最近あなたのことばっかり話すんです。美人だとか、お前もああなれとか……。メールにもあんまり返信してくれなくなったし、前は自慢の彼女だって言ってくれてたのに……」
声に涙が混ざりはじめた。
彼女も本当はわかっているのだろう。その恋はもう終末期に入っている。打てる手立てとしては延命治療くらいしか残されていないだろう。しかも彼女は来るところを間違えている。わたしは恋の狩人であってカウンセラーではない。
「あのさ、何か勘違いしてない?」
「え?」
彼女の愚痴が止んだ。
「素敵な人? 気は確か? わたしの何を見てそう思ったの?」
自己憐憫にひたりきっていた顔が一瞬で強張った。
「低姿勢でか弱い女の子のふりしてれば、みんなあなたに優しく思いやりを持って接してくれるとでも思ってる?」
「ひどい……。わたしはそんなつもりじゃ――」
「そんなつもりじゃない? ふーん? でもあなたが本当にそんな女の子なら、こうして見ず知らずのわたしのもとにあんなくだらないことを言いには来ないんじゃないの?」
わたしの親友のひとりなら、絶対に来ない。
「図々しいんだよ」
わたしが一歩足を前に出せば、彼女は一歩後ずさった。
「別にね、あなたの言うようにやってあげてもいいんだよ。有沢くんだっけ? そんな人知らないし、だから何の不都合も生じないもん。……けど、それで何になるの? わたしが積極的にアプローチしてたならともかく、あなたの彼氏さんとは会ったこともないんだよ? わたしに泣きながら気持ちをぶつけるよりも先にやるべきことがあるんじゃないの? 彼氏さんとはちゃんと話し合った? あなたの不満や不安をひとりで抱えたりわたしに言ったりしても仕方ないんだよ?」
もう一歩踏み出せば、また一歩後ずさられた。彼女の腕を掴んでぐっと自分に引き寄せる。きゃあっと苛立たしい悲鳴が上がった。
「あなたいくつ? しっかりしなよ」
彼女は目から涙をあふれさせた。
(暑い)
ユウコは喉の奥へ笑いの発作を押しやりながらわたしの話を聞いていた。
「それは災難だったわね」
「まったくだよ。わたし20分くらいあの子の話を聞いてたんだよ。茹だるような陽気の中、名前も知らない女の子の湿っぽい恋愛話を、20分も!」
わたしは水中で飛び跳ねるのをやめ、頭まで水につかった。大きな浮き輪に乗ったシズカがくすくす笑い、わたしの腕を優しくとって水面まで引き上げた。
「いきなりプールに行こうって言うからどうしたのかと思えば……」
「だって勉強する気が失せちゃったんだもん。暑くて仕方なかったし」
「一回来てみたかったからいいんだけどね」
ここ園生アクアティックスは、今夏オープンしたばかりの大規模遊泳施設だった。以前は市営プールだったところ、老朽化と不採算で園生市のお荷物と化していた。そこに法改正による規制緩和で民間の資本が投入されることになり、郊外に新しく園生アクアティックスとして生まれ変わったのだった。一周350メートルもある流水プールと3種類のウォータースライダー、造波プールが集客の目玉だ。屋内には競泳用プールや温泉がそろっている。加えてジムやカフェテリアやスポーツ用品店まで併設されていて、今園生でもっともホットなスポットといえた。
「でも人が多すぎない?」
「夏休みだものね」
「人が少ないビーチに行きたい……。ねえ、モルディブにでも行かない?」
どうやらユウコの脳みそも暑さで溶けだしているらしい。
「今から? どこに泊まるの?」
「ジュメイラの水上ヴィラなんてどう? リビングにガラス張りの床があるのよ。センターラでもいいかな。一日中シュノーケリングするの。ロビンソンクラブのビーチなんて超きれいよ。パライバトルマリンみたいな色。澄んだ青に緑を垂らしたみたいな……」
「はいはい、どこのリゾートも素敵だけどね。もう一回訊くけど、今から? もうどこも予約でいっぱいだよ」
「じゃあもうモルディブじゃなくてもいい。ハワイとか……」
好みでいえば、ショッピングも楽しめるハワイのほうが好きだ。女友だちと海外旅行なんて楽しそうで心が揺れる。しかし今年ばかりは海外へ出るわけにはいかない。
「残念だけど、わたしは無理だからね」
「どうしてよ?」
「どうしてもだよ」
乙女ゲーム的イベントを逃すわけにはいかないから、とは言えない。彼女たちとの旅行には『また来年』があっても、イケメンたちとのイベントには『また来年』はないのだ。悪く思わないでほしい。
暑くなったのか浮き輪からポチャンと水に落ちたシズカものんびりと言った。
「わたしも薔薇の世話したいし……」
「それは一年中やってるじゃない」
ユウコがぷりぷり怒ったように口をとがらせた。
浮き輪につかまったまま流水プールの流れに身を任せておしゃべりしているわたしたち3人の横で、大学生っぽいカップルがはしゃぎながら水を掛けあっていた。妬んでいると思われては嫌だから何も言わなかったけど、さっきからずっとその水しぶきがわたしにも掛かっていた。藤色の髪の女の子といい、こいつらカップルといい、恋をすると視野狭窄に陥って周囲が見えなくなるのだろうか?
「あーわたしも恋愛したいなあ」
口ぶりに若干嫌味が混じっていたかもしれない。
「れんあい」
ユウコの口の端が皮肉っぽく吊りあがったけど、気にしない。
「恋とはどんなものかしら」
「……フィガロの結婚?」
ユウコの顔にもシズカの顔にも、表情こそ違うものの同じ気持ちが現れていた。――訊かれても困るんだけど、と。わたしたちはまだ恋を知らない。
喉が渇いてきたのでプールサイドにあがった。パラソルの下の白いビーチチェアを横並びで3つとって寝転んだら、心地よい疲労感が襲ってきて起き上がるのが面倒になった。シズカがジュースを買ってきてあげると申し出てくれるのに甘えて頼むと、わたしはそのまま目を閉じた。
「ねえ君、喉渇いてない?」
シズカとの今のやり取りがわからなかったのだろうか? わたしは半分目を開けて話しかけてきた男を睨んだ。
「ビール飲む?」
(馬鹿にしてるの?)
このぴちぴちの10代の美少女が昼間からビールを飲むようなオバサンにでも見えているのだろうか?
男は卑屈なまでに愛想よくへらへら笑いながら、カクテルのほうがいい?などと訊いてきた。そのいかにも頭の悪そうな面になぜか不安がかきたてられる。
(え、まさか、本当にそうなの? オバサンに見えてるの? おとぎ話の人魚より儚く可憐なこのわたしが?)
問題の場所が目か脳かはわからないけど、病状がそこまで進んでいるのだとしたら、どんな名医とて彼にしてあげられることはそんなに多くはないだろう。
わたしはバッグから出したレイバンのサングラスをかけ、そっぽを向いた。
そうしているとシズカがジュースを両手に持って帰ってきた。わたしは身を起こしてサングラスを頭にのせ、シズカの手元をのぞきこんだ。
「えっとね、これが豆乳バナナ。赤いのがベリーミックス。黄色いのがマンゴー&パイナップル。どれもおいしそうで迷っちゃった。好きなのをとって」
「シズカから選びなよ」
「もう選んできたのよ。本当にたくさん種類があったんだから! どれもわたしが好きなやつだからどれが残ったっていいの」
このいじらしさを見ろとさっきの男に言ってやりたい。なにがビール飲む?だ。乙女心がまったくわかっていない。あの男はもてなさすぎて頭がおかしくなったのだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
「それなら3人でちょっとずつ飲まない? わたし、全部の味を試してみたい」
「いいね」
真ん中のビーチチェアからわたしとユウコの荷物を丁寧にのけてシズカが座り、まずは乾杯してわたしたちに完全な夏休みが訪れたことを祝った。8月に入り、ようやく補習地獄から抜け出せたのだ。
受け取ったベリーミックスジュースをストローからごくごくと飲むと、甘さと爽やかな酸味が口の中いっぱいに広がった。
「おいしい!」
「これもおいしいわよ。マンゴーが濃厚なんだけど、パイナップルのおかげで後味がすっきりしてる」
ユウコとジュースを交換して飲むと、これもまた美味だった。シズカも豆乳バナナを手に幸せそうに頬を緩めている。
ドリンクホルダーにカップを入れてビーチチェアに横になったらとても気持ちがよくて、このまま寝てしまいそうだった。くっつきそうになるまぶたを引き離そうと頑張っていると、横から遠慮がちな視線を感じた。
「何?」
「ううん……ミユウってほんと、きれいだなって思って」
シズカの黒い目が恥ずかしそうに伏せられた。
「そう言ってもらえるとジム通いしてるかいがあるよね」
「筋トレしてるの?」
「そうだよ。ジョギングもしてる。食事制限だけじゃ理想のスタイルはつくれないもん」
ユウコは豊かな髪の毛をバレッタでまとめ直しながら呆れとも感心ともつかないため息を吐いた。
「あんたってすごいよね。そこは認めるわ。その熱意と根性はどこから来るわけ? 生半可な気持ちじゃ真似したくってもできないわよね。道理で自分に自信があるはずよ」
「自信?」
そんなもの、今まさになくしかけているところだと言っても過言ではない。学園に入学さえしてしまえばあとは黙っていてもイケメンたちはわたしの魅力にメロメロになるだろうと思っていた。ところが現実はどうだろう? 誰ひとりわたしに告白してこようというそぶりを見せるやつがいないではないか。これにはびっくりした。わたしが高嶺の花だから気後れしているのではと心配だ。漁色美形や双子(節操なし)にすら口説かれない理由についてはさっぱりわからない。わたしが選択肢を間違えたかこの世界にバグが生じているかしか考えられない。ひょっとしたらわたしのあまりの完璧さにどこぞの神様が配慮して、ゲームの難易度が跳ね上がっているのかもしれない。
(わたしに何が足りないっていうの?)
違う可能性を考えてみた。彼らの趣味が偏っていて特殊だったとしたら――デブ専、ブス専、熟女好き、学歴厨……。
(いやいや)
理想の女になりたいとは思うけど、逆ハーレムを目指すわたしとしては、これらすべての好みに対応していたら相当悲惨なことになってしまう。その姿は果たしてヒロインと言えるのか? 第一、今からそこまで変化するのは不意すぎるし不自然すぎる。メインキャラクターたるもの髪型を変えることすら慎重にならなければいけないというのに、キャラクター造形がそこまで根本的に変わるのであれば確実にネタキャラ化は免れないだろう。
(もう! わかんない! 難しすぎる!)
髪に手を差し入れてぐしゃぐしゃに乱せば、シズカが横から手を伸ばしてそっと直してくれた。
「ミユウ、髪、すごいことになってる」
耳に触れる小さな笑い声がくすぐったい。髪の毛を梳いてくれる繊細な手に気持ちが落ち着いていく。
「シズカ、もうちょっとだけ」
「うん」
……一番の問題は、別に男なんてできなくても、こうやってシズカとユウコと一緒にいられるならいいかな、と思いかけている点だった。これは完全に気の迷いだ。というのも、わたしは両親から常々思いこみと勘違いが激しいと指摘されてきた。正直に言って反発を覚えるけど、仮にも両親である人たちの言うことだから、素直に受け入れて気をつけなければならないだろう。
屋外プールの利用可能時間終了に伴い、わたしたちはタクシーで繁華街へ向かった。もう遅いから夕食を食べて帰ろうということになったのだ。オーガニック野菜や豆をたっぷり使用し、じっくり手間暇をかけて作られた料理が評判のカフェを選んだら、唐揚げをこよなく愛するユウコは渋い顔をしていた。そのくせ料理が出てくると誰よりも一心不乱に食べていた。ダイエットとは一時の食事制限ではなく日々の生活習慣なのだと彼女が理解する日も遠くはなさそうだ。
カフェを出てからわたしたちは地下鉄駅まで少し歩くことにした。花金の夜の渋滞した道を行くタクシーよりも地下鉄のほうがはるかに早く家に帰れるのが明白だったからだ。ところが、あまり進まないうちにユウコが足を止めた。
「ユウコ?」
「どうかした?」
わたしとシズカも足を止めて振り返る。
「いや……」
ユウコの目は一点に吸い寄せられていた。
「車?」
「うん、そうなんだけど……」
ユウコは歩道に寄せて停められていた車に近づき、確かめるようにじろじろ眺めた。それからきょろきょろと首をめぐらし、車が停められている前のマンションを数秒見つめてから言った。
「ごめん。何でもなかった」
わたしはユウコの奇行にあまりかまわなかった。それよりも気になったことがあった。
「――このジャガー、見たことある。白のXJ」
「……どこで?」
「学園の職員用駐車場で」
そのときマンションの玄関が開いて、ひとりの男が出てきた。仕立ての良い白いスーツに身を包んだ長身、高い頬骨、シャープなあご、色つきの眼鏡――格好いいは格好いいけど、キャラデザインは本当にそれでよかったのかと尋ねずにはいられない、およそ堅気の人間には見えない風貌。わたしたちはその男を知っていた。不機嫌そうにしかめられた眉にすら大人の色気が漂っている。手につながれているものが彼の雰囲気をすべて台無しにしてはいたけど。
「こ、紺野先生……?」
「げ」
都会に咲く一輪の花、掃きだめに鶴、その名も春風ミユウに向かってその反応はないだろう。
「…………お前ら、こんなところで何やってるんだ?」
「いやいや。この際わたしたちのことは置いておきましょうよ」
「通りがかっただけですし……」
「そんなことより、おじさん、その子どうしたんです? その小さい女の子……」
(……うん?)
「ユウコ、今おじさんって言った?」
わたしの顔はユウコとインテリヤクザの間を往復した。ユウコは黙りを決め込んだ。インテリヤクザは舌打ちをした。女の子はふぎゃふぎゃと泣き出した。他の通行人はどう考えても必要以上にわたしたちを避けて通っていた。シズカはその一群に入りたそうにしている。