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7月 修復

――side: 深川シズカ


 昼下がりの風が木立の葉裏をゆっくり吹き抜けると、すっきりと手入れされた雑木林にざわめきが走る。見上げると、校舎や木々に切り取られた、暗さを感じさせるほど青い7月の空の切れ端が庭全体に覆いかぶさっていた。足元では虫が鳴き、校舎からはリラックスした生徒たちの話し声がぱらぱらと聞こえてくる。

 わたしはいつものように作業着に着替えることもなく、制服姿のまま、庭にじっと立っていた。落ち着こう落ち着こうとしているのに心臓は高く早く打ち、手のひらは暑さからではない汗でじっとり湿っていた。一分一秒が長く、早く時間が過ぎてしまえばいいと思うのに、永遠にその時が来ないでほしいとも思った。

(逃げちゃだめ)

 膝が震えはじめた。それは気持ちがぐらつき始めているという明らかな兆候だった。

(逃げちゃだめ)

 次は手だった。わたしは胸の前でぎゅっと握り、抑えようとした。わたしの気持ちはぐらぐらと揺れている。

(でも、来ないかもしれないし……わたしのことなんてもうどうでもいいのかも……。いや、だとしても待ってないと。わたしが呼び出したんだもの)

 自分に言い聞かせていなければここに留まっていることなんかとてもできそうになかった。葉をわたる風の音や花々の爛漫たる香気も、わたしの気を落ち着かせるのになんら役に立たなかった。自分の心ひとつでその場に立っていた。


 小径を一直線にこちらに向かって歩いてくる人影が目に入った。長いピンクの髪をなびかせ、白い上品な制服にしなやかな身を包んで、毅然とあごを上げた姿。この人の背中が曲がっているところなんて想像もできない。

「ミユウ」

 彼女は数メートル先で立ち止まり、息も切らさずわたしを見つめた。淡々とした表情が怖い。

「……久しぶり」

 わたしのぎこちない挨拶でミユウの顔が苦笑に似た形に動いた。

「毎日教室で会ってるけど。今日も」

「うん、そうだけど……」

 しかしこれがおよそ半月ぶりのわたしたちの会話だった。

 何か話さなければと思うのに舌がうまく動いてくれなかった。少し前まではあれほど苦もなく続けられた気ままな雑談すら今ではできなくなっていて、わたしは錆びついてしまったような会話機能になんとか油を差そうとしていた。

「何の用?」

「うん、その……えーと……」

 ミユウは焦れることなくわたしの言葉を待っていた。彼女はいつもそうだった。話すことが苦手なわたしに、それでよく人を苛立たせてしまうわたしに、ミユウはいつだって我慢強く耳を傾け続けてくれた。それは彼女の優しさというよりは公平さからだったけれど。

(今気づいてるようだから、わたしってだめなんだ)

 わたしたちはその関係の多くのところをミユウの努力に依存していたのだ。だからこんなにもあっけなく壊れた。ミユウがただそっぽを向いてしまっただけで。

「ごめんなさい」

「何の謝罪?」

「……わたし、この期に及んでも、ミユウのほうから話しかけてくれないかなって思ってたの。楽することばっかり考えてた」

 ミユウは、そう、と呟いて、さらさらの髪を耳にかけた。

「今日はどういう心境の変化があったの?」

「待ってるだけじゃ、たぶんだめなの。何も変わらないの」

 わたしは意を決して勢いよく数歩近付いた。ミユウはぎょっとしたようすで身を引いたけれど、わたしは逃げられないように必死で手を伸ばして彼女の白い手をつかまえた。ミユウは戸惑いの後に振りほどこうとしたけれど、わたしは絶対に離さなかった。

「え、何?」

「どこにも行かないで!」

「はあ?」

「わたしのこと嫌いにならないで!」

「あの、シズカ?」

「わたし、このままずっとミユウを遠くで見てるだけなんて嫌なの!」

「……どうしたの一体?」

「ひかれるくらいガツガツいっても案外大丈夫なんだって、ヒカリ先輩に教えてもらったの」

「わかった。シズカを放っておいたわたしが間違ってたみたい。とりあえずその考えは捨てようか」

 ミユウは聖母のように微笑むと、わたしの手を握り返した。そして、人生には色々な出会いがありそこから色々な影響を受けるのも好ましいけれど、慎みと恥じらいを持ち続けることは何にもまして心にとめておかなければならないことなのだ、と切々と説いた。

「――それがキャラを大切にするってことなんだよ」

「キャラ?」

「そう。シズカの」

「そうなの……」

 話の細部まではわからなかったけれど、またわたしはミユウを呆れさせてしまったみたいだった。おそらく、似合わないことをするなとたしなめられたのだろう。気合が空回りしてしまったようだ。赤面してうつむくと、なぜかミユウは満足そうにうなずいた。

「ごめんね。わたしってほんとにだめね」

「いいよ、それは。考え直してくれたなら」

「ごめんね」

「今度は何に?」

「……喧嘩したあの日……。わたし苛々してて、ミユウに怒鳴っちゃったね。あることないこと新聞に書かれちゃったし、ずっと話を聞いてくれてたミユウが詳しく知りたいと思うのだって当然なのに。わたし、ヒカリ先輩のことはちゃんとはっきり断ったから」

「いいよ、それも。わたしも無神経だった」

 穏やかに凪いでいたミユウの表情が揺れ、まるでその言葉に苦みがあるかのように、無神経でもいいと思ってた、と小さく吐き出された。それがどういう意味なのかと考えようとするわたしの思考に、真剣な鋭い響きが割って入った。

「それだけ?」

「え?」

「謝りたいことはそれだけ?」

 ミユウの顔には本気の色しか浮かんでいなかった。キャラメル色の目はわたしの表情や身振りをひとつも見逃してくれそうにない熱心さでじっとみつめている。

(謝りたいこと?)

 焦りでまた体から汗がふきだしてきた。ミユウの訪れを待っていたときとは違って、ミユウにわたしを許すつもりがあることはもうわかっていた。問題は、ミユウはわたしがまだ謝るべきことを残しているのではないかと考えており、わたしのほうはそれが何なのかさっぱり見当もつかないということだった。半ばパニックになって視線をあちこちさまよわせ考えたけれどわからない。ヒントをもらったり探りを入れたりする考えも、ミユウの据わった強い目つきの前に儚く消えていった。

「……ごめん、ほかに何か謝るべきことがあった?」

 降参して素直にそう尋ねるほかなかった。

 ミユウは嘆息し、表情を和らげた。そして、ないならいいの、と言った。

「何それ?」

 ミユウはちらりと困ったような笑みを見せただけで答えようとせず、話題を変えた。

「わたしもシズカに謝らなきゃいけないことあるね」

 雑木林のほうから風がさっと降りてくると、その風に吹かれるようにミユウの足が地面から離れ、庭をぶらつきだした。花壇に咲いているアウグスタ・ルイーゼの波打つ花弁にそっと触れたり、純白のイヴォンヌ・ラビエに鼻を寄せたり、気ままに花から花へと移る優雅さはまるで蝶のようだった。でも、よく見るとどこかそわそわして、体の重心を左右の足に移しかえている。

「……前にシズカからもらった薔薇、捨てちゃったんだ。ごめんね。腹が立ってて、勢いで……」

 こんな照れと不安の混じり合ったような声をミユウから聞くとは思わなかった。

「いいの。そんなの」

「またもらえる?」

 わたしは何度も首を縦に振り、ちょっと待ってて、と言い残すと、庭の片隅に設けられているプレハブの道具入れに飛んで行き、バケツや剪定ばさみを引っ掴んで戻ってきた。

 切り花用の品種は花もちと水あげが良いけれど、庭植え用の品種は必ずしもそうではない。どの薔薇がいいだろうと考えて、クイーン・エリザベスを選んだ。


 クイーン・エリザベスはこの庭にもともと植わっていた薔薇だった。改良品種の中で一番強い薔薇は?と訊かれたら、わたしは間違いなくこの薔薇を挙げる。耐暑性、耐寒性にも優れ、そのさすがの強健ぶりはここで長い間放置されていたにもかかわらず立派に花をつけている姿に表れている。樹形は直立性で樹勢が強く、他の品種がひょろひょろと枯れかけている中、このクイーン・エリザベスだけが2メートルを越える高さに育っていたのにはびっくりさせられた。1978年に『バラの栄誉の殿堂』入りしている、クイーン・エリザベスの名にまったく恥じない薔薇だった。

(この子かな、やっぱり)

 わたしは意図して象徴的な薔薇を選んだ。この庭が美しく復活したように、誰にも顧みられない時代にもじっと花をつけ続けたように、わたしたちも、と。その意図がミユウに知られなくてもかまわなかった。


 わたしはとりわけきれいな花の枝を切り取って水を張ったバケツの中に放りこみ、切り口を水の中でもう一度切り取った。そして切り花としてきれいに整えると、新聞紙にくるみ、ミユウに渡した。

 ミユウは花束を腕に抱え、指先で澄んだピンクの花びらをつつきながら思い出したように言った。

「次の朝さ、少し冷静になって、ぶちまけた薔薇を片づけたの。片づけてるうちにまた腹が立ってきたり涙が出てきたり……はは、超情緒不安定。――あ、やっぱり、この薔薇もなんだね」

「何が?」

「刺、全部きれいに落としてある」

「危ないから」

「うん。わたし、その朝に気づいたんだよ。今まで、黙って、こういうことしてくれてたんだって。怒って薔薇に八つ当たりしてたときだって、わたし怪我ひとつしなかった」

 長いまつげがふと伏せられて、キャラメル色の目にけぶるような影がかかった。

「シズカって、あんまり気持ちや考えてることを言葉にしてくれないね」

「得意じゃなくて……」

「そうだね。わかってたと思ってたんだけどな。……わたし、シズカにずっと馬鹿にされてきたんじゃないかって疑ってた」

 思いがけない言葉に、わたしは面食らって目を瞬かせた。

(わたしがミユウを馬鹿に!?)

 考えてみたこともなかった。わたしに限らず、ミユウを馬鹿にできる人がいるなんて想像もできない。そんな人がいたとしたら、その人は自分や他人が見えてなさすぎるだろう。そんな風にミユウに誤解されるようなわたしの態度って一体……、と愕然とした気持ちで尋ねた。

「どうして? どういうこと? なんでそんな風に思ったの?」

「シズカ。この乙女ゲーム――『エデン』のプレイヤーだよね?」

 思い切った問いかけだった。まっすぐ見つめられて、わたしは息を飲んだ。わたしたちが別れた日に、誤解を解きミユウを引き留めようとわたしが口の端にかけ、にもかかわらず反発の勢いによってそれ以来お互いに踏み込むことのなかった問題。いつかこのことについて話さなければならないだろうとは思っていた。

「わたしもそうだってわかってた。違う?」

「それは……」

「なんで言ってくれなかったの?」

 わたしは困ってしまって黙りこんだ。

 なぜ言わなかったのか? それは、今まで一度だって誰にも言ったことがなかったからだ。加えて、特に言う必要があるとも思わなかったから。ゲームの世界と知らなくても何も問題はないし、物語は脇役のわたしを置いて勝手に進むだろう。

(わからない)

 わたしが困ったのは、どうしてミユウが、わたしがゲームのことについて言及しなかったせいで馬鹿にされたのではと思ったのか、いまいちよくわからなかったからだった。

「だって確信だってなかったし……もし違ったら、頭おかしいと思われるもの。それにわたし、プレイヤーっていうよりもただの脇役よ。ミユウの邪魔をしないように脇役に徹していればいいと思ったの」

「脇役……?」

「だって、そうじゃない。ミユウってすごく美人だし、頭もいいし、誰がどう見たってヒロインだもの」

「それが根拠?」

「それに名前だって」

「名前?」

「うん。『春風ミユウ』は『エデン』のヒロインの初期ネームだったと思う」

「ああ、そう。そういうこと」

「どうしてわたしに馬鹿にされたなんて思ったの?」

 今度はミユウが黙りこむ番だった。わたしはじっと待った。ミユウはひょっとしたらわたしが慎重になって話を変えるのを期待していたのかもしれない。けれど、わたしは断固たる決意でミユウの答えを待っていた。

 やがて観念したのか、悪くとらないでほしいんだけど、と前置きをして、ミユウはようやく重たい口を開いた。

「……なんでシズカ、庭いじりなんてやってるの? ゲームの世界に来てまで? なんで本気でゲームをプレイしようとは思わないの? これじゃわたしが馬鹿みたいじゃない」

「え、だめだった?」

「だめじゃないけど……。わかんない? キャラを攻略しようとしてやってるあらゆる努力をを隣で素知らぬ顔してシズカが見てたって知ったときのわたしの気持ち、ちょっと考えてみてよ。パソコンのハードディスクにためこんだエロ画像が親にばれてたって知ったときの男子高生の気持ちに匹敵するよ。大体わたし、乙女ゲームをプレイするような人間だとすら誰にも知られたくなかった」

 吐き捨てるような言い方だった。

「そんなの、わたしも同じ立場よ。わたしだって『エデン』を買ったし、スタートボタンを押したんだもの」

「シズカは違うよ。気にかけてるのはこの庭の薔薇であって、ステータスやらプロパティやらフラグやらじゃないもの。ねえ、そんなシズカの目にわたしはどう見えてた? 欲求不満と歪んだ欲望で男漁りばかりしてる色情狂? 抑圧された衝動? 不健全な生活? 饐えた処女性? 虚構と現実の区別もつかないゲーム脳の犯罪者予備軍? わたし、シズカにそんな風に見られてると思うだけで耐えられない」

 いつかぱっと燃え上がって制御しきれなくなる火種がくすぶっているのを、ミユウの中に見た気がした。わたしはその激しさに当惑し、身をすくませた。その火種は一体何の怒りなのだろう? あるいはこれは怒りではない別の何かなのではないか? ミユウが自分を貶めるのを初めて聞いて、胸が苦しくて仕方がなかった。どうしてミユウはこんなに自信をなくしているのだろう? どうしてミユウはこんなに傷ついているのだろう?

 わたしはくちびるを噛みしめた。

「理想が高くて責任感もあって、誰よりも努力を惜しまない頑張り屋さん。ちょっと気任せなところもあるけど公平だし、前向きで明るいから近くにいるだけで勇気をもらえるの。わたしも頑張らないとっていう気にさせられる。そうやってどんどんわたしを引っぱっていってくれるの。――わたしにはずっとそう見えてる」

 それがわたしの知っている春風ミユウだ。

「ねえ、わたしにだって見栄はあるの。なのにミユウのそばにいたらときどき劣等感の塊みたいになる。わたしがミユウみたいだったらよかったのにって、実を言えば何回も思ったことある。わたしはそんなに綺麗じゃないし、スタイルも良くないし、頭も良くないし、引っ込み思案で友だちも多くないし、苦しいことを頑張り続けられるほどの意思の強さもない。だからミユウと離れて少しほっとしたのも本当。女の嫉妬心なめないで。わたしだってそういう汚いところをたくさん隠してきたの。見せないようにしてただけ。ミユウはこんなわたしを軽蔑する?」

「……ううん」

「何が違うの、わたしとミユウと? 誰だって弱いところや醜いところを持ってるよ。うんざりすることもしょっちゅうだけど、みんなそれとどうにか付き合ってる。それだけの話なの。

 わたし、たしかにミユウのことを完璧な女の子と思ってたかもしれない。だけどそうじゃなかったとしても軽蔑したりはしない。一緒にいたいと思うのは、ミユウのこと好きだって思うのは、ミユウが完璧な女の子だからじゃない。どうして、なんて、とても言えない」

 拙い言葉がもどかしい。わたしにはあなたが必要なのだ、と、それだけのことをわかってもらうのがどうしてこんなに難しいのか。けれどミユウはちゃんと受け取ってくれた。いつもそうしてくれたように。

 気恥かしそうに手の中の薔薇に視線を落とし、しばらく心の中の言葉を探しているような静けさがあった。それからミユウは噛みしめるように言った。

「……わたしも、シズカとユウコと一緒にいたい」

 ミユウはわたしに微笑みかけていた。わたしも微笑みながらミユウを見ていた。眉こそ内心の戸惑いを表して下がっていたものの、ミユウのまなじりはいつもよりも柔らかく優しかった。今思うと、寛容と柔軟が切に求められていたときに、わたしたちふたりのなんと偏狭で頑固だったことか。

 わたしから言わなければ、と何度も何度も練習していた言葉は、意外に思うほどとても自然に、簡単に出てきた。

「わたしと仲直りしてくれる?」

「うん。……ちょっと、え、なんで泣くの?」

「よかった」


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