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7月 市立美術館

――side: 橙花チトセ


 みずみずしい緑色の芝生の上にシャツやスカートの白が映え、様々な色の髪が鮮やかにその集まりを装飾している。オレたちは持参の昼食を囲みながら、テストの合間のつかの間の昼休みを楽しんでいた。腕を緩やかに曲げて飲み物を口に運び、柔らかく首を動かして次なる会話に注意を振り向ける仕草は優雅そのもの。園生学園と生徒たちにはたしかに独特の雰囲気がある。早々に食べ終わって手元のノートを凝視しているやつですら休んでいるように見えた。

「今年の夏はどうする? どっか行く?」

「余裕じゃんお前。まだ期末も終わってないっていうのに。オレはパスな。無勉で入試とか無理。夏休みは予備校通いだわ」

「うちらエスカレーターだもんねー。外部受験組はお疲れ様です」

「むかつく」

「リョウってどこ志望?」

「横国」

「横国なら園生でもよくない?」

「もういい加減、園生から脱出してえんだよな」

「えー。まあわからなくもないけど」

「都会憧れるよね。ここも田舎じゃないけどさ。外部かあ。わたしの頭、地方駅弁レベルだから受ける意味ないんだよね」

「エリはもっと勉強すべき。このあいだの模試とか悲惨だったじゃん」

「悲惨だったの数学だけだから! 国語よかったもん」

「現代文はいつも学年上位だもんねえ。古文と漢文は微妙だけど」

「フィーリングで、なんとなくの感じで訳すからだろ。センスはあるんだろうけどさあ」

「チトセは?」

 打ち解けた仲間同士の雰囲気に身を浸しながら聞くとはなしに話を耳に入れ、特別に作ってもらった吉兆の重箱入りの弁当をつついていたオレは、問われてわずかに身構えた。

「――ん?」

「チトセはどうすんの?」

「ああ……オレも外部受験するつもり」

 得意な話題ではなかった。

「だよなー。学年2位でエスカレーターに乗る意味がわからんしな。東大?」

「かな? うん、たぶんそうなると思う」

「やっぱりかあ。チトセと離れ離れとか、寂しーよ」

「たぶんってなんだよ。曖昧すぎ」

「海外の大学に行くのもいいんじゃないかってけっこう親戚からも勧められてて、具体的なアドバイスももらってるんだよ。自分でもまだ決めかねてる」

 実のところ、どうすればいいのか、どうしたいのか自分でもわからず、今になっても何もはっきりしたことは言えなかった。

 3年の夏ともなるとみんな大体の目標や見当を持つようになっていた。人生の岐路に立たされていると感じるのはこれが初めてで、今まで漫然とエスカレーターに乗ってきただけだったと気づかされた。オレは何の決定もくだせずにいた。他人の進路についての話を聞くたびに、じわりじわりと嫌な焦りが足元から心臓に這い上ってくる。不安に突き動かされるようにがむしゃらに勉強しては、すぐにモチベーションを落として何もできなくなるという良くない循環にはまっていた。

(オレには目標も目的もない。空っぽだ)

 この思いは最近では拭いがたく染みついてしまっていた。特に赤葉キョウスケのまっすぐで迷いなどなさそうな姿を見るたびに意識せざるを得なかった。オレはこの思いが何なのか気づいていた――劣等感だ。

「できるやつは選択肢が多くて大変だね。まあオレはここ園生に小ぢんまりととどまって、世界に羽ばたくお前の活躍を応援してるよ」

「ありがとう。お前には特別にオレのことを橙花様と呼ばせてやるよ」

 軽く笑いが起きて、話題は流れていった。オレはほっと息をついて、漆塗りの箸で信田巻きを口に運んだ。ちょうどそのとき、ひとりの女子生徒が周囲の注目を集めながら芝生を横切って近づいてきた。

「橙花先輩、ちょっといいですか?」

 鈴を転がすような声、バレリーナのリボンのようなピンクの髪、華やかな顔立ち。彼女は学園一の美女――春風ミユウだった。

「うん? 何? 話?」

「はい。1分もあればすむ話なんですけど」

「いいよ。じゃあここで聞いてもいいか?」

 春風ミユウは頓着なくうなずいて、魅力的な微笑みを浮かべた。意味ありげな、からかうような笑みだ。

「市立美術館の特別展に一緒に行きませんか?」

「――えっと、デートのお誘い?」

「やだ、何言ってるんですか! ただのお出かけです」

「デートじゃないのか。ミユウちゃん、オレのこと好きだったりしない?」

「逆です」

「何?」

「橙花先輩がわたしの魅力に気づくためのお出かけですよ。さあ、はいと言ってください。そろそろ1分が経ちますよ」

 オレは春風ミユウに弄ばれているような気になった。しかしそれも悪くない。利発で訳知りな目がオレを見つめている。オレは迷わなかった。

「いいよ。はい。行こう」

「日曜日は空いていますか?」

「空けるよ」

「半日だけでいいです。午後2時に園生中央駅の西口改札前で待ち合わせということで」

「ねえ、デートじゃないならわたしもついてってもいいよね?」

 エリが冷やかすような笑みを浮かべ、少し意地悪に口を出した。春風ミユウは顔色を変えることなく一言であしらった。

「じゃあ今度、わたしも先輩の家族旅行について行かせてください」

 エリはぐっと詰まった。オレがくっくっと喉の奥で笑うと、エリはふてくされて脇腹を小突いてきた。

(いい女だよなあミユウちゃん)

 エリより役者が一枚上だと認めざるを得ない。黒羽の彼女にしておくのはもったいないくらいだ。

(いかれてるけどな)

 期末考査期間中の気晴らしくらいにはなりそうだった。

「楽しみにしてるよ」


 その日は、空は快晴で気温もぐんぐん上昇していた。週末だけ東京から来て滞在する両親と、ときどき彼らについてくる姉と一緒に、母親手作りの昼食をそろってダイニングで食べた。これは昔からの習慣で、家族はこの限られた一家団欒の時間をとても大事に思っていたし、それはオレも同様だった。喧嘩して険悪な空気が漂っているときでさえもこの習慣は習慣であり続けた。

「あれ、あんたこれからどっか出かけるの?」

 姉のサオリが眉をあげてオレの格好をじろじろと眺めた。

「休みなのにきまってない? 髪もセットしてあるし」

「ほんとね」

 母も同意してうなずいた。

 オレはきわめて愛想よく言った。

「ちょっとね。出かけてくる。夕食までには帰れると思うけど」

「なによ。今日は一緒に高島屋にショッピングに行きたかったのに」

「外商部の人に夜に来てもらえば?」

「そんなのはただの買い物よ。ショッピングじゃないわ」

「同じじゃないんだ?」

「違うわよ。あのドキドキワクワクする空間をいろんな素敵なものを見ながら歩きたいの。それがショッピングよ」

 オレは母親とのショッピングと春風ミユウとの美術鑑賞を心の中ですばやく天秤にかけた。どちらがましかの答えはなんなく出た。

「ごめんな、母さん」

 もちろん春風ミユウだ。可愛い女の子に慣れたオレでも彼女にはつい目が行ってしまう。あの人、視線を外せないでいるみたい、わたしがあんまり美少女だから、と顔に書いてあるタイプではあるが、それを鼻にかけてはいない。彼女にとって自分が美しいことは生まれつきであり当たり前のことなのだ。おまけに機知にも富んでいる。その春風ミユウからの誘いなのだ。健全な男子高校生であるならばどちらと休日を過ごしたいかなど考えるまでもなかった。


 オレは時間ぴったりに待ち合わせ場所の西口改札前に行き、春風ミユウが現れるのを待った。どちらかというとオレも時間はきっちりとは守らない方だから待たされても腹は立たない。しばらくすると春風ミユウが悠然と改札を抜けて姿を見せた。スキニーのジーンズにラフなグレーのブラウス、耳元には金属の幾何学的な図形が揺れている。たぶんイヤリングだろう――ピアスは校則で禁止されているから。

「似合ってるよ。お洒落なんだな。私服がクール系だとは思わなかった」

 もっとスウィートで女の子らしい格好を好むものだと勝手にイメージしていた。

「いろいろ持ってるんです。先輩はこういう感じが好きだと思って」

 春風ミユウはまた例のからかうような笑みを見せた。

 そこからオレたちはバスに乗って市立美術館前で降りた。館内に入り、窓口で春風ミユウが招待券を見せると、半券とパンフレットを受けとって展示スペースへ進んだ。

「え、何これ……」

 中に入った途端、春風ミユウの足が止まった。オレは笑いを噛み殺しながら言った。

「アジアの現代美術」

 カーペットが敷かれた床には犬ほどのサイズの幼虫たちが這っていた。『自然の復活』のムーブメントが感じられるいかにも東アジアの現代美術らしい作品だと思うが、彼女はまた別の感想を抱いたようだった。

「次、早く次」

 そうやって進んでいくと、糸でできた『彫刻』や伝統的な水墨画を用いたビデオアートなどがあった。それらの中でも特に傑作だったのがこれだ。

「これは何? 大量生産大量消費大量廃棄の産業社会への批判?」

 春風ミユウはあるビデオアートの前で足を止めて投げやりな感想を呟いた。

「モチーフがちょっと古くない?」

 オレもその作品を見て、こらえ切れず吹き出した。

 グレーの背景にいくつもの商品が映し出されている映像だった。商品はそこらのスーパーや家電量販店にでも売っているし、各家庭に常備されてもいるような洗剤や食品や電化製品などで、どれもありきたりなものばかり。一見するとその意図は従来通りの、春風ミユウが指摘したようなものであるように見える。

「惜しいな。これはちょっとひねってある。もっとおもしろい作品だよ」

「えー? どう見ればいいんですか?」

「ラベルだ。ラベルに注目して順に見るんだよ、これは」

 そうすれば制作者の本当の批判の対象が見えてくる。

「えーと、we、ARE、All……」

 春風ミユウは続きを口にせず、何とも言えない目でオレをうかがうように見た。残りのラベルはマークばかり。それはオレたち『六葉一花』の企業マークや最も知られているブランドマークだった。

「痛烈だよな」

「それだけ巨大で世界的な影響力があるってことでしょう」

 春風ミユウは事実のみを口にしてそれ以上のコメントは避けた。

 なんとなく微妙な空気になりながら、オレたちは残りの展示を見て回った。

「あ、花だ」

 澄んだ声の呟きは驚きにはずんでいた。春風ミユウは階段の踊り場で立ち止まって何かを見上げている。オレは降りはじめていた階段を引き返して横に並び、彼女が気を取られているものを視線の先から探した。

「――ああ、花だな」

「なんであんなところに?」

 光を取り入れている窓辺に、精巧な木彫りの花が咲いていた。オレはパンフレットを開き、そこに須田悦弘の名を見つけた。

(まじか……。やるな、市立美術館。巡回展でもないのに)

 彼はオレのお気に入りの芸術家だった。見つけ出さなければ日常の知覚に埋もれてしまうもの、人工と自然、永遠と儚さ。彼の作品は『発見』を求めている。

(シズカちゃんならこの花をどう見るだろう?)

 ふと、控え目で柔らかな微笑みが頭によみがえった。

(自然とはそういうものだって言うんだろうな)

 そこに美しさがあるのだと。彼女は目を輝かせてそういったことをよく話した。オレは彼女の感性が好きだったし、頬を上気させて夢中で薔薇について語る横顔が好きだった。


 満足のうちに展示を見終わり、オレたちはロビーを横切って美術館に併設されているカフェに入った。ソファに座ってそれぞれホットコーヒーを注文すると、テーブルの下でぐっと足を伸ばし、やっと一息つけた。

「それにしても、オレとふたりきりで遊びになんか来てよかったのか?」

「どうしてですか?」

 気にかかっていたことを尋ねると、春風ミユウは無邪気そうに首をかしげた。

「ミユウちゃんって彼氏いなかったっけ?」

「いませんよ!」

「黒羽は?」

「黒羽先輩とは親しくさせていただいていますけど……」

「青葉は?」

「友だちです」

 どの名前も心外そうに否定された。

「ふうん?」

「橙花先輩こそ、わたしと来てよかったんですか? 付き合ってる人いるんでしょ?」

「ミユウちゃんもそこはわかってて誘ったわけだ」

 キャラメル色の目がわざとらしくびっくりした風に見開かれた。オレの口は意地悪く弧を描いた。

「なあ、なんでオレを誘った? オレを好きだから? 違うよな。ミユウちゃんが違うって言ったんだもんな」

「それは――」

「シズカちゃんへの当てつけのためだろ?」

 春風ミユウの甘やかな目はすっと細くなった。オレは穏やかに続けた。

「ミユウちゃん、シズカちゃんと仲が悪くなってるよな。何かあったのか? ミユウちゃんが切り捨てた? それとも本性がばれて嫌われた?

 学園じゃ、いろんな噂や作り話が蔓延してるよな。十代向けドラマか携帯小説かってくらいにさ。ミユウちゃんたち、目立つグループだったからな。いろいろ言われてるけど、どの話にも共通してるのは嫉妬だよ。シズカちゃんはミユウちゃんが持っている何かがほしかった、でも手に入れられなくてミユウちゃんに腹を立てた――全部この考えがベースになってる。

 シズカちゃんはミユウちゃんの何をうらやましがった? きれいな顔? でもシズカちゃんもそこそこ可愛いだろ。裕福さ? 深川家には十分な家格と財産がある。未来? 学年1位と5位にはそこまでの差はないよな。

 逆に差が少ししかないからこそ劣等感が刺激されることはあるかもな。でもシズカちゃんは没頭できる趣味を持っていて、身の回り以外のことには無関心に見えた。意外な気もするけど、他人からの評価をあんまり気にする子でもない。だからこそミユウちゃんと早々に友情を築けたんじゃないか?」

 オレは反応を待ったが、春風ミユウは用心深く何口かコーヒーを飲んで時間を稼いだ。ようやく言葉を発したのは冷笑を顔に張り付けた後だった。

「……シズカのことなら全部わかってるみたいな口ぶりじゃないですか」

「そうは言わないけど、これでも人を見る目はそれなりにあるつもりだよ」

 整った顔に似合わない苛立ちの陰がちらつき始めていた。

「他人からの承認がほしくてしかたないのは、君のほうだろ、ミユウちゃん。だからずっと黙ってたんだろ。ユウコちゃんみたいにでたらめな噂が立つこと自体に異議を申し立てなかったどころか、シズカちゃんに好意的じゃなく傷つけるようなものであったとしても一語たりとも否定しなかったのは、そのほうが君にとって都合がよかったからだ。違うか?」

 すべて憶測にすぎなかったがかまわなかった。自分の陋劣さを認めるなんてことが期待できない相手なのも承知していた。

 彼女は友人知人が多く、馬鹿ではない。自分たちがどう噂になっているかくらい気づいていただろう。気づいていて何もしなかったのだ。そのことを責めるつもりはない。喧嘩中の間柄なら、悪口を言いふらしたりしないだけで立派だと言えるだろう。

「なあ、どうやってやったんだ? どうやって、親友に嫉妬心を向けて友情を壊したのはシズカちゃんの方だってみんなに信じさせたんだ? それとも口をつぐんで一言も噂を否定しないだけで十分だったのか?

 思えば、そういうことは上手だったもんな、ミユウちゃんは。青いマセ○ッティ事件でも本当に上手くやったよな。あっという間に君は悲劇のヒロインにして正義の女性になった。あの手腕と自作自演っぷりは褒めないといけないだろうな。爽快だった。すごいよ」

 完璧で美しいだけの人間なんかいやしない。

「で? 今日、オレを誘ったのは? オレがシズカちゃんと仲がいいからなんじゃないか? 仲がいい人間を取り上げて孤立させようと思った? 女がよくやる仲違いのパターンだよな」

 春風ミユウは全身で深く息をついて言った。

「……違います」

 オレは無視した。

「もうこういうことにオレを利用しないでくれよ。シズカちゃんにはまだ嫌われたくないし、利用されるのって好きじゃないんだ。今度はデートの誘いにしてほしいかな。そうしたら――」

 そのとき勢いよく顔に冷たい液体がかかり、オレの弁舌は強制終了させられた。うつむくとぽたぽた液体が滴った。

(水か)

 目を瞬かせながら顔を上げると、弾丸のような言葉の追撃に遭った。

「ペラペラペラペラ勝手なことばっかり言わないで! うんっざりだよ。あー苛々する! もっとましな話題を用意してきてよ!」

 きれいな顔は怒りで紅潮し、グラスを持つ白い手は震えていた。そして彼女はグラスを乱暴にテーブルに戻し、馬っ鹿じゃないの、と捨て台詞を残して席を立った。しかし店を猛然と出ていきかけた春風ミユウの足はなぜか鈍り、眉を強く寄せたままこちらを振り返った。

「……先輩。今、わたしへの好感度はどうですか?」

(何を言うのかと思ったら!)

 オレは笑い出しそうになるのを抑え、水にぬれた髪をかき上げて優しい気持ちで微笑んだ。

「魅力に気付いたところ」

 そう、完璧で美しいだけの人間なんかいやしないのだ。春風ミユウだって例外ではない。こんなことで嫌いになるはずがあるだろうか? むしろようやく好きになれそうだと感じているのに。

 『ただ、そこに、美しくあってくれたら』

(わからないかなあ? だから傷つけられるんだ、親友にも、そしてそのうち……)

 オレはコーヒーカップに口をつけ、ゆっくり傾けた。


作者は須田悦弘さんを超リスペクトしています。

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