7月 告白(2)
――side: 春風ミユウ
「ちょっと、ミユウさん」
何度目かになる呼び声をかき消すために、わたしはテレビのリモコンを引っ掴んで音量を上げた。
「ミユウさん! ご近所迷惑ですよ!」
「うるっさい! 用が済んだならもう帰ってよ! わたしのことなんか放っといて!」
比例して大きくなる家政婦の声にさらに腹を立てて、テレビを消して代わりに自分の声でわめいた。そのままソファにうつぶせに突っ伏してクッションで耳をふさぎ、誰の指示も受けないという姿勢を鮮明に打ち出した。
「ねえ、お願いですから、こっちを向いて。学校で何かあったんでしょう?」
返事としてクッションをひとつ後ろに投げた。
「じゃあそれでもいいですから、聞いて。わたしね、あなたのことが心配なんです。今日は学校から帰ってきてからいつもと全然様子が違うじゃないですか。そりゃわたしはただの家政婦ですし、話しにくいこともいろいろおありでしょうけど……。でもご両親は遠くにいらっしゃるし、何かお困りのことがあるならわたしがお助けしますよ。できることならね。でもそれにはまず何があったか話してくれなくっちゃ……」
家政婦がごちゃごちゃ言っているあいだ、わたしは身じろぎ一つしなかった。ため息が聞こえて、心配と呆れと苛立ちを含んだ沈黙が通り過ぎて行っても、わたしは意地を貫き通した。途中、無防備なところを卑怯にも睡魔に襲われたものの数時間後に見事わたしが打ち勝つという一幕もあり、体を起こしたときにはすでにとっぷり日が暮れていて、家政婦の姿もなくなっていた。
「最悪……」
ソファからのろのろと降り、足を引きずってダイニングルームに入ると、テーブルの上にラップのかかった夕食が用意されていた。
「サバと大根の味噌煮、紅白なます、小松菜のお浸し……もっとケミカルでジャンキーなものはないの?」
体に良いものを食べたい気分ではなかった。保存庫内を漁ると非常食のカップラーメンが出てきたので、お湯を入れて、時間も計らず適当なところで蓋をとって食べた。
「……まずい。何これ超まずい。野菜とか煮殺されてるし。ていうかこれ本当に野菜? 紙なんじゃないの? 最低。腹立つ。もう全部――シズカのせいだよ」
言葉にして口に出せば、胸の中にわだかまっている怒りが強く大きくなった。
「シズカ、シズカ、シズカ! 何も知りませんって顔して! 男には興味ありません、みたいなふりして! なによ、結局あの子も……!」
じっと座ってなんかいられなくて、椅子から立ちあがって家中を歩き回ってはクッションを振り回してそこら中に当たり散らした。
「信じらんない! わたしのこと、プレイヤーだってわかってたんじゃない! わたしが頑張って高感度上げしてる裏でうまく立ち回って! ラブレターなんかもらっちゃって! わたしを馬鹿にして! なーにが、こんなのwikiに全部書いてあった、よ! ふざけないでよ!」
リビングルームの花瓶に飾られていた花束が目に入った。ピンク色の薔薇を主役にした可愛らしい花束。2、3日前にシズカが庭で摘んで、丁寧に包装紙に包んでからくれたものだった。わたしは衝動的に花をつかみ、床に投げ捨てていた。
「こんなもの!」
散らかった花にクッションを振り下ろそうとしたけど、シズカの内気な優しい笑みが浮かんで手が動かず、どうにもやりきれない気持ちがひたひたと胸をいっぱいにした。
激情が去ると虚脱感が襲ってきて、わたしはのろのろと自室に入り、ベッドに倒れこむとキルト地のかけ布団の中にもぐりこんだ。目を閉じるとまたシズカの笑顔が思い浮かんだ。それから別れ際の泣きそうな顔が。シズカに何と言って、どうやって別れたのかは、よく思い出せなかった。
誰かの気持ちがこちらを向いていると思うだけで、自分はきれいなんだとか生きているんだとか、うれしい気持ちになれた。そんな風に思うのは感傷的にすぎるとはわかっていた。誰にも、特にユウコにはこんなことは恥ずかしくて言えない。ユウコなら自分に自信を持つのに男なんか必要ではないと言うだろう。わたしだって、自分がいい女――謙遜をやめて適切に評価するなら人類史上最高の女――であることは確信している。でも自分がわかっているだけでは十分ではなかった。認めてもらいたかった。
昔からわたしの周りにいた女は、嫉妬に駆られてとち狂った馬鹿女軍団だけだった。そうでない女はみんなわたしを遠巻きにして触れてこようともしなかった。まるでわたしが何かの病原体で、接触感染を恐れてでもいるかのように。その考えが間違っていたわけでもない。わたしと仲良くなることは馬鹿女軍団に目をつけられることと同義だったのだから。
わたしが男とばかり仲良くなったのも無理からぬことと思うけど、それが女たちの目にどう映っていたのかについては想像力を働かせる必要も大してない。信じられないくらい陰口をたたかれた。わたしの小さなチャームポイントは欠点として挙げられ、鬼の首を取ったかのような調子で延々ととやかく言われた。その際の彼女たちのモチベーションたるや、原子力や太陽光に代わる夢の次世代エネルギーとして世界中から注目されてもおかしくないほどだった。
「女なんてやっぱり当てにならないんだよ。しょうがないよ。自分より優れた同性を嫌うのは動物の本能だもん」
だから論理的に考えるならば、わたしはすべての女から嫌われたり避けられたりしなければおかしいのだ。わかっていたはずなのに、どうしてシズカとユウコを例外のように思っていたのか。彼女たちと今まで仲良くできていたことがそもそも奇跡みたいなものだった。
朝になったらいつも通りの完璧に素晴らしいわたしに戻っているはずだった。なのに、翌日になってもわたしは憂鬱さを引きずっていた。鏡をのぞきこんでも表情に翳りを帯びてより一層美しく大人っぽくなったわたしがいるだけで、軽やかさも明朗さも見つけだすことはできなかった。妖精の翅は失われてしまっていた。
登校して教室に入っていくと、すでにシズカは来ていた。
シズカをデリカシーに欠けると非難することは誰にもできない。シズカは言葉、態度、服装、いずれにおいても控え目で、花を愛する繊細な感受性を持っていた。短いスカートやひっきりなしにいじられる携帯電話が象徴する今時の女子高生とは似ても似つかない彼女の精神性や雰囲気を、わたしはこっそり好んでいた。シズカは、今は窓際の席で、朝の清らかな光の中で本を読んでいた。つややかな黒髪は銀色の光輪のように輝いている。その一角だけが別の世界のようだった。
(かまととぶりっこ)
何も知らないみたいな純粋そうな顔で、その実ゲームの情報を持っていて、男たちを攻略しようと振舞うわたしを黙って見ていたなんて、本当に我慢ならないことだった。シズカの目にどれだけわたしは滑稽に映っていたことだろう?
シズカは視線を感じたのかわたしのほうを見上げた。目が合ったわたしたちは、睨みつけたりぎこちない笑みを浮かべたりする代わりに、どちらからともなく目をそらした。
「あんたたち、一体どうしたの?」
2限目の移動教室のとき、教材を持って廊下を歩くわたしの横にユウコが並んで言った。
「あんたたち?」
「あんたとシズカよ。喧嘩でもした?」
「……別に」
「別に? ふざけてんの? 朝から全然口も利いてないじゃない」
ユウコは眉を吊り上げた。
否定もごまかしも意味がないので、わたしは認めてうなずいた。
「まあね」
「まあね、じゃないよ。まったくもう。原因は何なの? 喧嘩? じゃないよね? お互い目も合わさない、口も利かないって割に無視しあってる空気じゃないものね。緊張と気まずさって感じ」
ユウコに事の次第をうまく説明できるとは思わなかった。
近くをやはり移動教室のために歩いているシズカをちらりと見ると、目が合ったように感じたものの、それも一瞬のことだった。すぐに歩調を落として距離を取られてしまった。その態度にもさらに腹が立った。
「わたし、怒ってるんだよ」
ユウコは緑色の髪の毛をかき上げた。口元にシニカルな笑みが刻まれていた。
「怒ってる? 違うでしょ。ミユウ、あんた、傷ついてるのよ。シズカの顔もろくに見れないくせに」
「傷ついてる? わたしが?」
わたしはせせら笑った。少なくとも、そうしようとした。しかしユウコは意見を変えなかった。
「そうでしょ」
そしてユウコはいかにも彼女らしい割り切りでわたしとシズカに友情を示した。
「何があったかは知らないけどさ。シズカも何も話したくない、ミユウから聞いてって言うし。事情がわからないわたしとしては仲裁もできないし、どっちかとだけ仲良くするつもりもないから、ちょっとあんたたちと距離を取ることにする。今こうやってミユウと話してるのもシズカに悪い気がしてるのよね。ま、そういうことだから、シズカと仲直りしたら声かけて」
じゃあね、と言ってユウコはあっさり隣を離れて行った。
この時からわたしたち3人はバラバラになった。
――side: 黄葉コウタロウ
「そろそろ時期だと思ってたよ」
副会長の橙花チトセはニヒルに上げた口元で言った。
「もう2カ月は惚れてなかったからな」
机には新聞部が発行している『flash+』が広げられていた。その一面には我らが生徒会庶務の藍葉ヒカリがある女子生徒に目下お熱であるとの記事が載っていた。
双子の藍葉兄弟は無邪気で陽気なやつらであり、学園の人気者だった。パーティーや遊びには必ず誘われるし、彼らが長期休暇をどこですごすのかを知ってから自分の休暇の予定を立てはじめるやつらも多かった。楽しい時間を過ごしたいと思ったなら誰よりも先に選ぶのが藍葉兄弟だった。とはいえ彼らにも改善の余地がないわけではない。ヒカリに限って言うなら、世界の半分の人間に愛の告白をしかねない、その惚れっぽさが問題だった。
ヒカリがこの手の記事に登場するのはもはやいつものことであり、新聞部からもネタキャラとして扱われている節があった。半年ほど前には1日でふたりの人間に惚れ、1週間で5人の人間に告白してふられるという離れ業もやってのけている。その模様を報じた号は学園中で話題になって増刷までされていた。
(馬鹿馬鹿しい)
ヒカリは自身の恋愛報道に関してすぎるほどに寛容だった。オレなら自分のプライベートをこんな風にさらけ出すなんて絶対にごめんだ。そのあたりは新聞部も心得ていて、恋愛報道はヒカリのものだけしか出ていなかった。
「今度は誰なんだ?」
会長の赤葉キョウスケは仕事が一段落ついたところなのか、椅子に深く背を預けた。右手でボールペンがくるりと回る。
「1年の深川シズカちゃん。執行部員だよ。知ってるだろ?」
「あ? ああ、ふーん、深川ね。くだらねえ」
赤葉キョウスケは顰め面をして、それから興味なさそうに天を仰いだ。橙花チトセはさも意外そうな声を出した。
「シズカちゃん、キョウスケが連れてきたんだろ? 心配してやらないの?」
「誰と付き合うかなんか深川の勝手だろ。自分がどうしたいのかもわからない愚図に関わったつもりもない」
「へえ。オレはてっきりお前がシズカちゃんを狙ってるんじゃないかと思ってたよ」
「はあ? なんで」
「キョウスケ、浮いた噂のひとつもないだろ。でもシズカちゃんとはけっこう話すらしいって聞けば、そりゃあね」
赤葉キョウスケはうんざりだと言いたげに、あからさまに嘆息した。
「なんだ、その恋愛脳は? ちょっと話しただけで好きだの付き合うだの何だの……小学生かよ。勘弁しろよ」
「ふーん……?」
くだらねえ、ともう一度言って話を切り上げるように席を立つ赤葉キョウスケを、眇められたオレンジ色の目がじっと見ていた。
(まったく、この人は)
橙花チトセの悪癖がまた始まる気配があった。
自分には関係のないことだと即座に知らんぷりを決め込むオレの目の前に書類が突き出された。顔を上げると赤葉キョウスケが、早く受け取れよ、と文句を垂れた。書類に視線を戻すと、赤葉キョウスケの許可の証印が捺されていた。
「いいんじゃないか。やってみろよ」
「ありがとうございます」
オレが受け取るとそのまま役員室を出てどこかに行ってしまった。オレは机の下でぎゅっとこぶしを握った。
(よし。最初の関門を抜けたな)
「いやあ、キョウスケ、どこまで本気かねえ?」
橙花チトセは楽しげに言って、隣の席のアカリの紙パック入りアップルジュースを奪って飲んだ。
「ちょっと! オレのアップルジュース!」
「はは、悪い悪い。おいしそうだなと思って」
「……返さないでよー。もういらないよー。残りはチトセ先輩にあげるから」
「新しいのを買ってきてやるよ。アカリ、このオレをパシリに使うなんて、えらくなったもんだな」
「なにそれ理不尽! 勝手に人のを飲んどいてその言い草! 頼んでもないのに」
(仕事しろよ)
赤葉キョウスケがいなくなるや否やすぐにこれだ。
オレはふたりのじゃれ合いを遮ってアカリに訊いた。
「ヒカリはどこ行った?」
アカリは橙花チトセの机に広げられていた『flash+』を指差し、次に窓を指差した。
「薔薇園」
「は?」
アカリは肩をすくめるだけでそれ以上何も言わなかった。
窓の下をのぞきこむと、旧校舎裏に広がる薔薇園――今年は何の臆面もなく確信を持ってそこを薔薇園と呼べた――に、アカリと深川シズカの姿があった。葉や枝が茂っていてはっきりと見えるわけではなかったが、輪郭と色彩で彼らだと見当はついた。
「もう付き合ってるのか?」
「付きまとってるんだよー」
アカリはけらけら笑いながら答えた。
橙花チトセは苦笑し、机に優雅に頬杖をついて真率そうな顔をつくった。
「オレのアドバイスだよ。まずは親交を深めるべきなんじゃないかって。そうだろ? あいつはいつも性急に事を運ぼうとしすぎる。相手にも相手のペースや距離感ってものがあるんだから、男だったらそこを慮ってやれる余裕がほしいよな。
シズカちゃんはただでさえガードが堅い。よく知りもしない男には股どころか口も開かない。言うまでもなく、気まぐれな男に付き合うような女の子じゃない。一途なんだ。だったらヒカリは自分の本気を見せないとだめだろ?」
「そんなものがあったらの話だけどー」
「ま、何にせよ、お互いの人となりも知らないで関係の進展はないだろ。シズカちゃんが絆されるよりはヒカリが焦れて飽きるほうが早そうだが、それで誰が困るわけでもないし。仮にうまくいかなかったとしても、あいつが人との付き合い方を見直すきっかけになればいいなーという、先輩のありがたい思いやりだよ」
見事に自分のことを棚上げして橙花チトセは嘯いた。
仮にその試みがうまくいったとしても、ヒカリの常軌を逸した惚れっぽさが変わらない限り、オリジナルよりもっと質の悪い第二の橙花チトセが生まれるだけではないだろうかという気がした。
「はあ、そんなもんですかね」
恋愛経験が少ないせいでよくわからなかった。
「オレが彼女だったら、せっかくの趣味の時間にあんなやつに周りをうろちょろされて耳元でぎゃあぎゃあわめかれるのは願い下げですけどね」
橙花チトセはにっこりと笑った。
「まあ、そういう側面もあるな」