7月 薔薇の下で(1)
――side: 春風ミユウ
わたしは執行部室の扉を、音をさせないようにそっと閉め、廊下を悠然と進んだ。すっとしたのびやかな足は軽やかに飴色の板張りの床を踏み、窓からこぼれる陽光は肌の上で金色に踊っている。すれ違う人に微笑みを向ける様はまるで天使か妖精か。わたしはそのままトイレに入り、個室のドアを力いっぱい蹴りつけた。
「ふざけないでよ!」
怒りとともに先ほどの光景が眼前によみがえる。
「だーからー、何回持ってきてもだめだって。ドリンクポリシー? 要らないんだよ、そういうの。オレ通すつもりないから」
双子(弟)はすげない一瞥をくれただけで、アップルジュースのストローをくわえたまま言った。そしてそれきり関心を見せることもなくわたしを無視した。どんな根拠を足しても、誰に助言をもらっても同じ。これがここ2週間近くのこいつの態度だった。
わたしはあえて空気を読まず、しつこく尋ねた。
「どうしてですか? 何が気に入らなくて受け取ってくれないんですか?」
双子(弟)はうっとうしそうに眉をしかめ、ストローに歯を立てた。
(ほんと、この態度は何なの?)
世界一の美少女に相手をしてもらえる男の正しい態度なのだろうか? とてもそうは思えない。心底不思議だった。情緒面に何か欠陥を負っているのではないだろうか――すごく心配になりながらさらにわたしは尋ねた。なんでなんで? どうして?
双子(弟)はとうとう声を荒げた。
「まーだわかんないのー? いいよ、何回も来られてもウザいだけだしこの際はっきり言っとくけどさー」
藍色の目にはっきりと不満が宿っているのが見えた。
「なんで紙パック除外してんのー?」
「……はい?」
「オレのアップルジュースもだめってことじゃん。みんなが喉を潤してるあいだオレに唾でも飲んでろってことー?」
「……紙パックからペットボトルに容器を移し換えたらいいんじゃないですか?」
「うん? 春風さんがやってくれるわけ?」
「……つまり、あれですか? 好物の紙パック入りアップルジュースが許可対象から除外されているから、それが気に入らなくていろいろ難癖をつけて邪魔してたってことですか?」
「ようやくわかってくれたんだー? ほんと春風さんって察し悪ーい」
そう言って双子(糞)は明るく笑った。
殴りたい――そう考えてしまうわたしを責める人間がいるだろうか? 右手をぎゅっと握りしめ、パンチを入れるタイミングを計る。頬がいいだろうか鼻がいいだろうか、と双子(糞)の顔を睨みつけた。悪気なさそうなのびのびとした笑顔、澄んだ目、血色のよい頬。少年的魅力にあふれた――まぎれもないイケメンだ。わたしは拳をすっと引いた。
(危ない……。イケメンの顔をぶっ飛ばすところだった……。なけなしの親密度までぶっ飛んでいっちゃうところだった)
しかし怒りは収まらない。
「私情を持ちこむのはやめてもらえませんか」
「世の中さ、結構なところ、気分と利害が理由になるもんだよー。勉強になった? ならもう行って」
あっけらかんとそう言うと、双子(弟)はドアを指差した。
ストレスを感じたとき、それに対処する方法は人さまざまだ。過食に走る人もいるだろうし、寝ることで忘れようとする人もいるだろう。繰り返しになるけど、どの発散方法が正解ということはないと思うし、いけないということもないと思う。わたしに関して言えば、このとき、ありていに言えばムカついていた。だからわたしは気がすむまで怒鳴り散らし、学園の備品に八つ当たりするつもりだった。もちろんこの発散方法も不正解ではないはずだ。思えばシズカと仲違いをした時もそうやってストレスに対処した。褒められたやり方ではないかもしれないけど、メンタルヘルスを良好に保つことはストレスの多い現代社会では難しく、社会に適合して生きる上では仕方がないと言えるだろう。このことはわたし個人の問題ではなく、現代社会が抱える病魔のようなものなのだ。現代人の悲しい性なのだ。仕方がない、仕方がない……。
「わたしを虚仮にした! 報いは! 絶対に! 受けさせてやる!」
わたしは言葉を区切るごとに足の裏で思いっきり個室のドアをたたいた。留め金がガンガンと激しくぶつかり合い、蝶番がギシギシときしむ鈍い音をたてた。わたしは構うことなく蹴りつづけた。旧校舎のトイレのドアが壊れたところで老朽化によるものとみなされるに決まっている。
扉の向こうから悲鳴が聞こえた。
「わたしが悪かったからっ! やめて! ごめんなさい! やめて!」
「……え?」
足が止まった隙にドアが勢いよく開き、女子生徒がひとり転がるように出てきた。
「助けて!」
「……は?」
彼女は脇目もふらず女子トイレの扉に飛びつき、フューシャピンクの髪を振り乱しながら駆けて行った。わたしはぽかんとその背中を目で追った。
「何あれ、あんなにあわてて出ていっちゃって……。ちゃんと拭けたの? まったく、入ってるなら入ってるって言えばいいのに」
はあ、とため息をひとつつく。まさか先ほどの一事をもってわたしを暴力的な人間だと即断することはないだろうが――当然これは現代社会の病魔のせいなのだから。少し考えればわかるはずだ。あんな風に飛び出して行かなかったならわたしからもきちんと説明できたものを。
便所女の挙動不審のせいですっかり毒気が抜けてしまった。
わたしはスカートのポケットから携帯電話を出した。冷静になればするべきことがある。それはもちろんいつまでも鬱憤をぶちまけることではないし、いわんや便所女を気にかけることではない。
何度かの呼び出し音ののち、相手が電話に出た。
「シズカ、まだ帰ってないよね? 今時間ある? ――そう、よかった。あ、ユウコもいるんだ。悪いんだけど、ちょっと手伝ってくれない?」
次の手を考えることだ。
薔薇園の入り口まで来たところで、本館のほうから小走りに近づいてくるシズカと会った。その後ろからユウコものんびりと歩いてきた。
わたしはシズカの腕に抱えられた人数分のジュースに目を留めた。
「ありがとー。いいのに。わざわざ買ってきてくれたの?」
「ついでだったから」
「何の?」
ほら、ここから見えるんだけど、とシズカは本館入口のあたりを指差した。
「あの自販機コーナーの前に黄葉先輩がいらっしゃったの。15分も。だからちょっと、飲みものを差し入れしてきたのよ」
ユウコが呆れながら首を振る。
「シズカ、あんたってどんだけいい子なの。もうちょっと立たせとけばよかったのよ。黄葉先輩くらいのイケメンなら、それが施し目当てのしけた面だったとしてもいくらでも女が寄ってくるんだから」
「ユウコは厳しすぎるの。きっとお財布をお忘れだったのよ」
「小銭を持ってなかったんじゃないの?」
わたしたちのフォローをユウコは鼻で笑い飛ばした。
「何? カードと小切手しか見たことありませんって?」
「案外買い方がわからなかったとか……」
「ただの馬鹿じゃない、そんなの」
シズカはわたしたちを薔薇園の中へ促して歩きだした。困った顔をしていたけれど、思い出したことがあったのか、振り返ってとりなすように微笑んだ。
「あ、でも橙花先輩が前に笑い話で教えてくださったんだけど、黄葉先輩って最近まで食堂の食券システムを使ったことがなくてわからなかったらしいの。テーブルに案内されてウェイターにメニューを持ってきてもらうようなところにしか行かないから。だからあながちその可能性がないとも言い切れないと思う」
「真性のお坊ちゃんね。そうよね、『六葉一花』だものね」
ユウコは意地悪く呟いた。
前々から思っていたけど、ユウコのこの『六葉一花』に対する敵愾心は一体何なのだろう? 思春期独特の反社会的な気分なのだろうか?
シズカに案内されてたどり着いた、白と淡いピンクの薔薇に屋根まで覆われたテラスはまさに少女の夢そのもの。幼いころに絵本で読んであこがれた『おひめさま』の庭のようで、高校生になってしまったわたしにはどこか気恥かしさを感じてしまう場所だった。ユウコなんかはあからさまに気後れしていた。
陽光が燦々と降り注ぎ、心地よい風が通り抜ける。おしゃれや恋の話でもしたくなるシチュエーションかもしれないけど、生憎とそんな可愛らしい内面を持っていないのがわたしの友人たちだった。彼女たちとそんな会話を交わしたことはなく、それは今日も例外ではなかった。彼女たちの深刻そうな顔の前にわたしの熱弁にも力が入る。
「とにかくわたしはこのドリンクポリシーを通したいの! 夏休みに入る前に!」
バン、とテーブルを叩くおまけつきだ。
「でも部長の妨害にあってそれが困難、と」
クールなユウコの声が憂鬱そうに響く。
シズカの眉が気遣わしげに寄せられた。
「部長をすっ飛ばすことはできないの?」
「できない」
普段ならいくらでもできるだろうけど、こうまで目の敵にされては難しいだろう。結局のところ、わたしは1年だけど相手は2年であり、わたしはただの部員だけど相手は部長なのだ。しかしこれもゲームである以上、攻略する道はあるはずだった。きっとわたしはまだ要件を満たしていないのだ。双子(弟)との親密度が足りなくて冷たくされるのか、穏健眼鏡との接触が足りなくて重要なアドバイスをもらえていないのか、はたまた他の理由によるものかはわからないけど。このあたりの情報を得ることができたらいいなと思ってシズカに連絡をとったのだった。
「シズカ、どうしたらいいかわかる?」
ところがシズカは沈黙した。色々考えを巡らせているようではあったけれど、攻略法を知っているようではなかった。
「紙パックも解禁にしたら?」
「だめだよ。顧問の茶堂先生とも話したんだけどさ、ここが落とし所なんだよね。飲み物なら無制限にオーケーとはしづらいんだ」
首を振って答えると、シズカは消沈したように肩を落とした。
(シズカも知らないか。まいったなあ)
そんな中、ユウコがおもむろに口を開いた。
「署名と判子があればいいのよね?」
「……何考えてるの、ユウコ?」
ユウコは足を組みかえ、トントンと指先でテーブルを叩きながら思案げに続けた。
「署名はトレーシングペーパーでなんとかなるでしょ。別に筆圧までは見ないでしょうし。判子は適当に百均で買ってくればいいわよ――藍葉姓はオーダー品じゃないとないか。なら本人のをちょっと拝借すればいいでしょ」
シズカがあわてて小さく叫ぶ。
「ちょっとユウコ!」
「大丈夫、ばれないって。見張りやってあげようか?」
「ばれるばれないの問題じゃなくて……」
「オーケー。わかったわ。金武にやらせよう。ほら、あいつも執行部員だから機会なんていくらでもあるし。ミユウが頼めば絶対にやってくれるわよ。惚れた弱みってやつで」
「ちょっとそれは外道すぎるの。そんなふうに好意を利用するなんて」
「金武だってミユウの役に立ててうれしがるんじゃないの。まあ、色惚けしてるあいだは。ミユウの弱みを握って精神的優位に立つチャンスでもあるわけだし」
シズカはいよいよ眉を吊り上げた。
「ていうかダメじゃない、勝手に好意をばらしたりしたら!」
「わたしが悪かったわよ。金武、ごめんね」
怒りを見て取ってユウコは素早く言った。しかしその直後、悪びれることなく嘯いたことで全部台無しだった。
「でもあんなにわかりやすいんだもの、ミユウだってとっくに気づいてるでしょ」
「ユウコ!」
「堅いこと言わないで」
ユウコは横柄な調子で椅子の背もたれに寄り掛かった。
「じゃあわたしがやってあげる。それならいいでしょ。なによ、楽勝じゃないの。こんなことで悩んでるなんて馬鹿みたいだったわね、ミユウ!」
「何が楽勝なのよ、ユウコ。そんなの絶対あとでばれて問題になるよ……」
わたしは呆れて肩をすくめた。
「あんたまでそんなこと言うの?」
「必要なのは承認であって、署名と判子じゃないんだけど」
「シズカ! あんたもミユウを説得しなさいよ。今さら公正公平に何の意味があるのよ? 遵法精神なんか藍葉アカリのケツの穴にでも突っ込んでおきなさいよ。いい? 自分がアップルジュースを好きなときに好きなように飲めないからってミユウにパワハラやってんのよ、あの男は。誰が悪いの? わたし? 藍葉アカリ? それともミユウ? 困り果てたミユウの前で、あんたはいつまでお行儀よく振舞ってるつもりなの?」
シズカはくちびるを噛むと、泣きそうな顔をしてうつむいた。言いすぎだ。わたしは目配せでユウコを咎めた。
「だから、形式だけ揃えても意味ないんだって。いくら阿呆でも文書を偽造されたことに気づかないほどの阿呆じゃないよ、さすがに」
そう言えばユウコはようやく渋い顔をして黙った。
そこからは3人の前に置かれたジュースが減っていくだけで、特に建設的なアイディアが出てくることはなかった。わたしは幾分気落ちしながら早々に次の手を考えていた。シズカが攻略情報を持っておらず、ユウコがお助け情報を持っていないのなら、穏健眼鏡と双子(弟)との親密度を地道に上げていくしかなさそうだった。
ふいにおっとりした声が優しく沈黙を破った。
「……脅せば?」
わたしは初め、その意見が誰の口から発されたものなのかよくわからなかった。
「…………はい?」
「文書を偽造した後、アカリ先輩に騒ぎ立てられるのが問題なのよね、結局。なら口を閉じててもらおう。アカリ先輩はもう十分、この件について自分の意見をしゃべったと思うの」
「……あの、シズカちゃん?」
「わたしだって怒ってないわけじゃないの。アカリ先輩ったら理不尽なんだもの」
シズカの口はへの字に曲がっていた。
ユウコは途端に意気を取り戻した。
「そうこなくちゃ! そうね、脅せばいいか。でもそれなら偽造は必要ないかしらね。本人に書かせればいい話だし」
「だめ。さっさと書類は作って通しちゃうべき。気づかれないうちに役員会の承認までもらっておきたい。そうじゃないとまた遅延工作されると思う」
「ちょっと待って。脅すっていったって、何をネタに? どうやって?」
「やだミユウ。脅すなんて誰が言ったの? ただ、少し、アカリ先輩と交渉する必要があるってだけなの」
「シズカ、あんた……」
「ほんとよ」
シズカはくすりと笑った。
「大丈夫、わたしには偉大な前例があるもの。ねえ、覚えてる? 入学したばかりのころ、ミユウがわたしの庭を救ってくれたんだったよね。庭も成績も維持するのすごく大変だけどね」
ユウコが嫌らしいにやにや笑いを送ってくる。
「その話はわたしも聞いてる。ああいう希望の押し付け方があるんだってわたしも学ばせてもらったわ。ご立派じゃない、ミユウ、この頑固なシズカをワルに仕立て上げるなんて」
「何のことやら」
そんなことがあっただろうか? 記憶力は天下一品だというのにまったく覚えがなかった。それに園芸に関してはまったくの門外漢のわたしが庭を救うなどできるはずもない。シズカをワルの道に引きこんだなど言いがかり以外の何物でもない。おそらく、彼女たちは何らかの事実を歪んだ形に受けとめたのだろう。物事を自分の都合のいいように解釈する女の脳みそのなんと恐ろしいことか。
風がそよそよと吹き抜けた。シャワーのように垂れさがる薔薇がゆらゆらと揺れる。ユウコとシズカは共犯者めいた微笑みを浮かべている。