7月 ガーデンパーティー(2)
――side: 深川シズカ
テーブルに伏して動かなくなったアカリ先輩を、全員凍りついて見ていた。悲鳴が上がっただろうか? もしそうだとしたら誰のだろう? わたしができたのは、テーブルクロスの白さを液体の赤さがじわじわと侵食していくのを呆然と見ていることだけだった。早くなんとかしなければ、と思うばかりで、何をするべきなのか、何ができるのか、といったことにはまるで頭が回らなかった。震える足が重い金属でできた靴を履いているみたいで、少しも体が動かせなかった。
「……おい、アカリ、ふざけるのはやめろよ」
しかし答える声はなく、橙花先輩の顔はますます引きつった。
「ア、アカリ……」
アカリ先輩の体に手を伸ばしかけたヒカリ先輩を、
「動かないでください」
とミユウが鋭く制止した。誰かのひゅっと息を飲む音が聞こえた。
「これは事件ですよ。現場を保存しないといけません。みなさん自分の席から離れないでください」
「事件って……」
「殺人事件です」
冷たくも愉快そうな響きの言葉だった。
(ミユウ?)
わたしは信じられなくてミユウを凝視した。状況を考えれば彼女はひとり明らかに冷静すぎたし、薄情すぎた。既知の人物が血を吐いて倒れたというのに。
アカリ先輩に手を伸ばすために立ちあがっていた橙花先輩はどっと椅子に崩れ落ちた。
ミユウは真面目くさった顔をした。でもわたしにはそれが偽りのものにしか見えず、不安と恐れの渦に突き落とされた。
「さてさて、少し状況を整理しましょう。――アカリ先輩は先ほどまでわたしたちと談笑していました。どこも変わった様子はなく、元気そうでした。そうですよね、ヒカリ先輩」
「う、うん」
「ところがアカリ先輩は急変しました。ちょうど、グラスに入ったアップルジュースを飲んだときに。変化は飲んですぐのことでしたよね。目を見開き、うめき声を漏らして、テーブルに突っ伏し、口から血を吐いて、残念なことに特にダイイングメッセージを残すこともなく、ご覧の通りのありさま」
「おい、ミユウちゃん!」
橙花先輩は険しい顔つきでミユウの言いようを咎めた。
「いえ。もうちょっとサービス精神があってもよかったんじゃないかと思っただけです」
「お前、何を……」
橙花先輩はミユウを理解不能なものを見る目で見た。わたしも同様だった。ミユウが何を言っているのかわからなかった。
「すみません、先に進んでもいいですか? ……えーと、凶器はおそらく毒でしょう。とすると、何に入れられたのか、という疑問が出てきます。サンドウィッチでしょうか? スコーンでしょうか?」
「……オレじゃない」
橙花先輩は苦々しく言った。ミユウは微笑んでうなずいた。
「ええ、わたしも違うと思います。橙花先輩が毒入りの軽食を用意したのだとしたら、無差別にすぎます。誰がいつ食べるかわかったものではありません。毒は別のものに入れられていたと考えるのが自然でしょう」
ミユウが淡々と語っているのが怖かった。こんなに大変なことになっているのに、アカリ先輩が真っ赤な血を吐いているというのに、なぜすぐにああも落ち着いて、アカリ先輩が死んだ話なんかしているのだろう?
混乱した様子で黙って事態を眺めていたユウコは、何かに気づいたように瞬きをすると、呆れかえったような長いため息を吐いた。
「ミユウ、あんたさあ、探偵ごっこもいい加減にしなよ」
「えー! わたしが悪いの?」
ユウコはまたため息を吐くと、じゃあ好きにしたら、と冷たく返した。
「そのかわり、上手く事をおさめてよね」
「わかってるよ」
ミユウはこほん、と咳払いをして中断された話を再開させた。
「では毒は何に入れられたのでしょうか? わたしたちは毒を入れるのにうってつけのものを知っています。そうですよね? アカリ先輩しか手をつけず、必ずアカリ先輩が口に入れるもの――そう、アップルジュースです」
わたしはびくっと身をすくませた。
橙花先輩は焦ったように口を出した。
「その人しか口をつけないというなら食器かもしれないだろう」
「いいえ、それはありません。食器類は重ねられ、一まとめにされて持ち込まれました。毒が移るかもしれないそんな管理方法を普通はしないでしょう。それに今の今まで誰も毒で倒れた人はいませんでした。犯人はお茶会の最中にほかの5人の目を盗みながらアカリ先輩の食器に手を伸ばして毒を塗ったとでも言うんですか? それは無理があるって、橙花先輩、あなたもわかっているでしょう」
寄せられた眉の下でオレンジ色の目がさっとわたしに向けられ、すぐにそらされた。
(……何なんだろう?)
ミユウは優雅に紅茶を飲んで喉を潤した。そしてまた口を開く。
「毒はアップルジュースに入れられた――いつ? アカリ先輩はお茶会が始まってから飲みものはアップルジュースしか口にしていません。橙花先輩がピッチャーに入れてテーブルの上に用意していた、あのアップルジュースしか。いままでそれを自分のグラスに入れて飲んでいましたよね。でも何ともありませんでした。味に違和感を覚えている様子もなく、おいしいと言って飲んでいました。様子がおかしくなったのは最後の一回だけ」
喉がからからに乾いていた。ミルクティーを飲もうとティーカップを持ち上げようとしたけれど、手が震えてだめだった。わたしは唾を飲み込んで渇きをごまかした。
「最後の一回は今までと何が違っていたのでしょう?」
ミユウは一同に問いかけた。
全員の視線がわたしに向けられた。
わたしは、ひっ、と悲鳴を上げて首を横に振った。
「ち、違います。わたしは……」
ミユウはすっと立ち上がった。
「そう。シズカの介入がありました。それだけが今までと違うところでした。ピッチャーに手を伸ばしたアカリ先輩より早くピッチャーを取り上げ、アカリ先輩のグラスを受けとってアップルジュースを注ぎ、それをアカリ先輩に差し出した。シズカ、そうだよね」
「わ、わたしは……」
頭が真っ白で何も言葉が出てこなかった。
ミユウは革靴を床のタイルにコツコツと響かせ、ゆっくりとテラスを歩く。楽しそうに、一方でなぜか、怒ったように。ミユウはいつものようにわたしの言葉を待っていた。
わたしは恐ろしくて仕方なかった。
(どうしてこうなったの?)
場の主導権を握るミユウが黙ってわたしが喋るのを待っているから誰も何も言わない。けれどみんなにアカリ先輩を殺したと疑われていると感じた。味方が誰もいない。橙花先輩にすがるような視線を向けたけれど、先輩はしかめっ面でミユウを睨んでいた。ユウコを見るけれど、わたしは関知しないと言わんばかりの無表情は動かない。
(どうして、ユウコ)
見捨てられたようで、わたしはくちびるを噛みしめた。苦しい。こみあげる涙の衝動を抑えるのが限界に近付いていた。
わたしはおそるおそる顔を上げ、ミユウの姿を捉えた。誰よりもわたしを庇ってほしいのに、率先してわたしを追い詰めている人。わたしの最後の砦。彼女の凛としたキャラメル色の目とわたしの目が合った。
「どうなの?」
「ミユウ……。信じて。わたしは毒を入れてなんかない」
ミユウは何の迷いもなくうなずいた。
「もちろん信じるよ。シズカ、シズカはそんなことをする子じゃない」
そしてつかつかとアカリ先輩のそばに歩み寄った。
「痛っ!」
アカリ先輩は突如として生き返り、飛び上がって声を上げた。
「とするとアカリ先輩、あなたしかいませんよね、犯人は。あなたなら好きなときに死んだふりができますからね。茶番はこれで終わりにしましょう」
アカリ先輩は驚いて声もないわたしを尻目に、顔を歪めてミユウに抗議した。
「脇腹をつねるとかひどくない? ほんと痛かったんだけどー」
ヒカリ先輩が笑いだした。
「あはは、ミュウミュウには初めからばれちゃってたねー」
「迫真の演技だったのに」
「もっと前フリが必要だったかなー?」
ミユウは肩をすくめ、ユウコは冷ややかに鼻を鳴らした。
橙花先輩は我慢もこれまで、といったようにテーブルを叩いて立ち上がった。
「悪趣味すぎる! 何を考えてこんな馬鹿げたことをしたんだ!」
双子の先輩方は口をとがらせた。
「おもしろくなかった? スリリングだったよね?」
「うちの親もよくガーデンパーティーとかやるけどさー、いっつもつまんないんだよねー」
「だからちょっと若者向けにアレンジしてみたんだけど」
「ミステリー仕立てにするかホラー仕立てにするかすごい悩んだんだけど」
「怒らないでよー、チトセ先輩」
「気に入らなかった?」
「当たり前だろ! ケチャップまで用意してたってことは前々からこのくだらない計画を立ててたんだろ!」
わたしはこんなに怒り狂っている人をめったに見たことはなかった。文字通り顔が怒りで青ざめている。しかし双子の先輩方は動じなかった。
「これはケチャップじゃなくて血糊。去年のハロウィンのとき、ドン・キホーテで買ったやつの残りだよー」
「再利用はエコロジーの基本だよねー」
「オレたちって地球にやさしいよねー」
「それにケチャップだとすぐにばれちゃうじゃん」
にこにこ笑っているアカリ先輩を見ていると、ようやく体から力が抜けた。
(よかった……)
アカリ先輩はテーブルクロスの端で血糊で汚れた口元をぬぐい、気持ち悪そうにナプキンに口の中に残っていた血糊を吐き出した。
「おえ」
「アカリ、シャツ汚れちゃったねー。あはは、スプラッター映画みたい」
「笑い事じゃねえよ!」
橙花先輩の血管は今にも破裂しそうだった。
「もー! チトセ先輩、コータローみたい」
「ちょっとふざけただけじゃん」
アカリ先輩は、口直し、と言ってピッチャーからグラスにアップルジュースをつぎ、ごくごくと飲みほした。血糊って超まずいんだねー、などと言ってケロリとしている。
「よかった」
言葉と一緒に、涙がぽろりとこぼれ出た。
「アカリ先輩が、ふざけただけでよかった……」
安堵したことで、堰を切ったように抑えきれない涙が出てきた。
突然泣き出したわたしに先輩方の言い合いが止んだ。
「もし本当に、毒で死んじゃってたら、わたし、どうしようって……。冷静なミユウが警察も救急車も呼ばないから、だから大丈夫って思おうとしたけど、でも怖くって……」
(馬鹿みたい)
わたしは泣き顔を見られたくなくてハンカチを押し当てた。
(馬鹿みたい。ただの冗談を真に受けて、泣いちゃって)
そう思うのに、一度決壊した堤防は涙を押しとどめることができない。
「だって、ここは薔薇園だから……人くらい簡単に殺せそうな農薬、いっぱいあります。ちゃんと鍵をかけて保管してますけど、壊すことだってできるし、もし盗まれたんだとしたら、わたしの責任じゃないですか……。そうだとしたら、アカリ先輩にも、ヒカリ先輩にも、ご家族にも、お詫びのしようがないって思って……」
気まずい沈黙の中、わたしの嗚咽が響く。
わたしが泣きさえしなければやりすぎた悪戯ということですんだ話だったのに、こんな風にみんなを戸惑わせて申し訳なくて、でも腹も立っていて、制御が利かない気持ちを持て余していた。
「お前ら、本当、馬鹿じゃないのか。なんでシズカちゃんを傷つけるってわからないんだよ……」
今までの気勢がそげ、怒りが落胆にとってかわったような橙花先輩の声が頭の上に降ってきた。
思い返せば、橙花先輩ははじめから怒っていたし、わたしを庇おうとしていた。こうなることがわかっていたのかもしれない。
「ごめん、シズカちゃん。オレも悪かった。日和見してた。オレがちゃんと言って止めないといけなかったのに」
ミユウとユウコも手をそっとわたしの肩に添わせて言った。
「シズカ、ごめんなさい。わたしも悪ノリしすぎたね」
「農薬のこととか考えもしなくて、知らんぷりを決め込んでた。悪かったわ」
わたしはなんとか気持ちを落ち着かせて、顔を上げた。ユウコやミユウなら人前で泣きはしないだろうと思うと急に恥ずかしくなったのだ。
(あれ?)
わたしは目をぱちりと瞬かせた。
(お菓子?)
気づかないうちにわたしの前にはお菓子の山ができていた。クッキーやスコーンにまぎれてうまい棒やアポロなどの駄菓子が顔をのぞかせている。
(駄菓子……ということは)
こっそりヒカリ先輩をうかがうと、彼はちらちらとわたしの反応を気にしていた。わたしがまたうつむいてみると、今度はアカリ先輩がチロルチョコをそっと山に加えた。
こういう『ごめんなさい』の仕方を、どこかで見たことがあった。わたしは記憶を手繰り寄せた。たしか小学生のとき、国語の教科書で――。
(ごん、お前だったのか)
「ちゃんと謝れよ」
橙花先輩がため息とともに言った。
双子の先輩方はそれを聞いて仏頂面になったけれど、すぐにばつが悪そうな様子で肩を落とした。そしてさっと互いに目と目を見交わし、そのわずかなあいだに意思の交換がなされた。口火を切ったのは、やはりというべきか、ヒカリ先輩だった。
「あーあ、なーんでオレっていつもこうなんだろ?」
居心地悪そうに身じろぎをする。
「笑ってもらいたかったのに、怒らせたり泣かせたりばっかりでさ。ごめん、フカリン。オレが悪かったからさー、泣かないで」
それから、ほらアカリも、と言って小突く。
「……ごめん。ホラー仕立てにしたほうがよかったねー」
双子といえどもそれぞれの反省の気持ちにはけっこうな隔たりがあるようだった。それは取りも直さず、わたしに対する気持ちの差、わたしと一緒に過ごした時間の差だった。
「いいえ。いいんです。わたしが大げさに考えすぎちゃっただけです」
少し微笑みを見せれば、ふたりともほっとしたように息を吐いた。
車で送っていくよ、と言ってくださる橙花先輩の心遣いを固辞し、わたしはオレンジ色に沈む園生の街を、ミユウとユウコと並んで歩きはじめた。
学園のある丘から市街へ下る坂道には長い影が落ちていた。公園の緑の樹木、寺院の重厚な入母屋造の屋根、小さな私設美術館の噴水、一軒一軒が大きな住宅街。坂を下りるにつれ雰囲気が変わってくる。瀟洒な邸宅はスーパーマーケットやレストランに。そのさきには高層マンションや商業ビルが並ぶエリアになる。そしてフリーハンドで書いたような線の向こう側には海が広がっていた。たゆたう水面にベイブリッジがくっきりと浮かび上がっている。この時間、街灯が灯り、窓に明かりがきらめいて、都市は神秘的な静けさの中にたたずんでいた。
「きれいでしょ」
ユウコが緑色の髪をかき上げて、どこか得意げに言った。今年になって引っ越してきたわたしやミユウとは違って、彼女は生まれたときからこの街に住んでいる。
「うん。すごく」
「……この街にこれだけの人がいて、それぞれ生活してるって、なんか、変な気分」
ミユウは首をかしげた。
「考えたら当然のことなんだけど、でも、うーん」
キャラメル色の目は不思議そうに目の前の光景を眺めている。
いつの間にか止まっていた足をゆっくりと進めながら、ユウコが尋ねた。
「ミユウってここに来る前はどこに住んでたの?」
「東京だよ。松濤ってわかる?」
細かな地名を言われても、首都圏から外れた地方都市住民のわたしたちにはピンとこない。
「東京かあ。都会育ちなのね」
ユウコもわかるようなわからないような相槌を打っている。ミユウは苦笑して、まあそんなところ、とうなずいた。
わたしたちに限らず、園生学園の生徒は全国から集まっている。ユウコのような自宅から通学してくる生徒がおよそ半分。残りの半分はわたしのように親元を離れてここへ通っている。ミユウのように家ごと引っ越してきた家庭も少なくない。
生まれも育ちもばらばらなわたしたちがこうして園生学園に集い、親友になれたのは、本当になんだか不思議な気分だった。そうしていると、普段は考えないようにしていた疑問がわき上がってきた。なぜわたしは地元の公立高校ではなく園生学園に入学したのだろう? なぜわたしたちは親友となったのだろう? 人生の分岐点に立つたびにわたし自身が考え、選択していったことは、真実そうだったのだろうか? ひょっとしたらあらかじめ決められていたことなのではないか? わたしやミユウをこの世界に転生させた存在の意思がわたしたちをここまで導いたのではないだろうか?
足元が不安定になったような心地がして、その場に立ち止まった。急に世界が不明瞭で頼りなく、疑わしく感じられた。街を美しく見せていた魔法の時間は終わっていた。