7月 ガーデンパーティー(1)
――side: 深川シズカ
もうここには来ないでください、と言った。つい先日のことだったと記憶している。それに対してヒカリ先輩はうなずいた。その動作は了承を意味しているとわたしは考えていた。ところが――なんということだろう――違ったのだ。もうここには来ないでください、というわたしの言葉は、ヒカリ先輩にとっては何らかの音とともにわたしが息を吐いたという事実にすぎず、ヒカリ先輩の首肯はただ頭が上下しただけにすぎなかった――おそらくそういうことなのだろう。
(……いや、もうこういう嫌味な考えはよそう。この交換条件に同意したのはわたしだもの。ただ、ちょっと、厚かま……積極的でびっくりしたけど。だいたいわたしが招待したっていう形なんだから、これはわたしに責任のあることなの。こんなことになったのは……そう、これは……とにかくわたしのせいなの)
わたしはショックから抜けきっていない頭でひたすら自分に言い聞かせていた。冷静に、事態に対して肯定的になろうと努めていた。わたしの目の前では、薔薇のジャムにも負けない真っ赤な液体がテーブルクロスを鮮やかに染めていた。
橙花先輩はしばしばわたしの庭に遊びに来た。10分ほど立ちよって短い会話を交わすだけの日もあれば、ベンチで2、3時間昼寝をしている日もあった。わたしは薔薇の手入れに忙しくてむやみやたらに橙花先輩に話しかけることはなかったし、橙花先輩はそれをいいことに気ままにのんびりとすごしていた。わたしはただ先輩の姿を見かければそれだけでうれしかったし、それ以上を望んではいなかった。
(いなかった、はずなんだけど……)
先輩がお茶会を開く予定を伝えてきた。口頭や、味もそっけもない電子メールでではなく、きれいなカードで。わたしたちはあらかじめ全員の都合が合う日をすりあわせていたんだから、そんなものは必要ではなかった。
「こういうものを臆面もなく用意できるところが本当に嫌」
ユウコは鼻にしわを寄せてそう言った。
「男は普通こんなところまで気が回らないものよ。思いついたって気恥かしくてできないでしょ。そこのところ、橙花先輩って、うーん、なんというか……」
深い緑色の髪が白い手に乱された。
わたしは苦笑した。ユウコが感じていることが理解できたからだった。
(だって橙花先輩……バイだもの。そりゃあ、ねえ)
そういう気遣いも得意だろうと、思うのだ。わたしは橙花先輩のそういうところも決して嫌いではなかった。むしろ先輩らしい気の利かせ方だと思っていた。わたしたちを喜ばせようといろいろ考えてくださっているのだろうと、短い付き合いでも察することは難しくなかった。
今までに先輩がくださった優しさや親切さを思い出せば、胸があたたかくなる。今までにわたしを慰めてくれた人や、ミユウを応援してくれた人はたくさんいた。ありがたいと思うし、それで十分だとも思う。ところが橙花先輩はわたしたちのために何か楽しいことをしようと言ってくださり、とうとうそれが単なる社交辞令でないことを証明してくださったのだ。
わたしはカードをそっと手帳に挟んだ。
(大切にしよう)
この思いやりを、利他的な優しさを、好きにならずになんていられるだろうか?
(天使)
山の向こうから真っ白な雲がわき、庭は夏らしい輝きに満たされている。木陰でじっとしていても汗ばむほどの陽気で、日向に出ていると腕やうなじがちりちりと熱い。
ミユウが細い手首に巻かれた腕時計を見た。橙花先輩は気が揉めるのか何度も携帯電話を確認している。庭のテラスに集まったわたしたちは椅子に座って全員がそろうのを、かれこれ20分は待っていた。
橙花先輩は足元のクーラーボックスをちらと見て、ため息をついた。
「……来ないな。先に始めるか。これ以上待ってても――」
遮るように、明るく元気な大声が聞こえた。
「ごっめーん! 遅くなった!」
「待たせちゃった? ごめんねー」
ヒカリ先輩とアカリ先輩が小路の先で大きく手を振っているのが見えた。ネクタイがいい加減に巻かれた制服の白いシャツが陽光を反射してまぶしい。
「そう思うなら走ってこいよ!」
大声を出して手招きした橙花先輩は、駆け寄ってきた双子を見て眉をしかめた。
「まったく、なんでお前らまで……」
双子の先輩方は邪魔そうに見られてむしろ楽しそうだった。
「まあまあ。これで男女比もちょうどよくなったことだしー」
「そうそう。男ひとりだったらまた女漁りしてるって陰口叩かれるよー」
「チトセ先輩を思ってのことなんだけどー」
「感謝してくれてもいいと思うんだけどー」
空いていた席にさっさと座ると、片方は用意してあったアップルジュースをピッチャーからグラスにさっそく注ぎはじめた。
「……まあいいよ。シズカちゃんに無理言ったんじゃないならな」
アカリ先輩がうれしそうに飲んでいるあの冷たいアップルジュースを用意したのも橙花先輩だということも考え合わせれば、なんだかんだ言っても双子の先輩方をもてなす気でいるのがわかる。
テーブルの上にはクロスが広げられ、ポットとカップ、シュガーポットにミルク、ジャーが置かれている。そこに、サンドウィッチが上品に並べられた大皿やスコーンやフルーツケーキの皿やカトラリーを、橙花先輩は大きなクーラーボックスから取り出して見栄えよく配置した。
「うわぁ、すごい」
「本格的なんですね」
わたしたちは目を丸くして見ていた。まるで魔法のようにティーパーティーの装いが整えられていく。
ふと、何か恐ろしいことに気づいたように、ミユウがそっと呟いた。
「この茶器、ロイヤルウースターのアンティークじゃない……?」
ユウコも小さく悲鳴を上げた。
「ミユウにもやっぱりそう見える?」
「学校に持ってくるようなものじゃないよ。もし壊したら……」
橙花先輩はにっこりと微笑んだ。
「もし壊しても、どうせ母は気がつかないよ。あの人もオレと同じで形から入るタイプなんだ。料理なんかしないくせにいい包丁を何本も持ってるし、本なんか読まないくせに蔵書だけは無駄にある。そういうことだよ。母はコーヒー党なんだ」
きれいだけれど男性らしい手が優雅にあたためられたポットに茶葉を入れ、ジャーからお湯を注ぎ、ポットにティーコジーをかぶせた。蒸らすのを待つ間にカップにミルクが注がれる。
「茶葉はハロッズのナンバー14。アイスティーも用意してあるけど、そっちはフォションのディンブラ。癖がなくて飲みやすいと思う」
「先輩って紅茶にも詳しいんですか?」
「まさか。調べたんだよ」
そうは言うけれど、ポットからカップにストレーナーで茶葉をこしながらいれる手つきは堂に入っていた。緑茶の淹れ方しか知らないわたしと同じレベルの『知らない』ではないだろう。わたしはロイヤルウースターやらディンブラやらが何かもわからないのだ。
クリームブラウンのミルクティーがアカリ先輩を除く全員の前に配られた。
さっそく口をつけると、甘い香りが鼻にぬけ、口の中にこくのある味わいが広がった。
「――おいしいです」
「そっか。よかった」
豚に真珠をつけているとは夢にも思っていないような天使の微笑みを見ていると、紅茶の味の良し悪しなど実際はよくわからない自分が申し訳なく思えてくる。けれど、わからないなりに、わたしはこの味を好きになった。
ヒカリ先輩は口をとがらせて言った。
「ずるーい。チトセ先輩ばっかりいつもいつも女の子にちやほやしてもらってさー。オレだってフカリンににこにこしてすごいとか言ってほしかったのに」
「日ごろの行いの差だよ」
「チトセ先輩なんかやめといた方がいいよー、フカリン。女たらしなんだから、泣かされちゃうよー」
「人聞きの悪いことを言うなよ、節操無し」
心外そうに橙花先輩は言うけれど、わたしは橙花先輩が女たらしだということに何の疑問も持っていない。キャラクター紹介の欄にくっきりはっきりそう書いてあった。公平に言えば、ヒカリ先輩が節操なしだということは身をもって体験したことでそれ以上に確信を持っている。だからわたしは苦笑いだけでコメントは控えておいた。
アカリ先輩はサンドウィッチをぱくぱく食べながら、うれしそうに顔をほころばせた。
「たまにはこうやって外でお茶会するのも楽しーねー。ちょっと暑いけど風は気持ちいいし、薔薇はきれいだし」
「そうですね」
「5月くらいからずっと咲いてない? 薔薇の花期って長いんだねー」
「繰り返し咲く品種を多く植えているからです。5月後半ごろに一番花が咲きます。7月に入る前後から二番花が咲きます。今咲いているのはもうほとんど終わった二番花と三番花が少しですね」
これでもずいぶん寂しくなったものだ。夏の薔薇は遅いもので8月いっぱいまで咲くとはいっても、盛りは過ぎてしまっている。
「でも9月初めに夏剪定をしたら、10月中旬ごろからまた花をつけはじめますよ」
「そのころにまたお茶会をしたいね」
ミユウはそう言って紅茶をおいしそうに飲んだ。
わたしたちが気の早いことに今から秋のお茶会について計画を立て始めているのを、橙花先輩は目を細めて見ていた。
「それにしても、仲直りできてよかったな」
話が途切れたとき、橙花先輩はフルーツケーキをフォークで口に運びながら、何気ない調子で言った。
「心配してたんだ。結局けんかの原因は何だったんだ、とか、訊いてもいい?」
わたしとミユウは顔を合わせた。それから小さく笑って首を横に振る。
「ごめんなさい。女の子同士の秘密ということで」
橙花先輩はうなずくと、今度はミユウをうかがうように見た。
「オレ、ミユウちゃんに謝ったほうがいいかな」
「必要ないです。おかげで気づけたことがありましたから」
「何かあったんですか?」
首をかしげて訊くと、ふたりは苦笑して、ちょっとね、とだけ答えた。
会が中盤に差し掛かったころ、双子の先輩方はこんなことを言いはじめた。
「ミュウミュウって、最近本当、目立ってるよねー」
「美人だしー、学年首席だしー、暴漢に立ち向かうしー」
「みんなが注目してる」
「もう誰もミュウミュウのことを無視できない」
「オレたちもそう」
「ミュウミュウが誰と仲良くなるか、何をやるつもりでいるのか、オレたちずっと見てたんだー」
「ミュウミュウってわたしのことですか?」
ミユウは何の断りもなくつけられたひねりのないあだ名に反応した。なぜか輝く笑顔で。前のめりになった勢いでピンク色の髪の毛がさらさらと肩からこぼれる。
「それで、ヒカリ先輩とアカリ先輩はわたしのことが気になるんですね?」
「うん、まあねー」
「わたしから目が離せない?」
「えっと、まあ、そうだねー」
「わたしが誰と会ってるのか確かめずにいられない?」
「う、うん」
「わたしの一挙手一投足に目が行く?」
「え? う……ん?」
「わたしのことが――好き?」
一拍の間があった。
目が点になっていた。ミユウ以外の全員が。思ってもみなかったことを言われて、その言葉の意味を認識しかねている間だった。
双子の先輩方が同時に噴き出した。
「からかわないでよー、ミュウミュウ!」
「真顔で冗談言うんだもんなー。やられたよー」
げらげら笑うその目元には涙すら浮かんでいる。橙花先輩もにやにや笑いながら、ミユウちゃんって意外と冗談のセンスあったんだな、などと言っておもしろがっている。ユウコは呆れ顔で首を振った。ミユウがさらに、なぜ笑われるのかわからない、というようなわざとらしい顔をつくってみせるので、それを見た先輩方の笑いの発作はなおもしばらく続いた。
双子の先輩方は爆笑の余韻が残る涙を指で払って言った。
「回りくどいの好きじゃないし、率直に訊くけどさー」
「どうしてそんなに頑張るのさ? 何が望み?」
「望み?」
ミユウはきょとんとしていたけれど、しばらく考えて、慎重に答えた。
「……名声、ですかね、今のところ」
わたしは息を飲んだ。
名声――それはゲーム『エデン』において、攻略対象キャラとの親密度に並ぶ、重要なパラメーターだった。
親密度は言うまでもなく、キャラとの会話をこなし、イベントを発生させ、それをクリアしていくことで高くなっていく。キャラによってその他いろいろと条件はあるけれど、基本的にはこの親密度ゲージをMAXまで満たして3月に起こる事件――詳しくは忘れた――をともに乗り越えたとき、キャラが愛の告白をしてくれる、というものだった。
ゲームは恋愛とは別種の刺激もプレイヤーに用意してくれている。出世競争だ。イベント発生時、キャラとの親密度を上げる代わりに名声を上げる選択肢をとることができる。このゲージをある程度ためた段階で役員選挙に立候補することで、生徒会での役職を得ることができるのだ。名声ゲージをMAXまで満たして3月に起こる事件をクリアし、親密度ゲージMAXのキャラからの告白をすべて断ることで、エンディングで生徒会長になって学園に君臨するムービーを見ることができる。
(ミユウ、まさか学園の女王様ルートを……?)
出世競争を楽しむ気がないのなら名声を上げる意味はない。ミユウの口から誰それが好きだとか誰それとの親密度を上げたいだとかいった話を聞いたことがない。近くにいるからわかるけれど、ミユウは誰にも恋していない。だとするなら、このまま心奪われる誰かが現れないのなら生徒会長になろうと、ミユウは考えているのではないのだろうか? 志の高い彼女らしいことだ。
(それならわたしにもできることがある。ミユウを助けよう)
ミユウが恋愛したいというなら、わたしは見守るしかない。ゲームの知識がもっとあれば、と思うけれど、そんなものがあったとしても何も言わなかっただろうと思う。恋愛を楽しみたい人に効率のよい攻略の仕方を教えるのは野暮以外の何物でもないし、ゲームと違って実際の人間関係が生じるのだから無責任なことはできない。しかし、ミユウが生徒会長になりたいというのなら、友人として後援くらいはしてあげたい。
わたしは自分の考えで手いっぱいで、他の面々がミユウの言葉をどうとらえたのかうかがう余裕はなかった。彼らが何を思ったにせよ、それを察知する機会は永遠に失われていた。橙花先輩は素知らぬ顔でスコーンにクロテッドクリームとオレンジマーマレードをつけていたし、双子の先輩方はいつも通りの明るい笑顔でお互いにじゃれあっていた。いいよね、うん、大丈夫かな、黒羽にとられる前に、そうだね、と何事かの相談がまとまったらしく、ミユウに向きなおり、さりげない口調で話しはじめた。
「ミュウミュウ、後期からさ、執行部長になる気ない?」
「え?」
「だからー、執行部長になってほしいんだけど、だめ?」
「3年の先輩方は受験勉強もあるし、前期を務めあげたら普通もう引退するんだー。で、後期はそこの役職が空くんだよー。たぶんオレたちが繰り上がると思う。アカリも役員に立候補する。そうしたら執行部長がいなくなるだろー? 後任は誰がいいかなーって考えたとき、ミュウミュウが浮かんだってわけ」
ミユウは唐突にこちらを向いた。
「ユウコ、シズカ、わたしが執行部長になるのって、どう思う?」
自分たちに話が振られるとは思っていなかったわたしとユウコは、反射的に適当なことを返していた。
「は? 好きにしなよ」
「え? いいんじゃないの?」
果たして何の参考になったのかわからないけれど、ミユウはうなずいた。
「わかりました。やります」
「ほんと? 引き受けてくれてよかったー」
「助かったー」
(ミユウってやっぱりすごい)
わたしは今にもミユウに抱きつきたい気持ちでいっぱいだった。上級生から目をかけられ、責任ある役職についてくれないかと請われるなんて、わたしたちの親友はなんて素晴らしい人なのだろう!
緊張がほぐれ、一同はまたわいわい喋りはじめた。最近公開されたハリウッド映画や過去の名作の名場面についての話題で盛り上がっている。わたしは話についていけないので黙々とスコーンを食べていた。食べている限りはあまり意見を求められない。彼らの話の中に知っているタイトルはいくつか出てきた。でも実際に見たことがあるのは『アメリ』といくつかのジブリアニメだけだった。
わたしは幼いころから引っ込み思案で、友人と呼べる友人はいなかった。人に話しかけられず、話しかけられても上手く答えられず、そんな自分がもどかしくて惨めだった。教師が家庭訪問で家に訪れたとき、母親が決まって、友だちはいますか、と尋ねるのを横で屈辱的な思いで聞いていた。アメリのように独り遊びばかりしている少女だった。ところがわたしは彼女のように不器用だけれど悪戯好きの可愛らしい女の子にはならなかった。なぜか園芸マニアの薔薇愛好家になってしまった。
幸せなのは、そんなわたしのことを好きでいてくれる親友ができたことだった。そして彼女たちに引っ張られるようにして庭以外の場所にも足を踏み出すようになった。そうしているうちに得た他人からの注目や干渉が煩わしいこともあるし、もとの孤独が恋しいこともある。でも戸惑いながら必死に見過ぎ世過ぎしているあいだに、わたしのまわりには少しずつ人が増えていって、こうやってお茶会を楽しんでいたりもする。人生ってわからないものだなと思う。
アカリ先輩がアップルジュースのピッチャーに手を伸ばしたところで目が合った。フカリンも飲む?と小首をかしげる彼より先にピッチャーをとり、グラスに注いでさしあげた。
「ありがとー」
アカリ先輩はにこにこしてグラスを受けとり、一気にあおった。その途端、夜空のようにきらめく目は見開かれ、手からグラスがテーブルに滑り落ちた。その音に全員の注意が向けられ、明らかにおかしいアカリ先輩の様子に戦慄が走る。その場がしんと静まり返り、一同が仰天して見つめる中、ヒカリ先輩が悲鳴まじりに名前を呼んだ。
「アカリ!?」
橙花先輩が椅子から飛び上がって手を伸ばしたけれど、届かなかった。アカリ先輩はがくっと上体を倒してテーブルに頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。彼の口から流れる血がアップルジュースと混じり、テーブルクロスを赤く赤く染めていく――。