7月 薔薇の下で(2)
――side: 青葉ミズキ
「青葉くん!」
絵筆を握る美術部員たちが思い思いにキャンバスに向き合っている部室の静けさを、ひとりの闖入者が盛大にぶち壊した。闖入者の女は僕の姿を見つけると一直線に走り寄ってしがみつき、もう一度、青葉くん、と叫んだ。
部室内には即座にざわめきが広がった。僕は最速で立ちあがり、廊下まで彼女を引きずって行った。限界まで伸ばされた首が僕たちを追う。誰、あの子? 春風ミユウと付き合ってるんじゃなかったの? 部員たちがそうささやき合っているのが聞こえた。
廊下をずんずん進み、人気がなく目立たないあたりまで来たところで僕はようやく彼女の腕を放した。
「何のつもり、庄司さん。あんな風に現れて」
語気鋭く尋ねた。しかし庄司カレンは耳に入っていないかのように興奮した甲高い声を上げた。
「ねえ! やっぱりばれてるよぉ」
「どういうこと?」
「あの女、春風さん、すっごい怒ってたもん!」
「だから、どういうこと? ちゃんと説明してよ」
声をひそめているのが難しい。僕は忍耐をかき集めて尋ねなおした。
庄司カレンは半べそで答えた。
「さっきまで旧校舎のトイレに隠れてたの。下校時間のあとで役員室に忍び込もうと思って」
「警備員に見つかったらどうするつもりだったんだよ?」
「わたしだって馬鹿じゃないよ」
言いながら彼女は何かの薬を見せた。もし警備員に見つかったら喘息の発作が起こったから帰るに帰れなかったと申し開きをするための小道具なのだという。
「そうしたら急にあの女が入ってきて、わたしがいる個室のドアを蹴りだしたのよ! ふざけないで、許さないって叫びながら……。何なの、あの女? わたし、すっごい怖かったよぉ、青葉くぅん」
僕は眉をひそめた。にわかには信じられなかった。ミユウがそんなことをするだろうか? ミユウを敵視しているこの女の狂言ではないのか?
「ほんとに怖かったんだから! 青葉くん、春風さんと付き合うのもうやめなよ。普通じゃないよ、あの人」
「うーん」
「もう! わたしの言うこと信じてないでしょ? 本当なんだから! わたしたちが黄葉先輩のことをこっそり調べてるって絶対にばれてるよ! だからあんなに怒ってたんだよ! ねえ、もうやめようよぉ」
僕は首を振って泣きごとを拒んだ。
「でもまだ調べきれてないだろ」
「青葉くんは何を知りたいの? なんでこっそり調べなきゃいけないの? いつまでこんなことするの?」
庄司カレンは口ごもりながら潤む眼差しを向けて尋ねてきた。
(か弱い女の子アピールかよ。もっと根性あると思ってたのに)
苛立ちを見せないようにするのは苦心した。もともと女の子女の子したタイプの女は苦手だった。彼女たちはたいてい感情的で、周囲の男を『ものにしたい男』と『その他』に分類しており、前者に秋波を送り後者を無視することに忙しい。僕みたいな女顔の男はいわゆる『対象外』というやつで後者に分類されることが多いように思うが、庄司カレンにはこの顔がお気に召したようで、不断の秋波を送られている。
僕は庄司カレンのフューシャピンクの髪をなだめるように梳き、優しい口調を心がけて言った。
「黄葉先輩が何をやっているのか、何を考えているのかを知りたいんだ」
「なんで?」
「怪しいから。黄葉先輩がこそこそ何かをやってるのは間違いないんだ。それが何なのか知りたい。というより確信したい。僕の好奇心がどうとかじゃなくて、たぶん生徒全員の学園生活に関わることだから」
マスカラがたっぷり乗った重そうなまつげが何度か上下した。
「黄葉先輩が何か不正なことをしてるの?」
「そうは言ってないし、それはないと思う」
「じゃあなんで調べなきゃいけないの?」
僕は答えを詰まらせた。途端に庄司カレンの紫色の目が燃え上がった。
「やっぱりね! 春風さんのためなんでしょ!」
げに恐ろしきは女の勘だ。
「そうじゃないかと思ってた! なんでわたしがあの女のために協力しなきゃいけないのよ!? 青葉くんの頼みだからと思って頑張ってたのに! わかっててわたしを利用したんでしょ! ひどい!」
「なんでもやるって言ったのは君だろ、庄司さん」
「最低!」
しゃあしゃあと言った僕の頬を平手が襲った。小気味よい音がし、僕はその威力によろめいた。庄司カレンは泣きながら走り去っていった。
(痛い……)
頬を押さえてじんじんする痛みにうめいていると、いきなり誰かの淡々とした感想が寄せられた。
「最低」
第三者がいるとは思っていなかった僕は飛び上がって驚いた。覚えのある声の主を振り向きながら睨む。
「マサタカか。見てたのかよ」
「視聴覚室にいた。目の前で騒がれれば気づく」
教室の窓から廊下に顔を出していたマサタカは庄司カレンが走り去っていった方向を視線で示した。
「あの子、いいのか、追わなくて?」
「いいんだよ。数日したらあっちからごめんねって言ってくる。ああいう女はそういう女だよ。それにお前は知らないだろうけど、庄司さんとは数年来の付き合いだよ」
「いつものことなのか」
マサタカは納得したように呟いた。
僕はマサタカを押しのけ、窓枠から視聴覚室の中に入った。ドアを使えば、という非難は聞き流す。
太陽が雲の後ろから現れ、教室に長い影を落とした。カーテンをふんわりと持ち上げた風が床に無造作に置かれた本のページを繰る。
「また本を読んでたのか。読書ってそんなに楽しい?」
「…………」
「まあいいけど。くそ、まだ痛い。こんなことならお前に頼むんだった」
頬を撫でながら反対側の窓から外をのぞいた。正面には南館があり、ここ北館とのあいだには中庭がある。生徒が何人か、中庭の自販機コーナーの前でたむろしているのが見えた。
「春風ミユウのために働く気はないけど」
「わかってるよ。頼むときに、ミユウのためにお願いします、なんて言うわけないだろ。別のもっともらしい理由をつけるさ」
「いい性格してる」
その呟きにはあるか無きかの感情――呆れ――が含まれていたが、マサタカはすぐにそれを消し去ってしまった。
「黄葉先輩の、何をどこまでつかんだ?」
「うん? 最近、自販機をいろいろ調べてるらしいよ」
僕はにこにこと愛想よく答えた。
「自販機?」
「そうそう。自販機を設置してる業者の営業とも会ってるみたいだよ。詳しくは知らないけど」
しかし情報を整理すれば想像はできる。
「それ、春風に教えるのか?」
「いや? 今回はいいんじゃない?」
ミユウにばれているという庄司カレンの話が本当なら、おそらくその必要はないだろう。証拠もつかもうと思っていたけど、ここらで手を引いておくべきなのかもしれない。ミユウが、黄葉先輩について探っている庄司カレンに対して激しく詰め寄ったというなら、余計なことはされたくないに違いない。ミユウは十中八九、黄葉先輩と繋がっている。
(でも、ふたりだけでこそこそやってるなんて、ずるいなあ。こんなに尽くしてるのに除け者なんて悲しい。意地悪してやろうかな)
塔のように上に伸びた入道雲が光る夏らしい空。その下では生徒たちが何も知らぬ顔で――あるいは何を知らなくてもかまわないという顔で――歩いている。彼らは役員会や執行部の面々の容姿や家柄や頭の良さについて話し、驚くほど知ってはいるが、彼らがやっている仕事などには爪の先ほどの関心も示さない。陰に陽に行われている権力争いや利害調整も、アイドルの人気投票をテレビ越しに見ているかのような熱心な、もしくは冷笑的な態度で眺めているだけ。ゲームは横から見ているより自分でプレイしたほうがずっと楽しいものなのに。しかしありがたいことに、僕はプレイヤーを何人も知っていた。
(さて、このことを誰に教えてあげよう?)
押さえた手の下で頬が熱を持っている。この痛みも、ミユウのためだった。そしてそれは今のところ、僕自身のためだということと同義だった。
――side: 橙花チトセ
シズカちゃんとミユウちゃんが仲直りしたことで、凍結状態にあったガーデンパーティーの計画は急に動き出した。シズカちゃんと話して、大勢でにぎやかにやるよりは少人数で和気藹々とやりたいね、ということになり、彼女たち3人娘とオレとの4人でお茶を飲みながらのんびりお喋りでもしようと決まった。
世のたいていの男たちは、女の子の集団に自分ひとりで混ざって、しかもお茶会のホスト役まで務めるとなると、多大なるプレッシャーとストレスを感じるだろう。彼女や女房の買い物に付き合うことすら苦痛に思うほうが、むしろ男にとっては一般的だ。だが、断言するが、そんな体たらくで女の子にもてようなんて縁木求魚もいいところだ。なかにはオレのことを、女に媚びているだとか、必死にもてようとしているのは見苦しいだとか言うやつもいる。女そのものを見下げることで男である自分の優位性を保とうとしているやつもいる。好きなようにすればいいと思う。ただひとつ揺るぎない事実がある――オレの女の子からの人気は偽りではないということだ。この学園には同じ程度に容貌に恵まれた男がどうしたわけか多数いるが、それでも一番人気があるのはオレだった。そんなことを大声で言うほど馬鹿ではないが。女が好きなものを好きになれ。これがオレのモットーであり、女性の発言力が強い家庭で育ったがゆえの処世術だった。
掃除が終わり、ゴミ捨てから戻ってくると、教室ではいつも連んでいるやつらがわいわいとなにやら盛り上がっていた。今日が終業式で、世間では明日から夏休みなので、そういう楽しい気分が伝染してどこか浮かれたような雰囲気が学園中に漂っていた。彼らもそんな気分に当てられたのだろうか。だがしかし進学校に通うオレたちには関係のないことであり、1学期が終わったということはすなわち夏季補習が始まるということを意味しているにすぎない。今日もこれから3年生には小論文模試が控えている。とはいってもやっぱりオレたちは青春を謳歌したい高校生なのだ。
「なあチトセ、今度の土曜は暇? プール行かねえ?」
「新しくできたところ。今CMでもやってるじゃん、『園生アクアティックス』」
友人たちが教室に入ってきたオレに気づき、遊びの誘いを投げかける。盛り上がっていた話題はこれだったらしい。オレはすぐさま了承しかけて、ぎりぎりで思いとどまった。
「あー無理。ごめん。用事ある」
残念だが。
「そっか。用事があるなら仕方ないな」
グループで遊ぶとなると、誰かが予定がつかなくて欠けてしまうのはよくあることだ。オレの断りはあっさり受け入れられた。ただ、女の子たちは男たちよりはるかにオレのことを惜しんでくれた。
「嘘!? 行けないの? えー……」
「用事って何?」
「水着、新しく買おうと思ってたけどやめた」
「行くのやめようかなあ。ほんとは予備校に行かなきゃいけない日だし……」
「おいお前ら。あからさまにテンション下げてんじゃねーよ」
リョウの苦笑にも力がない。
エリはムッとしたようすで質してきた。
「ねえチトセ! 用事って何? 女の子とデート?」
「そんなんじゃないよ」
答えたくなくてはぐらかそうとしたが、エリの疑いをますます深めただけだったようで、険のある目つきで睨まれた。
(エリって別にオレの彼女じゃなかったよな?)
女遍歴にエリの名はなかったはずだと不安になりながら考え、渋々先約を明かした。
「園芸部の子とかと一緒に薔薇を見ながらお茶会するだけ」
「お前どこの有閑夫人だよ! そのうち庭先で井戸端会議でもしだすんじゃねーの?」
「やっぱり女の子といちゃつくのかよ!」
「今お前にハゲる呪いをかけた」
「お茶会? 園芸部と? ……そんな部あった?」
「そんなの断ればいいじゃん。プール行こうよー」
「わたしも行ったらだめ?」
「ごめん。知り合い同士で小ぢんまりやりたいから」
オレは笑って言った。
小論文の出題テーマは学問系統ごとに5つで、そのうちふたつを選んで解答するというものだった。オレはまず裁判員制度導入の意義と問題点についてのテーマを選び、それから自殺者数増加の社会的要因と予防対策についてのテーマを選んだ。
書き終わって時計を見ると、まだ20分近く時間が残っていた。ペンを握りしめていた右手はすっかり強張っていて、ぶらぶらと手を振りながら周りをそっと眺めると、まだほとんどの生徒は一心不乱に書きかけの小論文と向き合っていた。
数学以外は基本的に見返さないオレはさっさと解答用紙をひっくり返し、その上にひじをついた。
試験中、周囲の競争相手にプレッシャーを与える方法は数多くある。シャーペンをやたらノックしてカチカチという音をたてるやつ、ペン先を必要以上に紙に強くぶつけながら字を書くやつ、頼むから病院に行ってくれと言いたくなるほど咳をして鼻をすするやつ、様々いる。そういうやつらはどれほど殺意をこめて睨まれようが全然気にしない。結局のところ、集中しきれず苛々したやつの負けなのだ。オレの場合はもう少し穏やかな方法をとる。早めに回答し終わったら可能な限りリラックスして余裕を見せつけるのだ、さも簡単な試験だったと言わんばかりに。
手足を投げ出してあくびを噛み殺しながらぼんやりと今度の土曜日のことを考えた。
(ケーキもいるよなあ。あったほうがシズカちゃん喜ぶよな。どこに頼もう?)
窓から差し込む暖かい午後の光に目を細める。
(今ごろ庭で薔薇の世話してるんだろうな。オレも試験終わったら行こうかな)
こんなのどかな夏の日には、穏やかな彼女とのほほんとすごすのもいいだろう。たしかに陽気で活発な仲間たちと騒いで笑いあってすごすのも楽しい。プールに行く誘いを断らなければいけなかったのは残念だった。しかし、シズカちゃんのうれしそうな顔を見られるのなら、それでもいいかなという気がした。
(何考えてるんだろう、オレ……)
今さら否定する気もないが、オレは女の子が好きだった。なかでも好きなのは、オレになびきそうな女の子だった。効率という尺度でこういう話をするのは違和感があるが、脈のない女の子を口説くのはどうしても有益な時間や労力の使い方には思えなかった。勝算のない戦いを楽しめるのは歴史書を読んでいるときだけだ。
(シズカちゃんは、なびきそうにないんだよな)
いつだったかの、思いつめたような、夢見るようなシズカちゃんの横顔が思い出された。彼女は好きな人のためだったら何でもしたいと言った。誰にも理解されなくてもかまわないとも。
『……そうか。もう長いことそいつを好きなんだな』
『はい。――生涯をささげたいと思っています』
強い思いのこもった、清らかな声。
無理だ、と思った。こうまで思われている存在に太刀打ちなんてできるわけない。だからこの子とはよい先輩後輩の関係でいるのがいいだろう、そう思った。オレが狙うのはフリーの子だけだ。オレはアレキサンダー大王ではないし、征服王と称されたウィリアム1世でもない。侵略戦争を指揮して見事領土を勝ち取った彼らとは違って、オレにはその気概もなければ人間的な魅力もなく、気になる女の子ひとり別の男から奪いとろうとは思わない。例外はあるにしても。
(キョウスケにとられるくらいだったら……)
その場合はアッティラ式で解決するしかないだろうが……。
(まあ、とりあえずはいいか、このままで。シズカちゃんが思いつづけているのが別の誰かである限り――)
「――はい、そこまで。手を止めてください」
解答時間が終了したことを告げる教師の声が意識に割り入り、教室を満たしていた緊張が一気に弛緩したのを感じた。教師が用紙を回収するのも待ち切れないおしゃべりが、どこからかひそひそと聞こえてくる。もっと気の早いやつはもう帰り支度を始めている。
「確認終わりました。解散していいですよ」
教師が言い終わらないうちにオレは立ち上がり、またな、とかけられる声に手を振りながら教室を出た。




