7月 名声
――side: 春風ミユウ
わたしとユウコとシズカは、再び3人で学園の廊下を歩き、食堂で昼食をとり、休み時間に雑談をするようになった。そのいずれの場所にも、遠慮のない視線、こちらをうかがう訳知りぶった目、驚きの浮かんだ顔があった。地球が生んだ素晴らしい奇跡であるわたしのことを、みんな興味津々に注視していた。
ユウコはからあげ定食についていたお新香を箸でつつきながらため息をついた。
「あんたといるようになった途端これよ。離れてた半月の間、どれだけ静かに過ごせたことか」
「ミユウったら有名人だものね」
「わたしたちがまたつるむようになったって、それだけのことじゃない。一体どういう気分なのよ、ミユウ? 自分のやることなすこと周りの人間たちが見てるっていうのは?」
ユウコもシズカも、寄せられる注目に明らかにうんざりしていた。わたしは肩をすくめて返した。
「気にしてもしょうがないよ」
「慣れっこってわけ?」
「苛々しないでよ、ユウコ。楽しめばいいんだよ」
無視され続ける人生よりよっぽどましではないか、というのがわたしの意見だった。教室内を一度よく見てもらったらわかることだけど、どのクラスにも、誰かに意見を求められることもなく存在を認知されているかも怪しい生徒がいる。別にそこまで極端ではなくてもいい。クラスの中の中間層、ごく平均的な連中だって、基本的には身近な人以外誰からも関心を向けられていない。この世の大多数は無視されながら生きている。一方で、教室の人が集まっているあたりを見てみよう。そこにはいかなる発言や行動も注目される生徒がいるのだ。良し悪しをここで論じるつもりはない。重要なのは、それが現実にどういった意味を持つのか、ということだ。
乙女ゲームを現実のものとしてプレイすることにおいて、目立つ存在と目立たない存在と、どちらが有利だろうか? これはわたしの天才的な頭脳をもってしても、ルートによる、としか言えない。外向的性格や派手な容姿が誰に対しても常にプラスに働くとは限らないからだ。では、逆ハーレムルートをとるなら、という条件をつけ足せばどうか? これで、目立たない存在、と本気で答えるやつはもう何年も前に脳死の判定を受けていてもおかしくない。プレイヤーは攻略対象キャラたちと必ずしも接点を持っているわけではないのだ。下手をすればこちらの存在に気づいてもらう前に卒業というタイムリミットが来てしまう。前述したように、平均的な人間以下は相応の人間関係しか築けないものなのだ。彼ら程度の求心力では十分な魅力を備えていてさえ、せいぜい攻略対象キャラのひとりと知り合い、関係を深めるくらいが関の山だろう。だから、逆ハーレムルートには人に発見され、引き付けて離さない何らかの魅力、求心力が不可欠となる。
ではここでいう『求心力』とは何か? わたしはそれを最近ずっと考えていた。美貌だろうか? 否、それならわたしが入学した瞬間から逆ハーレムが形成されていなければおかしい。なら金か? 否、社会人設定ならまだしも高校生にとって経済力とはすなわち親や先祖の甲斐性のあらわれでしかない。コミュニケーション能力? 否、おしいとは思うけど有名人になるにはそんなものでは足らない。
(これはゲームなの。ゲームであるからには必ず公平であるはず。容貌や実家の資産や天性の能力なんて要素はプレイの結果じゃない。ただのオマケにすぎなくて、プレイには関係ないとみたほうがいい。今の時点でわたしが圧勝してないのがいい証拠だよ)
とするならこれらが『求心力』であるはずがない。ならば『求心力』とは何なのか? この問いにわたしが出した答え――それは、『名声』だった。
昼食が終わって教室に戻る途中、茶髪の3年生とすれ違った。彼女はわたしたちを見て目を丸くし、その瞬間――わたしの聞き間違いでなければ――あーあ、と言うように吐息をもらした。わたしが眉を寄せるより早く、その3年生はにっこり微笑んでシズカに喋りかけた。
「あら。あなたたち仲直りしたの? よかったわね、深川さん」
「はい、お陰さまで」
シズカも恥ずかしそうに微笑み返し、頭を下げた。3年生は一笑して歩き去っていった。
「誰?」
「宮井先輩よ。赤葉先輩の親衛隊隊長さん。わたし、いいようには思われてないと思ってたけど、ミユウとのことを心配してくれてたの」
(親衛隊隊長? オレ様王子様の?)
なぜそんな女がシズカの周りをうろちょろしているのか?
「いいようには思われてないって?」
「赤葉先輩に推薦されて執行部に入ったから、ちょっと警戒されてるみたい。親衛隊に入らないかって何度か誘われてるの。護衛対象とは恋愛禁止らしいから。……だから心配してくださってたのかな?」
「……ユウコ、シズカ、悪いけど先に行ってて」
「ミユウ?」
わたしはふたりをそこにおいて、今まで歩いてきた廊下を全速力で走って戻った。迷惑そうな顔や廊下を走るなという叱責の声を全部無視して、走りながらワンレングスの茶髪を探した。
(いた!)
目指していた背中を見つけ、わたしはさらに速度を上げて追いついた。
「春風さん?」
「お話があるんですけど、いいですか?」
切れる息で尋ねると、オレ様王子様の親衛隊隊長である宮井先輩は呆気にとられたようにうなずいた。
「……いいけど」
了解を得、校舎裏に宮井先輩を引っ張ってきたわたしは、開口一番にこう言い放った。
「もうわたしを無視してシズカに関わるの、金輪際やめてください」
古今東西イケメンの親衛隊というものは、ヒロインに対して牽制したり嫌がらせしたり、何かそういった無駄な努力をするものと決まっているはずだ。ヒロインをスルーしてその親友役にちょっかいをかける存在では断じてないはずだ。彼女たちは何か大変な誤解をしているのではないか? そうだとするならわたしがその誤解を正すしかないだろう。――そういう親切心からの忠告だった。ところが、宮井先輩はこの忠告を感謝して両手で押しいただけばいいものを、とち狂っているのか挑戦的に眉を吊り上げて言った。
「あら、どうして? なぜ春風さんにそんなこと言われなきゃいけないの? わたしが誰と仲良くするかなんてあなたに関係ないでしょう?」
「よくもそんなことが言えますね」
わたしは信じられない気持ちで頭を振った。彼女が自分の役割をちゃんとわかっていないのは明白だった。わたしは核心に切り込んでいった。
「ミズキに、何を言われたんですか?」
「何のこと?」
「ミズキは白状しましたよ、シズカを悪者に仕立てる噂を流したのは自分だって」
「それとわたしと、何の関係があるの?」
「とぼけないでください。あなたたちはミズキにこう言われたんでしょう? ――シズカを親衛隊に引き入れるなら今ですよって。頼れる人がいない彼女を助けてあげてくださいって。それであなたたちは思ったんですよね? 傷ついて孤立しているところに同情的な慰めをかけてくれるグループが現れたら、シズカの気持ちもそちらに動くんじゃないかって。だからミズキの口車に乗ったんですよね? わたしとできるだけ引き離して、わたしへの嫉妬が原因で仲たがいしたんだって周りに思わせて、シズカが孤立するまで噂を振りまいて、その一方でシズカ本人には優しい顔して同情の言葉をかけた。ミズキはあなたたちを利用して噂を広め、あなたたちはミズキの思惑に乗ることでシズカを得ようとした。――違いますか?」
ミズキは噂を流したのは僕だと言った。わたしはその手段まで訊きはしなかった。気にかかってはいたけど、その時は瑣事だった。先ほどのシズカの話でやっと得心がいった。どうやってあんなに効率的に噂を広めることができたのか――決まっている。女を利用したのだ。
(やってくれるじゃない美少年……!)
宮井先輩は髪の毛を指に巻きつけながら白々しく否定した。
「陰謀論を真面目に信じるのは中学生までにしておきなさい、春風さん。あなたは誤解してるわ。青葉くんが深川さんを気にかけてあげてくれと言ってきたのは、それはその通りよ。でもそれはクラスメイトとして心配してただけだわ。青葉くん自身はあなたに義理があるし、深川さんには知り合いが少ない。だから深川さんと知り合いで、同性の上級生であるわたしに声をかけてきたんでしょう。青葉くんのこと、もっと信じてあげたらどうなの?
わたしだって上級生として下級生に親切にしたまでよ。ほかの親衛隊のみんなもそう。これを機に少しでも仲良くなれたらと思わなかったって言えば嘘になるけど、そのために陰で深川さんのことを悪しざまに言い広めてたって非難されるのは業腹だわ」
宮井先輩は非友好的な態度を隠そうともしていない渋面で、淡々と言った。
「あなたが言ったことに根拠はあるの? ないなら言いがかりよ。謝ってくれる?」
わたしはぐっとくちびるをかんだ。証拠? そんなものはない。
(やばい)
今や状況は逆転していた。わたしは正義の糾弾者から悪質なクレーマーに成り下がっていた。
根拠を出せないわたしに、宮井先輩は勝利を確信した笑みを浮かべた。雪の中、裸足で罪の赦しを請う皇帝ハインリヒ4世をカノッサ城から見下ろしながら教皇グレゴリウス7世が浮かべただろう笑みだった。
わたしは歯噛みし、問題を先送りすることにした。
「謝罪は保留にします。調べてきますから。シズカについて悪意ある噂をした隊員がひとりでもいることが確認できたら、そのときは隊長さんが代表して謝ってください」
わたしたちの視線はぶつかりあった。間に可燃物があったら瞬時に着火して大火災になりかねない激しさだった。
(そう! これなんだよ! 親衛隊とのにらみ合い! ヒロインたるもの、これを経験しなくっちゃ!)
久々の燃える展開に楽しくて口角がじわじわと上がってしまう。しかし宮井先輩は視線を外して矛を収め、とり澄ました感じを取り戻してしまった。
「……じゃあ、あなたの珍説は聞かなかったことにしましょう。わたしだって隊員全員の行動を保証なんかできないわ」
「ならわたしもこの説は胸にとどめておきます。そのかわり、いいですか? シズカにはもう関わらないでください」
宮井先輩はふっと笑った。
「友だち思いなのね」
「何のことですか?」
「それに案外照れ屋みたいね」
女特有の軽やかなくすくす笑いになんだか居心地が悪くなる。
「いいわ。けど、条件があるの」
「条件?」
なんと図々しい。
「そう。春風さんって執行部員でしょ? 赤葉くんのこと、支えてあげてほしいの」
「……どういうことですか?」
不信感でいっぱいのわたしの声。当然だろう。あそこまで執拗にシズカをオレ様王子様から引き離そうとしていた親衛隊が、どうして完璧美少女のわたしをオレ様王子様に接近させようというのだ? ここでうなずけば恋愛フラグとは別の――死亡フラグなんかが立ちそうなほど罠っぽかった。
宮井先輩は苦笑して理由を話しはじめた。
「わたしたち親衛隊員の中に執行部員はいないの。入部希望を出してもお断りされるのよ……。理由を尋ねたら、わたしたちは特定の個人に肩を入れすぎているから不適格、ですって。よく言うわよねえ? 今の執行部を見たら……まあ内部のことはあなたのほうがよく知っているでしょう。わかるわよね、わたしがこんなことをあなたに頼む理由が?」
「そうですね」
わたしは嘘をついた。
「このことでずっと赤葉くんは大変な苦労をしてきたわ。今じゃあ深川さんもいるけど、ほら、彼女は園芸部のほうがよっぽど大切みたいだし」
「シズカは臨時手伝い要員らしいですからね」
「ええ。仕方ないけど、それじゃ困るの。そこで、あなたよ」
「わたし?」
「社交的で、成績優秀で、そしてもちろん美人で、なにより名声がある。春風さんならすぐに頭角を現せる――いえ、すでに卓越しているわ」
説得は次の段階、褒め殺しに進んだようだった。とはいえ今述べられたことはわかりきったこと、単なる事実であり、それをわざわざ指摘されたからといってわたしの心が動くなんてことはなかった。しかしその中に気になる言葉を聞きつけた。
「名声……」
「そうよ。それが重要なの。社交的で成績優秀な可愛い子なら、あなたほどじゃなくても何人かいるわ。それだけでいくらかの名声を得ることもできる。でもね、その子たちが何かを訴えたとして、どれだけの人が真剣に耳を傾けるかしら? せいぜい親と数人の友だちくらいのものでしょう? わたしたちは勉強に部活に忙しい。家庭に腰を据えている人もいればインターネットの世界に居場所を見出している人もいる。いろんな人がいろんなことを訴えてるけど、こういう現代社会で誰がいちいちその全部に耳を貸せる? わたしたちはどう考えるか、の前にすでに何を考えるか、の情報の取捨選択をしているのよ。
Twit*erを見ててすらわかるじゃない? 発信するだけ無駄みたいな呟きがどんどん大量生産されては誰にも消費されずに消えていく。一方で有名人には何百万人とフォロワーがついていて、どんなささいな一言にも何かしら反応がある。名声を持っているかいないかの差よ。
赤葉くんには味方が少ないわ。わたしたち親衛隊は赤葉くんを陰で支える。だから春風さんには執行部という日向のところで赤葉くんを支持してほしいの。わたしたちが言うことには誰も関心を向けないけど、あなたが言えばまったく違った結果になる。誰にでもできることじゃないのよ」
わたしは目を見開いてこのささやかなスピーチを聞いていた。わたしが社交的で成績優秀で可愛い他の子と比べても圧倒的に素晴らしい存在あるのはなにも名声のみによるものではないけど、『名声』という数値が非常に大切なのはよく伝わった。
「わたしも同じことをずっと考えていました。人の注目を得、耳を傾けさせるもの。それは名声のほかにないって」
有名人になればみんながわたしのことを知っている。攻略対象キャラたちも例外なく。わたしとお近づきになりたいと思うだろう。
宮井先輩は然りとうなずいた。
「社会でも学園でも一緒。名声が地位も権力も引っぱってくるのよ」
そして愛も。
「わたしのあまりの魅力に赤葉先輩惚れますよ。そうなっても文句言わないでくださいね」
既定路線というやつで宮井先輩もわかってはいるだろうけど、別れ際に一応念押しをしておいた。
「わたしはそうはならないだろうと踏んだんだけど……男女の仲は予想できないものだしねえ」
宮井先輩はそう嘯いていた。わたしは再び不信の眼で彼女を見た。シズカに対する狭量さを思えば、わたしに対するこの寛容さは理解しがたい。
宮井先輩は察して肩をすくめた。
「……春風さんの欠点なんて、その気の強さくらいじゃない? それすらわたしは別に嫌いじゃないわ。あとは……どこに難癖をつけられる? 惨めなだけよ。もうね、あなただったら許さざるを得ないってレベル」
上にいる人間を引きずり降ろしたくて必死な人間が多い中、宮井先輩はよく己の分をわきまえた人間だった。優れた人間を見上げて崇める素直な人間だと言うこともできるだろう。こういう人でなければ同級生の親衛隊の隊長などできなかったと思う。少なくともわたしには務まりそうもない。
「春風さん、親衛隊に入らない?」
だからもちろんこの誘いにはこう答えた。
「嫌」