7月 交際
――side: 深川シズカ
わたしは期末考査期間中の放課後にもかかわらず、いつものように旧校舎裏の庭に来ていた。時間が余っているわけではなかったのに、足は自然とこちらへ向いた。昇降口に流れる人の波を横切るとそれだけで息切れがしたけれど、庭を歩いているうちに落ち着き、その場の静けさを身に取りこむだけの余裕ができた。
薔薇たちは常のように美しく、手入れの生き届いた庭は心地よかった。なのに心は動かず、ローファーと足元の石が敷き詰められた小径がぶつかるコツンコツンという音が胸に虚しく響いてくるだけだった。
(何やってるの、わたし……)
ため息が尽きなかった。着信があるかもしれないと気になってかばんにしまえないでいた携帯電話をチェックするけれど何もなくて、またため息がこぼれ落ちた。
(今日も何も話せなかった)
顔を合わせると、今までなら明るく微笑んでくれていたミユウが強張った顔でわたしを見るのがつらかった。ユウコとも、目が合えば軽く手を振ってくれるけれど、それだけだった。
わたしたちの仲違いはすぐに周囲の知れるところとなった。入学して以来、間に誰も入れることがなかった3人組が分裂しているのだから一目瞭然だった。わたしとミユウの関係が悪化したせいだということも、誰もがわかっているようだった。ユウコは昔からの友だちにいろいろ訊かれているみたいだったけれど、成長における一つの段階を迎えているにすぎない、というのが彼女の意見だった。ミユウはどんな問いかけにも何も答えるつもりがないように見えた。
「春風さんって、ちょっと感じ悪いところがあるよね」
同級生からそんな意地の悪いことをこっそり言われるようになった。彼女たちはそれがわたしの慰めになると本気で信じているようだった。
他の女の子のグループから一緒に昼食を食べないかと誘われるようになったし、赤葉先輩の親衛隊の人たちからすら同情気味に何度か慰められもした。でもわたしが仲良くしたいのはミユウとユウコ以外の女の子ではなかったから、その度に断っていた。寂しかったけれど心細いわけではなかった。3人は今や1人と1人と1人ではあったけれど、間に誰も入って来られないのは相変わらずだったから。ミユウもユウコも別の子と仲良くしようとはしなかった。だからお互いの気持ちを信じていられた。ただ、3人を元通りひとつに戻す方法がわからなかった。
こうして無為に過ごしていても仕方ないとテラスで試験勉強を始めたけれど、身が入らなくてすぐに手が止まった。
風が強まり、雲は急速に流れ、隙間から漏れる日差しが学園を滑るように照らしていくのが見えた。最初は講堂、次に体育館と武道場、さらに本館から教室棟群を移ろった末、旧校舎とこの庭にも迫った。裏手の雑木林の中にとまっていた鳥たちが光の中をいっせいに飛び立ち、瞬く間に見えなくなった。その光景にしばらく目を奪われ、上げていた顔を戻すと、小径をこちらに向かって歩いてくる藍葉ヒカリ先輩の姿に気がついた。わたしは身構え、ここで逃げたりしたらやはり失礼だろうかと考えた。
ヒカリ先輩は数メートル先で立ち止まり、わたしににっこり笑いかけた。
「違う違う。たぶんフカリンが思ってる方じゃないよー。オレ、アカリだから」
わたしは目を瞬かせた。
「どーも、兄がご迷惑をおかけしてます」
「い、いえ」
(若干礼儀正しい……?)
彼の言葉通り、目の前の人物はどうやらヒカリ先輩ではなく双子の弟のアカリ先輩だと確信した。ヒカリ先輩とは明らかに距離の取り方が異なり、温度差があった。
アカリ先輩は、座ってもいい?と形ばかり尋ねて、答えを待たずわたしの向かいの椅子に腰をかけた。ヒカリ先輩なら尋ねもしないところだ。
「部室からフカリンが見えたんだー。あ、明日の試験、漢文?」
「はあ。……あの、何かご用事でも?」
アカリ先輩とまともに言葉を交わすのは、わたしの執行部入部の際以来のことだった。
「あーうん、ヒカリのことなんだけどさー」
わたしはうつむいた。
「ごめんねー。けど、本人は悪気ないから許してやってよ」
「そうですね……」
「まあ、気遣いもないんだけどね!」
屈託のない笑顔で冗談を口にするアカリ先輩は、憎めない魅力を満載していた。こちらは冗談ではない状況にあるというのにふざけないで、と思わないこともなかったけれど、アカリ先輩が悪いわけではないし、くすぐったいばかりの楽しげな雰囲気に当てられて思わず微笑んでいた。
「そうそう、笑顔は大事だよー」
「アカリ先輩はいつも笑顔ですね」
「まあね! アップルジュースさえあったらオレけっこう幸せだしー。あ、ちょっと待ってて」
そう言うと、かばんをごそごそかき回し、中から紙パック入りのアップルジュースをふたつ取り出してひとつをわたしにくれた。
「代金は――」
「いいって。布教用だし。ちょっと温くなってるけど、ここのメーカーのおいしくない?」
アカリ先輩はストローをパックに突き刺し、一口飲んで、まじでうまい、と感動したように呟いた。わたしも一口飲んで、おいしいです、と言うと、嬉しそうにうなずかれた。
「あんまり難しく考えなくてもいいんじゃない? 付き合ったら? なんでだめなの?」
「恋愛感情を持っていません」
「それって必要?」
「少なくともどちらかには。そうじゃなければ付き合う意味なんか……と思いますけど」
アカリ先輩はストローを口から離し、わたしをしげしげと見つめた。
「たしかにねー」
突風が吹き、テーブルの上の教科書が激しくめくれた。
「間違ってないよ。うん、その通り。ヒカリって、本気で誰かを好きになってるわけじゃないんだとオレも思う。付き合うってどういうことかもまだよくわかってないだろうしー。そんなやつと恋人ごっこするなんてたしかに人生の無駄遣いだよねー」
そこまでは言っていない。
「アドバイス要る?」
「何ですか?」
わたしは身を乗り出した。
「付き合うの、OKするといいよー」
「え」
この『え』は発したわたしさえ戸惑うほど心底嫌そうな響きの『え』だった。アカリ先輩は幸いにも気を悪くされた様子もなく、吹き出してけらけら笑った。
「ヒカリ、気紛れだからさー。一番仲のいい友だちもころころ変わっちゃうくらいでさ。自分がいつも中心にいたいタイプなんだー。わかる? 相手にされてないと思えばこそ余計関心を向かせたがるんだよー」
「付き合って親しくなったら飽きられるんですか?」
「うん。まあ。気に入らないだろうけど」
アカリ先輩はあっけらかんとうなずいた。
「……他に方法は?」
飽きてもらうために交際を始めるなんて、慎みがないにもほどがあった。それにミユウのことを思えばそもそも付き合うという選択肢などありえなかった。
アカリ先輩はしばらく考えてから尋ねた。
「好きな人はいる?」
(好きな人?)
探りを入れている風もなく、アカリ先輩はただあっさりと言った。
「もしいて、脈がありそうなら、告白してみるのもいいんじゃないかなー。恋人ができたらさすがにヒカリも引くと思うよ、面倒くさいの嫌いだから」
そして頃合いと見たのか立ち上がった。
空は鉛色に変わり、風は勢いを失い、日差しは長く伸びつつ薄らいでいた。そろそろ下校しなければいけない時間が近づいていた。
「好きなようにしたらいいよー。うまくいくといいね」
「……ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。なんかチトセ先輩が気にしてたみたいだったから――……」
言葉は不自然に途切れ、眉がわずかに寄せられた。アカリ先輩の視線はわたしを通り越し、宙に投げられていた。何か引っかかることがあるようだった。しばらくしてアカリ先輩は不意に尋ねた。
「チトセ先輩のこと好き?」
「はい?」
「チトセ先輩と付き合うのはどう?」
「わたしなんか」
わたしはびっくりして、畏れ多くて、あわてて否定した。
「そう?」
アカリ先輩はまたにこっと屈託のない笑顔を見せた。
――side: 春風ミユウ
昼休みになり、ユウコとシズカは食堂へ行くために席を立った。同じところへ行くというのに別々に行動するのは律義としか言いようがない。わたしへの義理を通そうとする彼女たちを見てほっとするのに、どうして仲良くできないのか、その気になれないのか、何度も繰り返した問いをまた繰り返した。
(シズカだよ。なんであれから何も言ってこないの?)
苛々しながら机の上にお弁当を広げた。朝っぱらからお弁当をつくる気力なんてちっともわいてこなかったけど、習慣と手を抜けない自分の性格が今日も朝6時ぴったりにわたしを起こしてキッチンに向かわせた。
「ミユウ、今日はひとり? こっちに来て一緒に食べる?」
ぼっち飯を見かねて――ではなくて完璧美少女のわたしと昼食をともにする栄誉に浴するチャンスと見定めて、青葉ミズキが少し離れた席から声をかけてきた。
「パス。かまわないでよ」
いかに攻略対象キャラといえど、いつもいつもわたしに愛想良くしてもらえると思ったら大間違いなのだ。
わたしのやさぐれた態度に――間違えた。わたしの憂愁に満ちた神々しいばかりの雰囲気に美少年は呆れたため息をつき――また間違えた。恍惚の吐息をもらし、自分のお弁当を持って仲間の輪を抜けてわたしの前の席に座った。
「一緒に食べよ。ほら、弁当箱もっとそっちに寄せて」
「何なの? そりゃ沈魚落雁、閉月羞花の美少女であるわたしと少しでも一緒にいたいって気持ちはわからないでもないけど」
「なんだ、元気じゃん。ふさいでるのかと思ってちょっと心配してたのに、それだけ冗談言えるんだからなあ」
「はあ?」
(冗談?)
それこそ冗談だろう。
「全然隠せてないから。このあいだからずっと眉間にしわ寄ってるよ」
女に向かって、それも宇宙開闢以来最高の美少女の顔にしわが寄っているなどと、この男は正気なのだろうか?
「寄ってない」
「それならいいよ、もうそれでも」
美少年は肩をすくめた。
昼食をとり終えて雑談に興じていると、廊下からきゃぴきゃぴした聞き覚えがあるような気がする女の声が聞こえてきた。瞬時にうんざりして席を立とうとしたけど、美少年が手首をつかんで引きとめた。
「どこに行くつもり?」
一応振り払おうとしたけど、美少年は愛くるしい笑顔のまま、獲物を捕らえたアマゾン川のワニのようにわたしを放さなかった。
「やっほー、青葉くん! 遊びに来ちゃった」
教室のドアを勢いよく開けて、はしゃいだテンションの鬱陶しい女が現れた。わたしの繊細でたおやかで趣あるピンク色とはまた違った、紫がかった明るいフューシャ・ピンクの髪の女。『愛されモテガール』風のファッションが大好きで、制服のスカートはあと3センチ短ければベルトになりそうな代物に改造してある。顔は上の下。生まれた瞬間に美の殿堂入りしているわたしとは比べるべくもないけど、その他と比べるなら善戦しているほうだと言えた。
「来たよ」
美少年は嫌そうに呟いてわたしの背に隠れた。どうやらわたしを防波堤にするつもりらしかった。
「青葉くん! ……春風さん?」
わたしを視界に入れた瞬間、女のテンションは急落した。
「えーと、この人誰?」
わたしは彼女を無視し、無邪気を装って美少年に尋ねた。
「2組の庄司さんだよ」
わたしは椅子から立ち上がり、軽く微笑みかけた。
「春風ミユウだよ。よろしくね」
女はぽかんと突っ立っていた。わたしは女を見下ろしていた。彼女の身長は160センチないくらい。対するわたしは167センチ。そしてアピールのためにスカートを短くする必要なんてない、長く形のいい脚を持っていた。
女は最初わたしを無視しようとした。
「青葉くん、わたしのことはカレンって呼んでいいって言ってるのに」
「だってさ、ミズキ。わたしのことは名前で呼ぶのにね」
美少年をからかうように言うと、女はわたしを力いっぱい睨みつけた。わたしはびくともせず、優雅に椅子に座りなおした。これによってわたしは明確に敵と認識された。
「そう言えば、春風さん、深川さんと福田さんはどうしたの?」
「食堂にいると思うよ」
「ううん、そうじゃなくて。最近一緒にいるところを見ないなって。どうかしたの?」
女は鋭い爪をむき出しにしてわたしをなぶりにかかった。わたしたちの関係悪化を知っていてわざわざ訊いていることは明らかだった。
(あんたに関係ないでしょ!)
頭に血が昇りかかったけど、冷静になろうと努めた。
美少年は瞳を輝かせて楽しそうに高みの見物を決め込んでいた。
(こいつがこの女をどうにかすべきじゃないの!?)
わたしが足で小突くと、美少年はもっとやれとばかりに空中にパンチを繰り出す動作をして忍び笑いを漏らした。完全に観戦気分で、カウチとポテトがほしいな、と言わんばかりだった。これにはさすがにカチンときた。
(部外者じゃなくて当事者だってこと忘れてるんじゃないの? 思い出させてあげなきゃいけないみたいね)
わたしは美少年の腕に親しげに触れた。
「ミズキがさあ、最近わたしのそばを離れないせいでふたりとも遠慮しちゃってるんだよね」
「は!? ちょ!」
美少年はぎょっとしたようすで、わたしの手を払い落した。
女はたちまち言葉を失った。両目は皿のように見開かれ、わたしと美少年を凝視していた。そして言葉をようよう絞り出した。
「嘘よね? だって春風さんは深川さんと……」
「嘘じゃないよ。今日だってふたりでお昼ご飯食べたんだよ。そうだよね、ミズキ?」
「いや、それは――」
「わたしは来ないでって言ったのに、強引に前の席に座っちゃってさ。可愛いところあるよね」
「青葉くんが? 嘘つかないでよ! どうせあんたが……!」
女は憤死しかけていた。顔は真っ赤で、なんとかわたしの言葉を否定しようと必死だった。
彼女が青葉ミズキ狙いなのは同級生なら誰もが知っていた。むしろそれをアピールして他の女を牽制しているところがあった。わたしが青葉くんと付き合うんだからちょっかいかけないでよね、という風に。当然美少年と近しいわたしは日頃から敵意のこもった視線を受けていて、このごろではうんざりしきっていた。やり返す機会を逃すわたしではない。
美少年の仲間のほうに視線を送ると、彼らは苦笑しつつもうなずいてわたしの言葉を肯定した。女は唖然とし、目にみるみる涙がたまっていった。
「そんなの嫌だ……。付き合ってるの?」
「それはないよ」
美少年は即座に否定したけど、わたしはこれで終わらせる気はなかった。
「恥ずかしがっちゃって! まあミズキもこう言ってるし、ご想像にお任せするってことで」
「どうなの、青葉くん?」
すがるような声はほとんど悲鳴じみていた。
わたしはそろそろ潮時だろうと思っていた。美少年が否定し、わたしが煙に巻き、終わり。彼女を大いにあわてさせたことでわたしの胸もすいたし、敗北を受け入れたなら逃げ道を残しておいてあげるのがわたしの喧嘩の作法だった。キャットファイトは望むところだけど、ネズミをいたぶるのはわたしの趣味ではないのだ。
美少年は少し考え、静かに言った。
「――付き合ってるよ」
「…………え?」
「だからごめんね、庄司さん」
女はついに泣き出し、身をひるがえして走り出て行った。わたしはその後ろ姿を呆然と見送った。
『付き合ってるよ』『付き合ってるよ』『付き合ってるよ』……。意味をなさない言葉がわたしの脳内をリフレインしていた。いや違う。周囲のほかの人間には十分意味のある、それどころか重要な言葉として受けとめられていた。
「あのふたりってやっぱりできてたんだ」
そんなとんでもないささやきが聞こえてきて、わたしはたまらず美少年に噛みついた。
「ちょっとミズキ、あんたなんてことを……!」
「まあまあ。ちょっと来てよ」
そう言う美少年に手をひかれ、ショック状態に陥っていたわたしは愚かにも何の釈明も否定もすることなくその場を後にしてしまった。
美少年は廊下をぶらぶらと歩きながら言った。
「よく考えたら、付き合ってることにした方が何かと面倒がなくていいかなと」
わたしは美少年の首を締めあげたい衝動に駆られた。
「あんた、なんてことを言ってくれちゃったの!?」
「僕と付き合ってるって思われるの、嫌?」
「嫌にきまってるよね!」
「え、ひどくない?」
「どっちが!」
こんなところでわたしの逆ハーレム計画が御破算にされるとは思ってもみなかった。わたしの頭は真っ白だった。
現実において逆ハーレムルートを成立させるには無尽蔵のバイタリティと達人のバランス感覚が要求される。すべてのキャラの好感度をマックスまで高め、維持し、誰かひとりを決して選ばず、その洒落にならない泥沼の関係を円満に成立させなければならない。厚顔さと度胸と愛嬌、それから手管をありったけ動員する必要がある。
(そう、『誰かひとりを決して選ばず』だよ! 彼氏とか冗談じゃないって!)
「やめてよ、もう、最悪だよ!」
「そこまで言わなくても……。僕ってけっこう尽くすタイプなんだけどなあ」
美少年は不満そうにくちびるをとがらせた。
「やかましい!」
「傷つくなあ。でももう諦めなよ。吐いた唾は飲めないからね。口から出れば世間とも言うよね。まあ表現は何だっていいんだけど。僕たちが付き合ってるっていうのは否定してももう否定しきれないと思うな」
わたしは恨みがましい眼差しを投げつけた。
「ミズキ、あんたわたしの人生に責任とってくれるんでしょうね!?」
こいつの余計なひと言のせいで、わたしの逆ハーレムにかけた今までの人生が泡沫のようなものに変えられてしまった。それでもわたしは逆ハーレムに未練たらたらだった。
美少年はおかしそうに笑った。
「結婚でもする?」
「殺してもいい?」
わたしは半ば真剣だった。